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母としての自覚

作者: 悠子





私が取引先の男性と結婚したのは、まだ社会人として胸を張って言えるような年齢ではなかった。商社の事務として就職して数年。仕事には慣れて年齢が近い後輩たちと切磋琢磨しあい、優しくも厳しい先輩たちに囲まれてこれといって追記するまでもない平坦な人生を送っていた。



いつものように来賓の方を応接室や会議室へご案内していたとき、その人がいた。

最初は挨拶する程度の間柄だったが、珍しくも買い出しに出ていた街道で会ってから取引先の社員と事務員とのありふれた関係から進展していった。



交際から約一年、彼の部屋で華奢で品のある婚約指輪と共にプロポーズをされた。彼は黒く柔らかそうな髪の間から覗く耳を真っ赤に染めて、辿々しく私に家族になってほしいと言ってくれた。断る理由もなく二つ返事でうけとった。



主人は近年急成長している企業のエリート商社マンだった。私のお腹に子供がいるとわかった途端、専業主婦になってくれといわれた。もともと結婚したあとも仕事をやめて家庭に入ってくれと言っていたけれど、のんびり家で過ごすのは性にあわないと続けていたようなものだったのだから、特に驚きもせず私は家庭を守る人となった。



特に悪阻持ちではなかった私は、少し古風だが産まれてくる子供のために縫い物を始めた。毎日少しずつ進んでいく縫い物に主人も穏やかな顔をして応援してくれた。


私が晩御飯のお鍋を持ち食卓へ運ぼうとすると気弱そうで困ったように眉を下げて頬笑む顔を焦りと不安に染めて心配だから辞めてくれと代わりに運んでくれる。


洗濯物を干そうと籠を持ち上げると先程までリビングで新聞を読んでいたはずの彼が走ってくる。そんな優しくて少し過保護な彼に私がふふ、と笑みをこぼすといつものように困ったように笑うのだ。



仕事を始めればいつも下がっている眉がキリッと凛々しくなり、私が玄関で彼の帰りを迎えるとふわっと緩く頬笑む温かい笑顔をもつ旦那様と、これから産まれてくるだろう子供を待つ日々は幸福に包まれていた。ありふれているようでありふれていないこの幸せは私たち家族を優しい色をしているに違いない。



今か今かと待ち続けて、予定日があと一週間でくるという曇り空のある日、突然始まった陣痛に軽いパニックになった。

わたしの実家は地方でここに来るまでに何時間とかかってしまうし、主人も同じだ。そして平日の昼間だから彼はいまも仕事に人力しているだろう。定期検診のときに医者に言われた通り陣痛の間隔が小さくなった頃。いよいよだと痛くて仕方ない体にムチを打ってタクシーで産婦人科に向かった。


なかなか出てこない子供に声をあげずにはいられない痛さ。周りには家族がいない寂しさと相まってこのまま押し潰されそうだ。


看護師にそんなに大声を出したら子供が驚いて出てこないと言われる。そんなこと言ってる場合かと、鼻からスイカとはうまい例えをしたものだと涙を流し痛みに耐える。もう回りが見えないでいた。なにも見えない、聞こえもしない世界のなかに私だけがこの痛みと戦っていた。


意識が朦朧とするなかシーツを強く握りしめていたわたしの手の甲に温かさが伝わってきた。それまでもなにかが触れた気はしていたが、この温かさは知っている。求めていた温かさだと、きつく閉じていた瞼を開けると彼が自分も私と同じくらいの痛みと戦っているかのように眉間に谷を作っていた。普段穏やかな彼が、だ。



先程まで一人だと感じていたこの世界がふわっと光り、この場所に戻ってきたようだった。彼は何度もわたしの名前を呼んで手を擦ってくれた。私はこの人のためにこの子を産むんだと漠然と感じた。


この優しくて少し過保護で、穏やかで私と同じ気持ちになってくれる雪どけのような温かさをもつこのひとのために。実感がなかったわけではない。それでもどこかふわふわしていた親としての自覚が、いま私の心のなかにそっと居場所を見つけたようだった。



そのときは一瞬だった。



先程までとは比べ物にならない痛みが私の体に襲った。あげる声さえないと掴んだものに爪を立て、どこかへ痛みを追いやろうとする。しかし痛みは私のからだのなかに居続けていた。遠くから声が聞こえる。甲高くて少し掠れている。その声に愛しさが込み上げてくる。


ああ、産まれたのだと確信した。痛みは引かなければ、回りの声も聞こえず見えもしないなかで彼の瞳から一粒の滴がこぼれた。ぼうっと火照った意識のなか、その滴は綺麗な輝きを放ちながら落ちていった。それはまるでトパーズのよう。





かれの手には爪痕がついていた。

















大きく膨らんだお腹を大事そうに手を添えて愛おしそうに撫でる彼女の顔にはこれからの期待と不安が織り混ざっていた。

そして彼女は私に問うた。お母さんはいつ母親の自覚がついたの?と。

まさか娘からそう聞かれるとは思っていたかった私はぽかんと口を開けたあと、ふふっと手を添えて笑った。

娘は彼に似た瞳をきょとんとさせ、なんで笑ってるのと目尻を下げた。その表情はいつかみた彼にそっくりだ。

ああやはりわたしは、


「お父さんのために産むんだと気づいた時かな」




彼のためならばあの痛みを何度でも喜んで受け入れようと考えるのだろう。






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