第1話 サリーのこと
サリーはずっと、女の様な名前が嫌いだった。幼い頃から周りの子供達にバカにされ、からかわれ続けてきた。他人を貶し傷付けていることに気付ける子供は残念なことにおらず、その無垢な残忍性は常日頃からサリーの胸を刺していた。
けれど2年前、海沿いに佇むこの小屋で暮らすようになってからは一転、心から気に入っていた。
サリーは内向的な小村に産まれたが、10歳の頃に流行り病で母親が死んだ。父親は、分からない。
村では女は生殖の道具の様に扱われており、サリーが物心ついてからも毎日立ち替わりに自宅へと出入りする少なくない男達の内、誰が自分の父親なのかなどサリーは愚か、母親も男達も分からなかった。
しかしそんな光景は村では別段珍しくもなく、不憫に感じたり、嫌悪感を抱く心の有り様を、村人達は誰も持ち合わせていなかった。
サリーの母親が死んだのと同時期に、同じような理由で親を亡くした3人の子供達と共に、サリーは村長宅に引き取られた。懐深そうな慈愛の笑みでサリー達を招き入れた村長は、しかし悪魔だった。
悪魔に見初められてからの生活は、それは悲惨なものだった。村長宅に隣接したうすい木材で建てられた地面すら剥き出しの四角形。それは家屋だとか建造物などと呼ぶのが烏滸がましい、押せば倒れそうな程に脆いハリボテのような空間。中は無駄に広く50メートル四方といったところか。サリーを含め子供達はその空間で身を寄せるように隅に固まり、扉横の小窓から日に一度だけ配当される黒パンや野菜のクズを、なんの感情もなく咀嚼していた。
外に出るのは禁止されていた為(外から頑丈に施錠されていた為)、排泄は身を寄せる場所の対角線上の隅で済ませる。そしておおよそ一月に一度扉が解錠されると、悪魔が子供を一人連れ去る。悪魔の隣にはいつも決まって小太りの中年男性がおり、ゴテゴテとやかましいアクセサリーに身を包み厭らしい笑みを浮かべていた。
夏の終わり頃から始まった悲惨な生活だが、冬の気配が深まる頃になると、残ったのはサリー一人になった。そしてーーーー
まだ返り血の乾かない満身創痍の身体で辿り着いたこの小屋は、例の空間に比べればマシだったものの、あばら家と言っていいほど廃れていて、生活に必要な物資がある訳もなく、雨風を避けるのにも難儀するほどだった。しかし、サリーは小屋を一目見て何故か分かった。小屋や海、周りを取り囲む景観は全て「絵」のピースの様なもので、サリーもまたそうだった。造形、色彩、存在、生命。余すところなく求められたのは『サリー』だ。
湿り気を帯びた潮風が温く柔らかく、海辺に立つサリーの茶色い髪を揺らす。辺りの気温は肌で感じられる程に急激に下がっていく。手作業で次々にトーン貼りされるように、夜が夕を包むこの時間に身を置くのが、サリーは何よりも好きだった。何故か唯一小屋に置いてあった、既に湿気ている煙草を吸っては噎せながら、流れる煙を馴染ませる。纏わせる。
それも必要なピースだった。
サリーはその日、いつもの様に目を覚ました。窓から射し込む陽光に目を細めながら軽く伸びをする。朝食はシャリシャリとした食感と優しい甘さの果実アプの実。窓から見える海はいつもと変わりない。波が濡らした砂浜は、次に押し寄せた波によってその形が変えられていく。白い波間はさざめき、弾け、流れる。サリーは嬉しくなる。ここには余計なものは何もない。サリーが視認できるこの空間が、サリーにとっての全てだ。しばらく眺めた後、軽く鼻唄を口ずさみながら外へ出る。潮の香りに満ちた早朝の海の風を全身に浴びながら、背後を取り囲む森へと足を向ける。
しばらく歩くと鳥達が一斉に飛び立ち、葉擦れする音と共に3メートル程の熊が現れた。眼光は赤く鋭い。
サリーが住まうこの世界には魔物が存在する。現れた熊も魔物の一種だ。魔物は人々にとって脅威であり、また生活の糧でもある。ハンターと呼ばれる、魔物の狩猟、討伐を専門に扱う職業も存在する。
しかしサリーにそんな知識はなかった。小村に住まう村人にとって、魔物の存在は天災と呼ぶに等しいものだった。閉鎖的な村は自給自足で成り立っており、外界の情報など皆無に等しい。どこかの国に勇者が生まれようと、どこかの凄腕ハンターが龍を討伐しようと、村人には何ら関係はない。そんなことに一喜一憂する暇があるならば、藁を紡いで虫除け帽子を作ったり、動物を狩って食料を調達した方が余程生産的だと皆考えていた。というよりも、他の思考に辿り着く余地などなかった。幸か不幸か、村の周りに魔物の生息地帯は存在しておらず、村人が魔物と遭遇しないという事実が、閉鎖的な考えに発破をかけていた。
そんな背景のせいで、サリーは熊を野生の動物と思い込んでいる。この二年間で幾つかの死線を乗り越えてきたサリーは、興奮も怯えもない自然な眼差しを熊へと向ける。サリーにとって大切なのは生きて小屋に収まること以外には何もなかった。熊の魔物は眼前に立つ自分より小さい者の色のない態度に怒り、戸惑う。いくら唸りを上げようが、歯を剥き出しに威嚇しようが、小さい者は一向に動じない。
長く続く睨み合いにやがて痺れを切らし、熊はこれまで培ってきた弱肉強食の経験則に乗っ取って、全力でサリーへと飛び掛かる。丈夫な牙、鋭い爪、屈強な肉体。その全てでもって小さい者を己の糧にしようと。
熊の魔物がその生の最期に見たのは、首のない自身の身体と、その横で風の刃を右手に纏う小さい者の姿だった。