祈り子の聖域/後天性マナ憑依症
雨之宮、まるでここが日本と言うかのような言い草に首をかしげ、しかし自分の名も明かさないのはあまりに不敬のように思えたのでこちらも名を明かそうとした。
……そう、『明かそうとした』である。
──忘れるはずがない自分の名前が、分からない。
「私」はその事で混乱──いや待て、なぜ自分はさも当然のように女言葉で話せている?
そもそもとして男として生きていた感覚は残っているのに、なぜ女性としての暮らしに木造家屋で疑問を抱かなかった!?
それとも「俺」という記憶自体がまやかしなのか?
そうだ、神なんて存在があるかどうかも分からない。でも精霊なんていう何かがあるのだから、神だって居るかもしれない。
頭の中でぐちゃぐちゃな思考が回り続ける。
転生なんて本当にあったのか?
本当に転生する前の人生があったのか?
あの真っ白な世界で会った『何か』は本当に神なのか?
今「■■」は夢を見ているだけではないか?
……そも、自分は生物として生きているのか?
思い浮かぶ全ての問いに、否定肯定どちらも返せない。
頭がおかしくなりたい、などともし物語ならそう書かれるのだろうが、今は頭がおかしくなっているからこそ混乱しているのだ。
やがて自分を突き刺し続ける問いに対して、恐怖を抱き始める。
まるで存在自体否定する疑問のようで。
恐怖は即座に不快感に変わり吐き気へと繋がっていく。
声が聞こえる。優しげながらも威厳が感じられる渋い男の声と、快活で人懐っこそうな幼い女の声が、聞こえる。
だけど、「■■」はその声を聴けない。
せり上がってくる吐き気が吐瀉物としてはき出されないように、必死に堪える。
一度のぼりきった汚物を無理やり飲み込むが、その抵抗をあざ笑うように再び胃の中にあるはずのものが逆流してくる。
堪えきれず嘔吐。しかし不快感はおさまらず、吐き気ものこっている。
それでもかなり楽にはなったと思った。
「──梓、治療早く!」
「分かってる!」
片付けないと、いけないな。
なぜか考えるより先に行動に移る。
目の前にはぶちまけられた赤色の嘔吐物を片付けようとするも道具がない。
どこに片付ければ良いのか?
そうだ、食べれば良い。
胃の中にあったんだからきっと食べられる。だから、綺麗に残さず全部食べてしまえば──
直後、私は正常に戻る。
見れば目の前には、吐き出された血を掬い飲もうとする自分の両手があった。
明らかに狂気、異常な行動。それに対して私は──驚くぐらい納得していた。
そうだ。人間自分の存在が分からなくなったら狂いもする。ならあの行動は至って自分が正常である。証拠だと。
先程の行動にも、今の思考にも、戦慄一つ覚えずに。
「だ、大丈夫?」
褐色の肌をもつ、恩人の少女が心配そうに私に訊いてくる。
「あー、うん。大丈夫です。吐いてからはだいぶ楽になりました」
そう言うとひとまずくすんだ茶色の髪の少女は治癒魔法っぽい光を消してくれた。
その日、病人扱いされてお粥は作ってくれたものの、机とイスなどの贅沢品を得るための職には就けなかった。
☆
「……そう、か。おそらく彼女には自覚がないのか」
「恐らく。だけどそれ以上に彼女は『名前のない者』の一人だと思います」
「彼女は精霊だぞ!? それこそ全員名前があるような──」
「いえ、精霊でさえ名前があるものはごく僅かです。あの少女は名前を言おうとした途端にあの奇行に出ました。おそらく有るはずの名が分からない故でしょう」
「……そうか。主要都市の騎士共が彼女を狙わなければゆっくりと名前を定着させていきたいのだがな。無理だろう」
「ええ、ここ精霊の町に来るのもあと何日か分かったものではありません。下手をしたら明日にでも来るでしょう」
「ふむ……精霊との契りを交わした者を集めよ! 第六回神域防衛会議の通知をしろ!」
「分かりました!」
マナ
1 この世界の全てを構築する最小単位。
2 またはそれによって創られた、もしくは発生した魂などの非物質