曖昧さと厳密さ
物事を語るとき、厳密さを求めることで逆に曖昧な表現になってしまうことが多い。それは世界が複雑だからであり、そして我々人間の言語に限界があるからであり、また言語の限界以前に個人としての表現力に限界があるからだ。
そしてその曖昧さが物事の説明の際、本質に迫ることによって必然的に齎される“もの”である。(ものというか、概念というか、不確定性原理における ℏ/2π の幅みたいなというか、上手く言葉を見つけられなかったけれど、とにかく“なにか”である)
語り手の、あるいは言語の限界という壁を迂回し、相手の直観に訴えかける、または相手の理解力に頼ることしかできないことの結果として、その曖昧性が生起する。
だから僕は、その曖昧さは厳密さを追い求めた結果として生まれたものとして、ある種の信頼を置いていた。僕自身、これまで曖昧な表現を多用することが多かったかもしれない。
そしてなにかを説明するときに断言することは厳密さを欠いたものであり、どこまで信じていいのか分からなくて困惑することもあった。軽々しく物事を明言する人の言葉をあまり信用できないとも思っていた。
それは今でもそうだけれど、最近では、曖昧さを排除し、明言することも大切であると思うようになった。これは物理を学ぶ過程で得た新たな気づきだ。そして物理学(の手法)はその方法も教えてくれる。条件の付加や近似という漸近操作によって、明言、つまり曖昧性の低い表現が可能となるのだ。条件を限定してしまえば、その条件下での性質は、(比較的ではあるが)断言することができるようになる。
表面的ではあるけれど、哲学、物理学、数学を一応学んできたことで、安易に断言することは厳密さを欠いたことだと思うようになり、そして最近は明言を避けることは結局、理解や記憶を阻害することもあることに繋がると気づいた。
結局言いたかったこと。
曖昧さにある種の信頼を置いているのは今でもそうだし、安易に断言する人の言葉を鵜呑みにしたくないことにも変わりないけれど、条件を付与した上で断言することも大切だということ。
「一般的にこうです。例外もありますが」と言われると困るものである。僕自身こんな感じに話すことが多いと思う。反省すべきところだな。
ある物事をはっきりと示されることで僕のような学の浅い人間は安心するし、その他のことを理解する際にそれを利用できるのか否かも判断しやすくなるからね。
さて、結局ぼんやりした文章になってしまい、お読みになった方は靄の中を歩いているような気分になったかもしれない。
僕には言葉しかないのだから、頑張らなきゃな。
ボーダーラインケースのことにまったく触れなかったけど、まぁいいか。なんだか頭が重い。