9495。狂った。日常。最期の場所。
「上原さんいかがですか」
今日も医者が目の前にいる。どこをどのように私が何を患っているのかさえも、医者達は誰一人として発言しない。仕事はバーテンダー。体を合わす女、三人。三人とも同じ顔。しかし、私が自分の世界と他者の世界の大きな違いに大きな疑問を持っていることは確かな事である。その私の世界。行き着いた先が、精神病院の個室であった。
私は隔離された。硬いコンクリートの壁に囲まれた為、自意識が完全に崩れ落ち、自身の生命は同時に一瞬、散る。この個室に入室して長い時間が経過した。朝早くに布団をもぎ獲られ、その後は独りきり無欲の風の中にいた。
髭面の医者が重い扉を閉めた毎昼食後、毎度中年男性が、白衣を着て、乱暴土足無言で入室してくる。白いバッジには、『ヘルパー田口』黒字で書いてあり私へと菓子を与えるのである。その男は常に私を楽し気に睨みつけ、強引にドアを閉め、鍵をちゃらちゃらと鳴らし、笑顔で大きく手を振り、帰っていくのである。
「お前、ヘルパーなんだろう、だったら、仕事しろ。この馬鹿が」
無言。彼は菓子の袋を足で砕き、すぐさま、私の顔に痰唾をかけた。何も出来ないでいて、尚且つ感情でしか動けない私に向かい、田口は言った。
「上原君は、異常者なんだろう。ほら助けているじゃないか。わかるよな、僕の言いたいことぐらいは、ねえ、お坊ちゃま」
「わからない、全く、分かんねえよ。このクソ野郎」
叫び言う私の体を抱え、彼は白衣から黄黒のカッターナイフを取り出し私の右手薬指に傷を付け、私を独りにし、出て行った。動物本来の恨み。身体を傷つけられた動物本来の恨み。個人的感情のピーク。田口を壊してやりたい。恨みが追い討ちをかける、この世の果て。息を持続する為だけに処方される安定剤は遥か強く、喋る事も不器用になり、耳も音に鈍く反応する。
傷が出来てから三度太陽が昇るのを見た昼下がりにいつものように扉が開く。暗い廊下に見えた色は、やはり白。目の前には白衣の男が幾人か立っている。『医院長』と書かれたバッジを着用した初老の男は黒髪をなくしていて。その横の御方は白髪に付け加え、白い鼻毛が目立ち紳士の要素は皆無である。重役らしき坊主頭の二人、その右斜め後ろに整列は、田口。
「その指、どうしたんですか。痛くないですか」
医師二人が私を見物するのは、一瞬。彼等は、田口の顔を曇った表情でゆっくりと覗く事は忘れない。
「彼、ドアで挟んだんですよ。今後、注意を厳しくいたします」
私は指で仕事をしている人間である。指を大事にしないバーテンダー等、存在しない。人間としての権力を持ち合わせていない今の私に、権力の犬である田口は、飼い主の前で、三日前に出来あがった傷を白い包帯で処置をする。
「御自分のお名前をおっしゃって下さい」
「上原大地」
「御自分の年齢は」
「二十一」
「御自分のお誕生日は分かりますか」
「三月二十五日」
「いけそうですか」
「いけると思います」
「わかりました。約一時間後に閉鎖病棟に移ってもらいます。よろしいですね」
廊下を歩く。どのように個室に入室したのであろうかと云う事実さえも全く脳を手解いても身に覚えてはいない。両腕をグルグルと灰色のロープで巻かれとぼとぼと行く。私はきょろきょろと裸足で歩きその前を看護婦が歩いている。目で見えるもの、鉄の扉、痩せ細った少年。肥満のヘルパーに洗髪を任せている全裸の女性患者。差と区。これを別ける事を神は赦したのだろうか。
非常出口と書かれた緑の扉を潜り、閉鎖病棟と呼ばれるフロアに繰り出し、心と瞳で辺りを見渡す。入れ墨の男、歩くのが不器用な男、鼻水を流している男、口から擬音を発し誰かの名を呼ぶ男、所謂、精神障害男性。男しかいない。
「上原君、102号室ね。だいぶんうるさいけど我慢してね。傷、痛そうだね。ドアで挟んだんだって。しっかりしなさいよ、早く元気になるのよ。もう二十一なんだからね。あ、この後、お母さんが、面会に来るって」
102号室に私の名札が掛けられた。すると即座に、一人の男が私に近寄ってきた。鼻水、よだれが、著しく目立ち、さらには、眉毛がくっきりと、無い。
「あ、あ、俺、あ、僕、中島寛太、た、といいます。お、お、お近づきの印のく、口づけをしてヨロシイですか」
「いやです」
「いいじゃないですか、僕は人間ですよ。あなたを愛しているのですよ」
すぐさま、その歯磨き粉の臭いがする唇を自分の唇に寄せてきたので、顔を殴り、トイレへと連れて行った。まず便器にて彼の汚れた顔中をなるだけ丁寧に洗ってやり、彼の鼻を潰した。
「ごめんなさい」
礼儀よく、土下座をする一方でその男は見事に分裂。
「殺すぞ、コラ」
脅迫言動も激しい。彼は、異なる二種類の言葉を幾度も繰り返す。
「どっちなんだよ」
「もっと激しく、お、お願いします」
私はトイレを後にした。102号室で約三ヶ月ぶりのテレビを眺め、段々と気だるさの中心、どす黒く永遠にも感じられる吐き気の穴に落ちていく自分。終いに、口を手で覆いそのトイレに舞い戻り、嘔吐する始末に。中島寛太に小便を掛けた。
「田口さん、ホモセクシャルです。ぼ、僕と同じです。顔におしっこ、僕は嬉しいです。もっと、もっと、掛けて、掛けて下さい。それに、傷だらけになるの、大好きです、カッコいい、傷だらけの男は、カッコいいのです。哀しく死んで行く傷だらけの男、カッコいいです。もっと、哀しい傷を、僕にください。僕は傷だらけになりたいのです」
傷だらけの哀しい君は不様で、不細工である。さらに、白いTシャツをすんなりと脱いで、腕、肩、胸、に刻まれた多くのためらい傷を私に披露して、彼はニコニコと嬉しそう。中島君、私は、傷だらけの君を愛する事は出来ません。さようなら。
「上原さん、面会です」
通された部屋には、母が一人、紙袋を三つ四つ持って、小さく座っていた。
「心配したわよ。思ったより元気になって。何か買って来ようか」
「とにかくここから出してくれ。それしか言えない」
「もうちょっとだから。辛抱するのよ」
「今すぐにだ」
母の瞳が、優しく潤んでいる。彼女は、葬式の喪主の様。気丈に振舞う彼女は言う。
「その為にも早く正常になって、それからにしようね」
「出せ、馬鹿野郎、正常ってなんだ。教えろ。ばばあ」
大声で言うと、こちらは速い。面会室の隅にいたヘルパー田口が私の腕を上方向に掴み挙げ、痛みが再び走るのである。
「お母さん、まだ大地君は正気ではないので、ごめんなさい、今日はお引き取りください」
流暢に言いやがるものだ、私の全身から怒り。彼の顔に唾を掛ける。嘘吐き、じゃあ、お前は正気の人間なのか。クソが。
「止めなさい、人の顔に唾を掛けるだなんて。そんな状態なら当分帰れそうにないわね」
私に向かって丁寧に叱る母。その母は、田口様に、申し付ける。
「すみません、よく注意しておいてください」
とか何とか言って、矛盾だらけの感情しか無い私の頭を異常に刺激するだけで、私を産んだ人は、背を向け、帰って行った。
固く閉ざされた面会室の扉。無言の田口に担がれ病棟へ。「お前、誰なんだよ」少しの眠気。混沌としている私の体は揺れる男の背中の上。どっかで見た景色だな。この前方。廊下と壁があるだけなのに。何時か何処かで見た景色。その後の記憶が白紙であり、透明であり、無である。
目覚めたのはナースステーション内ベッドの上。久し振りの時計。赤い針と黒い針それぞれ一つと二つ。八時四十五分三十二秒を回ったところ。ベッドの横には女医の横顔。
「明日は六時起きです。院内ルールなので」
嫌悪を臭わす笑顔でそそくさと言われ、彼女の鍵でドアが開いた。夜の102号室。皆、ナイター中継に夢中。スリッパを履いた私はトイレの横。喫煙所のソファーでぐったりと横になる。今の私は退屈しか持ち合わせていない。するとトイレから黒い浴衣を着た、大きな親父が一人。
「君、今日来たんだ」
「はい」
「おめでとう」
「はあ」
「そうか、医者にはあまり逆らわない方がいいよ。それと、中島にはもう話しかけるなよ」
「はあ」
「彼、きっと、嬉しいんだろうな。同世代の人間が近くに居なかったからね、わかった。僕から言っとくよ」
「お願いします」
この後ニコチン強のタバコを一本戴き二人で色々と話した。彼の名前は柳川さんと云った。
早朝である。ラジオ体操第一が大音量で流れ出し無表情の看護婦が定規で私の頭を叩き起こした。そのまま、まだ頭が立ち上がっていない私を廊下へと引っ張り出す。
最前列を眺める、またお前かよ、田口が先頭を切って、体操を間抜けに踊っているかのようだ。私の意思はこの場所には、関わりたくない、そして関わる理由も何一つとして知らないのである。即座に帰ろうと、強く意思を固めた私を即座に見つけた彼は、やはり瞳が笑っている。
「退院できなくていいの。ラジオ体操はヘルパーチェックの一つなんだよ。やらないと後々ヒビクよ」
「俺、体調不良なんで休ませてよ。ここ、病院でしょ、俺の言いたい事ぐらいはわかるでしょ」
「えっとね、体操を一回休むと精神安定度のランクが一つ下がるんだよ。ああカルテが可哀想だね」
「お前、殺されたいのかよ」
「殺されたいね。僕も解放されたいし」
「お前、本当に殺すぞ」
「構いませんよ。どうぞ、ご自由に」
この病棟に移ってきて七日。食堂と呼ばれる場所へ行くのにも患者全員の点呼をとりヘルパー達の素晴らしい警備の中、コンクリートの扉を四つ五つ潜り移動しなければならない。この食場には会話がない。男ばかりの食事会。三十分で食を済まし、残りの五分は朝昼晩『院歌』と呼ばれる唄を歌い、院内死者に黙祷を捧げる。私が箸を持っている右手奥に、畳一畳分程大きさの額に歌詞が掲げられてあるのだけれど、それを見る度、全てを消去、何とかしようと思うのだ。
『汚れた社会に大輪の花汚れぬ様にと心懸け
逞し魂作るため平らの社に育つため
清き水と清き緑に清き人が動くため
嗚呼毎日今を生きよう 嗚呼皆の力の清き努力に 嗚呼的野 的野病院
作詞 高野清正(名誉医院長)
作曲 シミズ サブロー先生 』
スリッパをパタパタとして警備の中を帰る。田口は本日休み。この目の前にやって来たのは二井と云う女。胸が大きく背の高いこの女は私に性的刺激をやたらと、植え付けるのだ。彼女からのエロスが伝わる。判断出来ている事。この女から、私は弱者だと思われている事。恵まれない人間だと思われている事。その二井と並んで喫煙。
「あんた、ジーコンのバーテンなんだって」
「そうだよ。よく知ってるね。お姉さん」
「昔は、毎週、行ってた」
「じゃあ、マスターの事、知ってるの」
「あの、背の低い人でしょ」
「そうそう」
「あんた帰りたいの」
「そりゃ帰りたいよ、何処が病気か、わからないしね」
「帰ってどうすんの」
「お前だって家に帰るだろ」
「そりゃ、そうだ」
ここに来てから時計が気になって仕方ない。彼女との四十五分は極めて短く感じられ、吸殻を揉み消し二井は笑顔で言うのである。
「今日、映画を見に行くんだ」
「もう帰るの、まだ下の名前聞いてないよ」
「秘密」
「なんで」
「私は友達じゃないのよ」
「あ、そうですか」
私は手早く、帰宅する彼女に、またな。と手を振りしゃがみこみ、自然に考えこんでしまうのである。生きている。とは、どう云う事。この理由から溜め息。昨日の会話を思い出す。柳川さん。彼は元暴力団員で、人、一人、殺した後に精神を病んだ。服役後、入院したとの事。それとなく昔話を聞く事に。彼は結局、目を瞑りバットで殴り続けたらしいが念の為、旧知の友から譲り受けたピストルの話題になる。無邪気な人、柳川さんは、迷い、苦しむ、私へと、真の言葉を与える。
「ピストルなんて結局、子供の玩具だよ、人を殺そうなんて言う奴も只の餓鬼」
次の日、退屈。朝から夜、何も無い。阿呆ばかり。「上原さんに敬礼」大声で戦争ごっこを楽しんでいるのは自称神風特攻隊の馴れの果て、平仲さん七十二歳無職あだ名は『将軍』である。この将軍様は軽い痴呆症を患っており、いつも枕を「爆弾だ」と叫び左腕で枕を抱え込み、四六時中それを放さない。彼の他にも『皇帝様』と呼ばれる世話焼き親父をはじめ、『大蔵大臣』『総理』『ハエ』『秘書官』など彼等は激務をこなしているらしい。中でも『外務大臣』と呼ばれる三十歳男性がトイレに旅立つ時には軍人チーム全員で敬礼を捧げ一人一人握手を交わし、将軍様が、「大日本帝国ばんざーい」と叫び、拍手喝采の中を外務大臣はトイレに外交へ。初めてその光景を目の当たりにした時点では、やはり、ここにいる人間は気が狂った人々の集まりであり、凡人には理解できない神聖なる場所なのである。と、咄嗟に感じたのだけれど慣れてくると見るのも飽きてしまい心の中では、『うるせえよ、馬鹿共』この様に文字で感情が浮かび上がる、出来上がる。その将軍平仲様が私の左肩をいきなり叩いた。
「上原君、小さい頃の夢はなんだったの」
とにかく素直に答えようとするのだが彼の右鼻から露出している青緑色の鼻汁が鬱陶しい。下を向き、嘘を吐いた。
「プロ野球選手」
とでも言えば喜ばれるだろうな。架空の夢を発表すると、宴会場の喫煙所からは何故なのか定かではないが手拍子と同時に、「マツモト」コールが始まった。そのうちコールは全病室へと運び出され、ナースステーションの中へも暴徒は狂い込んで行った。自分は何がなんだか分からないので咄嗟に、起きたての柳川さんへと質問する。
「なんですか、これ。それに松本って誰なんですか」
「この病院のエースだよ。病院リーグの無敗のピッチャー。こないだテレビの取材も来たんだ」
暴徒の数はやたらと増え、そのうち、スピーカーからサイレンが鳴り始めた。まず二井を含めた男女三人ずつのヘルパーが将軍様を押さえつけズボンを捲りペニスの上に注射を打った。彼は口から出る心音、「ホゲエ」と言いながらじたばたとし、静かにうずくまる。 未だに、コールと暴行現場に変化は見られず私と柳川さん他パニックしていない患者は医師の先導の下、食堂へ。暗い陰気な階段を降りているのだ。
「それで松本は、どんな奴なんですか」
「気持ちの悪い少年だよ。不細工でさ、いつもマウンドの横にラジカセ置いてさ、テンション上げて。一人だけプロ野球のどこかのチームのユニフォーム着てさ、その、取材の時なんてのは、下ネタしか発言しなくて、放送された番組は松本本人の代りにヘルパーのインタビューしか流れてなかったんだよ。それで本人はその場でテレビを蹴り潰しちゃったらしくて」
松本は今、雑居坊に居るらしいがこの病院の事を何も知らない私にとっては会いたくない人間である事に、間違えはない。4番ピッチャー松本。食堂のドアを開け二井がとぼとぼとやって来た。
「柴原先生が呼んでるよ」
彼女の後ろを付いて行く。鍵を開け鍵を閉め鍵を開け鍵を閉め数回目のその行為で真夜中の正面玄関に出た。外の景色。そこには多少であるが夜景も見えオレの家は見えないのだけれど、なんだか懐かしく、そして恥ずかしく。涙が出始めていた。右腕を引っ張る二井を無視し悲しくなっていく自分がいた。「帰りたい」ぶつくさ言ってみた。ジーコンの匂い。今思えば周りの皆にも苦労をかけた。やりたい放題無理やって、確かにこうして病院の世話にも。二井はそんな自分を覗きこみ、
「あんただったらすぐに帰れるよ。こっちが聞きたいよ、なんであんたが入院したのかって。だから泣くなよ、ジーコン、行くしさ。な」
この感覚の中、やはり彼女の後ろを付いて行く事にした。通された診察室にはネクタイの横、シャツのバッジに柴原と表示。主治医変更面接。そして彼は的確な日本語で語りだした。
「医療法で決められている事なのでお話します。今現在ですね、貴方に処方されているお薬は躁鬱状態を抑える薬、と、一般判断能力を高める薬、と、それと睡眠薬、後は副作用を抑える薬です。それと、何かご不満は無いですか」
「不満しかない。ヤブ医者が」
私は彼方向を睨み、今度は彼が下を向いた。
「二井君、彼、出てきてからどうですか」
「良くなったと思います」
ヤブ医者に身を委ねる事は、出来ない。足元のゴミ箱を蹴った。するとメガネを一度触り、
「このような病状は日頃あるのですか」
私の言葉を聞く耳無しで、二井へと発言するので、私は、思いを祈るように叫び伝えた。
「俺は、病気持ちじゃないんで早く出せよ、ここは刑務所じゃないんだろ」
「落ち着いてください上原さん。貴方がおかしいのではないのです、精神が異常なのです。貴方が騒いでもどうにもなりません」
「お前、何、戯言、言ってんだよ。ここの全員がおかしいんであって、お前等のやり方が異常だ」
「私は医者です知識があります」
「何の知識だ」
「知識は知識です」
この辺りからの記憶が途切れ途切れなのである。一度、柴原を殴ったかもしれない。
「君、精神異常らしいね。いつ誰が君に暴力を振るったのかな、そこんとこ教えてくれよ、上原君。親愛なる上原君、髪切ったんだよ。わかる」
善人の笑顔。しかし今は眠い、何も言えず再び閉まる扉に中指を立てた。その日は何にも訴えず一人個室で体操座りと熟睡、飯を予定通りに食し、歪んだ心脳精神を一つにしようとした。言葉限りなく殺風景な外の運動場からは蝉の鳴き声が聞こえる。人間と云うモノのは百人百色万人万色と云う事ではないのか。確かにジーコンの客達とは考え方も聴いている音楽もだいぶん違う。マスターも客も好きだけど彼等とは刺激幸福の感じ方が合わないような気がする
夕刻。ドアが開き看護婦女王様に連れられ冷たい廊下の中、食堂へ。柳川さんが声を掛けてくれるが何も言えず。申し訳ない、悪い事をした。
退屈な日課。柳川さんとぷかぷか、喫煙。
「大ちゃんは正常。言いたい事、全部、言えるだろ。だから、医者達は君を羨ましがったりするんだよ。心配することないよ。大ちゃんはすぐにでも帰れるよ」
「そうですかね」
「そうだよ」
壁。生き人の棺桶。これらに疲れきった私にとっては、彼の言葉が心底より温かく。何故だろう。柳川さんは昔の事を二十年以上も産まれて来たのが遅く、若い私に、少年の主張のように打ち明ける。
「今のヤクザは壊れた銃を君ぐらいの若い子に売ってしまうんだ」
扇風機の前、ヒヤリと、凍り驚く自分を睨む様に見て彼は裏を言葉で付け加えた。
「ところがピストルはそんなに簡単には治ってくれない。若い子はそのままの状態で撃ってしまう。暴発して手が粉々に砕けてしまう。結局、何の処理も出来ないままでヤクザにピストルをそっくりそのまま返す事しか出来ない。馬鹿もココまで。『騙したな金返せ』とも言えないしね。この繰り返しで小銭は、わんさか、貯まって行く。『オマエ、内のピストルを壊しただろう』てな調子でもっと金を巻き上げる人間も中にはいるんだ。一回で二十万、十回で二百万。軽いモノだよ。ヤクザはそういうイキモノなんだよ。結局、金しかないしね。ヤクザの頭には」
彼は一つ欠伸を残してトイレへと消えて行った。彼は優しさにあふれ、全てを悟りきったかの様に。金に困っていた訳ではなし、騙されていた訳でもなし、ただ、普通に単純に純粋に生きて行こうとするうちに、動物に戻り、暴威に化けてしまい、「僕は大罪を犯した」と。あらゆる感情を知っている男は、ここだけで生活し、いつかは、この鳥籠で死を迎える。
「上原さん、面会だよ」
「お兄ちゃん、わかる。わかるかな。真佐子だよ。妹の。わかる」
「わかるよ」
「良かった」
「オレも人間なんでね、身内の顔を忘れはしないよ」
「そう、相変わらず御立派な御口が御健在で」
「それで、何しに来た」
「私、今度、ドイツに行くの」
「何しに」
「勉強よ」
「何を」
「どうでもいいでしょう。」
「上海は」
「何も無いから帰ってきたのよ」
「お前が何者でも無いんだよ。何処へ行っても何も変わらない、それに無駄金なんて俺にはない」
「うるさいわね、誰もあんたに金貸せなんて言ってないでしょ」
「それじゃ、何しに来たんだ」
「あんたの墜ちた顔を最後に見たくてね」
「なあ、真佐子、お前、何を勉強したいんだ。世界中を他人の金で飛び回って。飽きたからって言い訳にもならないだろうが」
「うるさいわね、もういいわ。お兄様。あんたの葬式は私が出してやるよ」
真佐子が私の頬を叩いた。すると、看護婦が真佐子の腕を掴んで、警告。
「上原君、面会中止。暴力沙汰は本当に止めて下さい、ここは病院です」
お叱りを受けがっくりとしている私を見て真佐子は扉の向こう、大声で笑っていた。当然の事だから、もう怒りはしないよ。
熱い。シャワーの音。風呂、院内銭湯に来ている。全裸の男達。皆さんは、日頃を忘れ楽しそうである。しかし、その横に在ってはならぬ不気味な男、中島貫太が現れる。
「上原さん、明日。地球が滅びます、早く人類を救済しましょう」
「はぁ」
「あのSONニュース、お昼のニュースでアナウンサーが一斉に報道。『首相官邸の野田菊さん、ノダキクさーん』『はい、ノダキクです。明日アジアを中心に地球が一斉に、おかしくなってしまいます。全員集合で無限の宇宙へ出発しましょう。新しい情報が入り次第お伝えいたします。以上、首相官邸、世界の代弁者、ノダキクでした』って言ってましたよ、上原さん」
「お前だけ死ね」
「貴方もね」
私は中島を湯船に沈め、
「情報料税込みで八億円、八億円です。私の口座に振り込んで下さい。一回払いです。僕は退院。大金持ちでバン万歳です」
クソ野郎の頬を打ち、そこらで蹴った。さどうでもよくなった。どうでもよくなった。もう、いいだろうが。人間なんて、皆、馬鹿だ。火災報知器の、前、パイプ椅子を、持って、赤く四角く冷たく固いこれを壊した。ただ壊すだけ。そしてパイプ椅子を持ったまま田口を壊しにナースステーションへ感情を踏みしめ歩いた。ドアが開く。田口の頭をパイプ椅子で襲う。打音。そして、白衣からの暴力。痛いけど苦しくはない。皆、生きている。皆、馬鹿げている。
「僕はヘルパーだ、お前を助ける為なら何でもする」
「そしたら、俺から離れろよ」
「君のね、病気をね、治す為にね、僕はね、選ばれたんだよ」
「俺は、お前を選んだ憶えはない」
もう、どうでもいい。田口は、カッターナイフを取り出し、私の右目の前で止める。男達の阿呆な喧嘩を見るのはいつの時代も女の仕事。看護婦が止めに入りマイクロフォンへ。
「柴原先生、すぐに閉鎖病棟男子へお帰り下さい、上原大地さんの処置をお願いします」
足元に破壊されしもの、跳ねて転げて。
「どうして、俺なんだよ」
「知らないね、また、個室で会おうよ。たとえ、君の両手が無くなったとしても心配しないでおくれ、僕の両手をあげるから」
「結構です」
「返事の仕方にも色々あるだろう、結構です。なんて曖昧だな、そして、あんまりだ」
「あんまりだ。てのも曖昧だな、正義の味方さんよ」
私は笑い始めた。結構で曖昧であんまりだ。押えつける腕の力、その横に医師柴原。
「はい、大丈夫ですよ、もう何も邪魔者はいないですよ。安心して下さい」
ペンライトで私の瞳を確認。動けないな、何もないな。散らかし放題とくれば、この景色も楽園に見える。私は注射器のお友達。二本目も追加されて体が冷え冷え。柳川さんに別れの言葉。病棟の父の思いを抱き寄せ、確かめ、言ってみる。
「この幻は嘘だよね」
息子の思いを抱き寄せる大きな彼。愛すべき彼の存在に、私は涙が流れる感情を忘れていない事に一瞬の喜びを感じる。
「ああ、おそらくね」
午後二時を知らせるサイレン音の中で、彼は、最後に人差し指を天に指し、私を指し、「またな」と、笑った。私は、涙を拭き、ヘルパーの背を見た。
公開病棟。一昨日までの閉鎖システムとは異なり快適なのである。世界中の皆さん。私は快適なのであります。自動販売機にはタバコ、ジュース、インスタントラーメン、それにインスタント焼き蕎麦、インスタントパスタ、まで充実した設備。お湯も勿論無料で与えられます。二階建てのエレベーター付き。上が男子病棟で下が女子病棟。ベッドへは二四時間出入り自由。何時に起きても、文句は言われずテレビは二人に一台の割合。500円硬貨を投入すれば十二時間番組見放題。それに、二人用の部屋をオレは独占。女、女、女。可愛い患者はいないのかい。右往左往。若く美しい人が多い。皆、それぞれ、美しい瞳を備えていて。けれど今日も理想は見つからず、結局テレビの前、ワイドショーを一人眺めて、タバコを吸って、流れて。さて、快適の理由、もう一つは、二井がココの担当なのだ。今日も白衣に包まれた女の理由の巨乳をユラシ、体温チェック。食堂で朝十時の出来事。
「どう、慣れた」
「二日目だぜ、まだ、慣れるとかそういう時期じゃないよ。しかしなんで、インスタントパスタがあるのに、インスタントうどんが無いんだよ。病院と言えばうどんだろうが、うどん、白いうどん」
「インスタントなんてダシとソースと太さが違うだけ、中身は一緒なんですよ、患者さん」「患者呼ばわりするなよ、オレはうどんを食べたいんですよ、ヘルパーさん」
「だから、カヤクの代わりにうどんスープを混ぜたらいいのよ、食堂にあるわよ」
「それって、不味そうだな。」
「一緒、一緒。中身はどこも一緒だよ」
「わかった、今度、作ってみる」
「私は美味しいと思うよ。はい、36度調度」
この女、この調子で痛い目危ない目を幾度となく回避してきたのだろうな。顔付きと喋り口調、彼女を形成しているもの一つ一つが、なんだか物語っている。患者を次々に検温して行く女。そうか、オレは、病人なのか、と。私、そう深く思いて発作なのかな。発作のような。発作だな。発作。発作、発作、発作。人溶けて、物体歪み、二井多く分裂。ゆらゆらと情報収集不可になりえて、低音弾く音、顔中に聞こえし。「ヘルパーさん」ユレガタガタ。二井さんのお口が動いて在らせられるのではあるが、何を言っていらっしゃるのでしょう。「ヘルパーさん」瞳から水分がたくさん溢れ出て来る。涙ではなく、水分。次から次へ。おかしいな。さらに犬の鳴き声。青い。赤い。 彼女がナースステーションへ駆け出しては直に戻って来られる。景色より粉薬が口元へ。やがて、女の声、聞こえし。「はい、大丈夫ですよ、大丈夫だよ。すぐ」すぐ、何。すぐ、どうなるの。「よ」と発音してみて。自分の声が耳には無い。認識。理解。が、少し、少しずつ。出来ない、できない。赤い。青い。「トイレへ連れて行って」と私は言う、「はい」と白衣の女が言う。桃色の便座に腰掛け。二井が両手で頭を顔を、耳元をゆっくりと撫でて、処置。世界へ帰還。オレの意識はハイカラーに戻ってゆく。「戻ったよ」そう、告げると、「お疲れ様」と女は優しく。
窓の外には雨。今の状況を小さな雨がぬらし心地良かった。ふと考えてしまう事。目の前の光景が本当に現実なのであろうか。右手で缶の烏龍茶を持ち、手を放す。すると、やはり、缶は床へと流動的に行き、缶が落ちたと同時に、音がして、飲み口から、水分が多方面にばらつき、私はやはり、タオルで水分を拭き取る行為にでる。そうだな、確かに、現実だ。しかし隔離されているこの病院と一歩外の窓の向こう、これらは全く同じ世界なのであろうか。オレは上原大地という名に生まれて、人間として息をしている。何処の誰が何を基準にして善悪を決め、歴史の中で万人達は何処で痛みを感じ何処に快楽を位置付けたのだろう。考えても無駄なのはわかっている。しかしだよ、言葉が上から落ちてくるのだよ。この状況に適した言葉は、いったいなんなのでしょうか。パニック、違います、憂鬱、これも違います、異常、これも違う、はい、ここまでです。クイズは終わり。はたして。正解はでるのでしょうか。溜め息一つ。去年の夏なんてのは、とんでもなく忙しく、ジーコンと家との往復。休みの記憶は、常連客だった女の子と泊まりでドライブへ行って海を左右両手に眺めた国道の真ん中で二人は逆立ち。配達中の郵便局員に写真を撮ってもらった。このシーンと今がデジャブーで。結局、オレは起きあがり食堂へと歩く。
発作は一日に一度。毎昼飯後にやって来る。その度に二井がトイレで頭を撫で処置をしてくれる。見えるモノにも変化があって、ここ1週間では、鯨、ゼリーに、イルカ、ストーブ、太陽が三つ、燃え上がるマッチ、だろ、そして必ず色は、青と赤。結局、何故。の二文字が脳裏に出来あがる。薬が強くなっているのだろうな、身体が重い。人間というものは皆平等。であるらしいが、この目の前、ゴミ箱から空き缶を拾い残りの数滴で喉を潤す少女一人。その横を咥えタバコで歩く医者。この両者だって同じ人間。素晴らしき人間。深いね、生きてるって事は。オレがまあこんな事を思いふける事、自体、こんな事を感じてしまう事、事態、病気でございますか、ニュースで闘牛を見つつ、夏が行く。
院内には図書館があり、公開病棟患者は自由に出入りが出来る。自分は昼食をとった後、
ここへやって来て時計は午後三時を回ろうしている中、読書。雑居房に入っている間、読む事が出来ずにいた、『週間少年エフェクト』をたてつづけに愛読しています。これに連載されている漫画に『とんかつ少年バサコジャン』と題した、笑い。しかない意味不明なお話があるのだが、これ、これを見てを一人涙を流し、クスクスと笑っているのである。何故だか主人公の『バサコ』は右鼻にとんかつを突っ込んでいて、時折その彼が喜ぶと、とんかつの上に薔薇が咲くのだ。『気にするな。自由を気にするな』薔薇を咲かす彼の台詞が、そのままそっくり自分に返ってくるのだ。精神病院でギャグ漫画を読むという事は、もしかしたら今まで生きてきた中での一番の快楽かもしれんな。感動。異常に新鮮で論快なのである。タバコの味、ポテトチップの有難さ、普通の物事にも異常な喜びを見つけてしまう、この生活である。幸福ここにあり。8月3号、次回へ続く。を読み終わると、二井が笑顔で傍にやって来て、「医師面談だよ」と言ってオレは「ハイな」と言った。
通された面会室には、いつもの柴原。メガネを触る癖も毎度。しかし、頬が緩んでいる。
「疲れましたか」
「はあ」
「あなたは自分の事を病んでいない、と言っていますよね」
「はあ」
「では、あなたは幻覚を見ている。これも事実ですよね」
「はあ」
「私の職業は」
「医者です」
「あなたの職業は」
「バーテンダー」
「これもまた、事実ですよね」
「はあ、それで何が言いたいの」
「わかりました」
「何が」
「夕方六時にお父さんをお呼びしています、退院です」
「はあ」
「しかし、お薬は必ず飲んで下さい。それと、週に一度、外来へ必ずおこし下さい」
「はあ」
退院。望んでいた事が実現。しかし、柴原の言動に、少しのフラストレーション。
「ありがとう」
「おめでとうございます」
社会の立場上、相反する二人はココで握手をかわす。とりあえず自由。とにかく地球へ帰る事が出来る。そして、赤い、青い。オレはどこへ行くのでしょうか。あたりまえのオレって何。さあ、素晴らしき世界へ。おうちへかえろう。
夕刻五時半回ったところ、二井と廊下を歩く。一歩一歩、歩く事。ただそれだけに満足。正面玄関まで歩き、夕焼けの光にあらゆる意味を持つ。軽いバック。軽いラジカセ。軽い紙袋。など軽い所持品を両手で抱え、院内の人々から祝福される。別れ際、二井に最後の質問を。
「なぜ、お前はヘルパーになろうと思ったの」
「じゃあ、あんたは何でバーテンになろうと思ったの」
「バーテンになりたかったから」
「私も一緒だよ、ヘルパーになりたかったから」
「じゃあ、何故、田口は、ヘルパーになりたかったのかな」
「もういいじゃない。あの人の事は忘れて。じゃあ、私がその代わりに、毎週ジーコンに通ってあげよう」
「嘘だろ。お前は、いつもいつも、本当に、適当だ」
「そんな事ないよ。いつ、居るの」
「月、木、金、土、日」
「じゃあ、木曜日に行ってやるよ」
「何か、適当だな」
「そんな事ないよ、気のせい、気のせい」
親父の白い車がスローダウンでやって来る。「あれがお迎えですか」二井が言って。「そう」オレが答える。さて、帰ろう。ヘルパーである彼女は言う。
「病院にも通うんだよ」
オレは結局こう言った。白衣の目を見てこう言った。
「二度と来るモンか、オレは、まだゴミじゃない」
彼女は笑った、笑った。私も笑った、笑った。さて、安堵の笑顔は親父。彼の助手席に座るのは、久し振り。ドリンクホルダーの缶コーヒーが、心よりありがたかった。
やっと、夕焼けが、オレの味方をしてくれた。空をかみ締める事だけに喜びが、あふれかえり、嬉しい溜息を吐く。二井は、やたらと笑顔で手を振った。その笑顔は、悪魔の要素と天使の要素を同時に兼ね備えていて。私は缶コーヒーを飲み、親父は二井の事が気になるのかチラホラと彼女を見て、彼女も親父に頭を下げた。夕焼けの光がとても美しく、バックミラーに映る彼女は、すぐ、仕事に戻った。そして、我、深く、目を閉じる。
柳川さんへ。こっちの水はおいしく甘い。そして広く、そして深く。そして曲がりくねっていて。信号待ちだってある、私を作った人と国道を東へ向かう中、貴方の事を、世界中の誰よりも思います。 タイヤが回る、オレは前へ進む。徒然なるままに。
玄関に到着。いつの間にやら、海を描いたポスターが飾られてあり、私は驚く。今は亡き祖父の書、「静」の額は大きく健在。靴を脱ぎついでに靴下も脱ぎ棄てた。四本足歩行の動物、飼い猫『ジャン』と久々に握手。三毛猫は鳴いていた。三角茶色の餌をやり、猫は音をたて尻尾をたて喜び食う。帰宅をすれば風呂に浸かる。FMラジオを洗濯機の上に置いて、ボリュームは最大。湯船は狭いが我が家が楽園。洗面台の下を探りに右手に触れたパーマ液を髪につけ、輪ゴムで三つ編みをグルグルと創る。入院中ボサボサとしていた髪色を自分好みに変化させようと、湯気の中鏡の前。鏡の中のオレは以前より、痩せこけている。目の下にクマ。パーマ臭い自分は、カラダのみを乾かし、居間に赴くのである。携帯電話がテレビの上。考えてみてはいかがでしょうか。電源ON。留守電の表示。1417をダイヤルし、預けているメッセージが48件もある事に気だるさ。1件目、美保佳。2件目、マスター。3件目、また美保佳。皆さん、私の安否を気遣われております。そして、4件目にオレを病院へ連れて行ったであろう、イクミからの伝言だった。
「『ピー』あ、大地、ごめん。本当にごめん。『ピー』」
何、どういう事だ。本能のままに、イ、イ、イ、イクミを検索し、ダイヤルをしてみる。
「もしもし、大地だけど」
「帰ってきたの」
「さっきね。それでさ、今、時間ある」
「うん。今日は、休み」
「迎えに行っていい」
「いいよ」
イクミに会いに行く。パーマ液の上から水色のビニール袋をかぶり、久々のキーホルダーを握る。そして、マイカーの運転席。帰ってきたぜ。戻ってきたぜ。走れるぜ。ポンコツでフランス産まれの小さく黒い車は主の運転で女を迎えに行く。彼女の家には5分もかからずに行けるのだけれど、遠回り、区内小旅行。同じ道を何度も周り、ギアを変え、アクセルを踏み、ブレーキを踏む。雨なんて降っていないのにワイパーも動かしてみたりで。さあ、行くか。点滅信号左に曲がり、図書館の前。着いたよ、電話をいれると、白い家から黒い服のイクミ。ゆっくり、彼女が笑顔になって窓越しで私とキスを交わしたのであった。人間である私はやはり動物だった。本能的に、両目が胸に行こうとした時、
「おかえり」
なんて言われてしまい、車はまたまた走り出し、裸体二つ。イン、マイルームなのである。何度もキスをするうちに、久々オレの体は熱くなり性交を求めはじめ、女も女で求めているのか、そう、思いつつだな。しまった。本物のイクミ。一度に大量が流れ出て、終了。イクミは、「久し振りだね。と言って、自分はビニール袋をもう一度、深くかぶり直して、茶を飲んだ。単純に基本的質問をしてしまう私は、動物ではなく人間なのである。
「何故、オレを病院へ連れて行ったの」
「おぼえてないよね」
何を。さて、探求心が備わっている私は、必然的に目を瞑り、思い出すのであるが彼女に、
「全く」
と、答えて。また、茶を啜り、ビニール袋をパツンと弾いて、鼻を触る。癖だな。私には、自分が、困った時に鼻を触り、ごまかす習慣が根付いている。
「三日も四日も全然、眠らない。食べない。ずっと、立ったままで喋り続けて、だから救急車を呼んで…」
まったく記憶に無い。誰が、何処で、何を、どうしたの。わからない。身震いが体を包む。
「オレが」
「そう、大地が」
「オレ、どんなだった」
「意味不明」
「いきなりか」
「そう、いきなり」
身震いが激しくなり、唾を飲み込み、心拍数が急激に上昇する。平然を装う事が出来ない。
「仕事が終わってからイクミの家に行ったんだよな」
「そうそう、朝の四時過ぎかな、大地から『今、終わった』って、電話があって、鍵を開けておいたの。でも、来ない。何回も電話をしたんだけど、つながらなくて。結局、来たのは、朝十時。それから、大地は、意味不明」
女は淡々と言って黒い服に再度、袖を通す。彼女も私の頭上にあるビニール袋をパツンと鳴らし、
「忘れなさいな」
「了解しました」
結局、幻覚。マボロシをオボエタ。と、云う事で。すませましょう。だけど今、何が何よの、我がココロ。
その後イクミをまた抱いて。
その後イクミを送って行って。
私は家族に囲まれて焼肉を食す。婆様がとても、にこやかで、私に三万円を持たせ、さらには、ワイテンヴェルゲのシェーカーを与えてくれた。これは以前から欲しかったモノで、バーテンダーにとっては、憧れのブランド。「ありがとう」婆様は椅子から立ちあがり手を振って、「おやすみなさい」と仏間に消えた。キッチンには、親子。三人でコーヒーを飲んで、普段の家庭の夜十時。
私は決めた。処方箋薬を燃やす。三毛猫と私は煙に巻かれた。そして、ジャンを助手席に乗せて走った。的野病院の前へ車は行った。卒業した中学校の前へも。はじめて女性とキスをしたエレベーターのある銀行の前へも。ココチの良いドライブを終えた、朝7時、私は自然に眠りに就いた。これが良い。無論も有論も理屈も勿論、私に存在しない。私は眠りに就いた。
デジタル音。で起きる夕刻。携帯電話の着信表示には、志穂、と表示。シホ。知らないな。迷ったが、九回目のコールで私は電話に応対したのであった。
「もしもし、志穂だけど、大地君だよね」
「そうだけど」
「あの、本を返さなくちゃと思って」
本、とは何の事、定まらない。携帯電話を持つ二人。女は、オレを求める事を止めない。
「え、なんの事」
「大雨の日。私に声を掛けた事、おぼえてないの」
「えっ」
咄嗟とは、この事。動揺の音を発してしまう私に、女は、二度咳き込んでから言った。
「あの、本当にジーコンの上原大地君ですよね」
『君、誰』
本心を打ち明けようとは、するものの、嘘は吐くもの。時として場合として。
「あ、思い出した。久し振りだね、元気ですか」
その女、電話のむこうで今、妙に明るい未来に対する全身からの歪みのない笑顔を持つと推測される。
「元気ですよ」
それは、結構な事です、ココロより羨ましいかぎりです。知らないはずの志穂に会いたくなった私は、東湊駅に7時。と約束をとりつけ、タバコを吸った。志穂。誰の事で御座いましょう。本。何の事で御座いましょう。はてな。もう一度だな、あの夜を自ら思い起こすのだが、わからないな。その前日はジャンを海へ連れて行って、老男に話し掛けられ、三毛猫を抱かせてあげて。夕刻には、やはりジーコンに出勤しているのだ。ジントニックしか飲まない老婆が一人いて。なにやら、プロボクサーとその取り巻き共が、試合に勝った、やった、やったよ、などと、狂い騒ぎ、無礼講であって。しかし、その翌日からの記憶が零。無。しかし、志穂の事や本の事を、やはり、まあいいか。で、片付けるのは少々解せないな。私は、意味も無く、シェイカーを振ってみるのであった。
ついてないよ。国道は工事による渋滞で、幾度となく立ちはだかる赤い信号待ちを、遣る瀬無く、くだらなく感じるオレ。『人を待たせるのは、深い罪だ。』マスターの言葉を思い出し、納得する。7時54分発の上り電車が、今、出て行った。私の身体は、運転席を開けるなり、こけ倒れた。目眩である。格好の悪いオレという人間は通行人達にじろじろと見られ、そのうち、雨も振りだし、なんとか這いずり運転席によじ登ろうとすると、俺の顔を覗き込む黒い傘を持った女がいた。まただ。イクミ、美保佳、綾乃、そして、志穂。まったく同じではないが、彼女達の顔は、どこか似ている。志穂は、「ちょっと、待って」と、私を運転席に上手く座らせ、走って行った。俺は、ドリンクホルダーに緑茶を見つけ、一時の安堵を見つける。瞳の前には、駅と、ミラクルタワー。東湊駅創立50周年記念行事の為に昨年、建てられた青い光を放つタワーが、美しいのである。圧巻。右横ウィンドウを見ると、顔色冷めた私。前を見ると、長髪の警察官と彼女。私の身体は、警察官に抱えられる。
「車の移動だけ、お願いします」
彼が彼女に言って、志穂は頷き、運転席へ。私の車は、発車した。
「少し、交番で横になりましょうか」
私は、警察官にオンブされるのである。東湊の街中で注目を受ける警察官と私は、会話を二言三言交わすのである。
「どこか、身体の調子が悪いのですか」
「いいえ、ちょっと疲れがたまってまして」
「ご苦労様です」
「こちらこそ」
アイスクリーム屋の横、交番のベッドに横たわり、私は金魚鉢を見つめる。チラホラと動く金魚達が懸命に見えて、感激してしまう。そういえば、オレは地球に帰って来たんだな。街を行き交う人々が考える脳と感じるココロと動く体には、それぞれに色々と様々あるだろう。喜怒哀楽も勿論の事、きっとそれ以外にも、見えないモノを見る事が出来る人や、誰にも譲り渡す事が出来ない何かを持ち合わせている人、はたまた何一つ持ち合わす事を嫌う人や、同情でその場を切り抜ける人や、強いものに憧れその強さを真似る人も存在する。だけれども、皆、何処かで何らかの思いは、共通していて、同じ人間なのであって、男女も年齢も貧富にも、本当の所は、さほど、差を別けたりする必要はないのではなかろうか。私もその彼等や彼女達の一部であって、警察官の彼とて、勿論その一人である。ただ着ている服と顔は一人一人違う。
「ありがとうございました」
長髪の彼に感謝の意を告げる。彼とて国家権力の一部を持ち合わせているのも事実だけれど彼には彼の佇まい格好の付け方がある。そして何よりも民を助けてくれた人間なのだ。
「無理はいけませんよ」
彼が持つ包容力の大きな瞳は美しく。笑顔で敬礼の彼に対して、私も笑顔で敬礼する。世の中の交番前で、志穂を待つ。現実、所持金三万円。現実、中指に釈迦の指輪。現実、目の前には志穂。路上を踏みしめる事が出来る自由。駐車場へと二人して歩いた。
「ねえ、なんで電話に出なかったの」
考えて、くだらぬ嘘を吐いて答えてしまうオレの口が不思議でたまらない。
「旅に出てたんだ」
「どこに」
「修行」
「こもってたの」
「そう、こもってたの」
女は声をあげて笑い出した。淡々と毎日を暮らしていたのは、修行先が病院だ。結局、オレにとって。つまらない嘘をついたオレは、結局のところ、彼女のココロを奪ってしまう泥棒に近い行動をとってしまったのである。
「大地君て、本当におもしろいねえ」
「そうか」
「うん、すっごく」
愛車の運転席に志穂が座り、主は助手席でくつろいでいるのも束の間の出来事。黄色い看板の駐車場を勢い良く出庫するや、彼女による破竹の質問攻めがスタートする。FMラジオから流れる低音が鋭くて、ボリュームを上げる事にしたのだ。今は、彼女を優先出来ないのであり、パンクロックに身を置いたのである。ウィンドウを開けると風が強いのですぐさま、これを閉める。東湊のネオンが眩しくて運転席の彼女を見るのにも目を細める。
「どこか、身体の具合が悪いの」
「いや、疲れだろ、疲れ」
「ねえ、どこで修行してたの」
「秘密」
「だいぶん、痩せたよね」
「元修行者だからな」
「ねえ、何をしたら修行になるの」
「ガマン、ニンタイ、コンジョー」
そして、信号待ちに差し掛かり、女はバッグから、本を取り出したのであった。
「ありがとう。本、返すね。私の生き方が変わっちゃった。かもしれない」
そうなんだ、と、我、いったん思いて、結局、何。どう云う事。
『加乃 享子×フジモトジュンイチロウ×5』
写真集である。表紙には、火葬場に女の裸体。それに青字と赤字でそれぞれ、タイトルが示されている。オレは彼等も知らなければ、5も知らない。志穂は言うのだ。
「すっごく、オクが深いね。ただのヌードじゃないよ、これ」
奥歯をなめる私の横で、女は、とてもにこやかである、口笛を吹きながら。これ、オレが買ったんだよな。背表紙の値札には、『7090円・スペラマ書店』のラベル。そうか、大雨の日、上原大地はスペラマ書店に居たんだな。そこは何処。そして、高額の写真集を購入。緑茶を飲むのだが、鳥肌が立ってタバコを咥え、志穂を見ている。
「ねえ、山に行ったのも、この本の影響なんでしょう」
「ああ、そんなもんだな」
嘘です。いや、本当なのかもしれないな。この本を今の時点で開ける可能性は、零。人一人の価値観を変えてしまう本を覗く事が出来ない程、今、私は、疲れているのだ。
「ねえ、私の家に来るでしょう」
横になりたい疲れのかたまりである私は、適当に、「そうだな」と切り替えしシュガーソケットで火を造るのである。
志穂は、誰。今日は、風が強くて、上向きに風が強くて、志穂は、誰。彼女が、繰り返し吹く口笛と助手席のオレ。志穂が吹く曲は、不思議なくらいに、この空間を支配していて。
車に乗ると、いつも思う事。自分は、幼い頃レーサーになりたかったのだ。時速300キロに身を委ねると目に映るもの全てが、溶けて壊れて、自分が望んでいる、あらゆる快楽の全てを手にする事が出来るだろうと、考えていたのだ。だけど私はシェイカーを手にした。その時、私の全てが変わったのだ。唯一、自由自在で、私が溶かし潰し壊して、再生し作れるものは、スピードではなく、カクテルなのであると、丸いシェイカーが教えてくれたのだ。そして、金を貰い、客がつき、何時しか、バーテンダーを職業としていた。
車は集合団地の駐車場に止まり志穂が、「懐かしいでしょ」彼女に愛されているような気がする私は、車を降りるのである。その後も、彼女の世間話を、あ、うん、で切り抜け、5階まで上り、少々、息が切れるのである。高い場所に身を置きたくなった私は、家賃が気になり彼女に聞いてみる。
「7万5千円でしょ」
「残念、ジャスト、6万円」
6万。越してきても良いな。彼女が玄関の鍵を開ける。いまだ鍵の開く擬音に苦痛を感じる自分に嫌気が注す。
「ジャンは、元気」
「太ったよ。ジャンは」
言ったそばから、白猫が私に突進してくるなり、左足のうらを勢い重視で舐めるのである。
「こら、駄目でしょ」
猫は、彼女の腕の中。猫は大きな欠伸を残して首を回し手招き、飼い主とオレを見た。
「名前、なんだったっけ」
「小梅。かわいいでしょ」
古風でよろしおす。私は小梅がオスだと云う事を確認し、彼の鼻に私の鼻をくっつけるのである。彼女は、部屋に電気を灯し、背伸びをして、キッチンに向かう。
「座っておいて」
主婦のように言った。どうやら、コーヒーを入れているようだ。オレは、タバコに火をつけて、黒いTシャツに大量の汗を噴出している事に夏の終りがまだ来ない事を感じる。小梅がまた近くにやって来て、私は、指で猫じゃらしを作るのだ。
「大地君、ビールでいい」
「そうだな」
男と女は小さく乾杯。コーヒーとビールをむさぼり飲むのである。そして久々のアルコールとカフェインにすぐさま反応してしまうオレは、それぞれを飲み干した途端に、洗面所に出向き、鏡の横に掛けられてある、マリア像を見つけ、見つめて、ココロから叫んでしまった。
「何が、神の子だ。白衣の馬鹿どもは、暴力と権力を使い、オレを苦しめるばかりだ。あなたの子ではない」
するとやはり志穂がやってきて、聖母の前から私を引きずり降ろし、ベッドに寝かすのである。
「おやすみ」
と言う女に、応える術を知らずにいる男。その横に白猫もやってきて、私と眠るのである。眠るのである。
起きて、腕時計を確認。PM10時15分なのである。そして、前を見ると、裸体の志穂が、私へ接吻を強引にしてくるのである。気持ち悪くなった私は、こちらも強引に彼女を押しのけた。誰なのだ、この女は。眠っている猫の前で女は自慰を続けている。
あれ、アカイロだよな、あれ、アオイロだよな。
そして、瞳が完全に目覚めた私は幻覚を見た。
赤いイクミと青いイクミ。天井に映写機により映し出されているような幻覚。くっきりとした世界。ハイカラーで現れている。彼女達は、同じ黒い服を着ているのでは、あるが同じタイプの赤いマフラーと青いマフラーをそれぞれ首に巻いている。二人のイクミは木々が多い、公園のベンチに腰掛け、サンドゥィッチを自然な笑顔で食べている。互いのモノを交換したり、お茶を二人で飲んで、冗談を言い合ったりしている様子。私の五感は今、視力しか持ち合わせていない。だめだ。解かなくては。消えろ。踏ん張り両手を叩き合わせる音と同時に私の前から、赤い、青い、二人のイクミは完全に消えた。
五感の全てをじょじょに取り戻した私は、ベッドの横に缶コーラを見つけ、カラカラの喉を潤す。「二人のイクミ」私は、そう、何度も呟き、洗面所の水を大量に流すが、顔を洗う事が、出来ない。一人、マリア様の前で途方に暮れる鏡の中のオレ。
もう、行かなくちゃ。志穂に別れを告げる。
「帰るわ」
志穂は、少しずつ瞳を開けて、言葉にならない、心音を呟く。彼女のカラダに、赤と青のクロスが、雷の様に、ヒトツ、フタツ、ミッツ。
「一緒にいて」
裸体の彼女は、発したのだが、彼女の眼球にも、白いクロスが見える。
「オレ、行くわ」
そう、ココロから告げて、この部屋を後にした。玄関のドアを閉めた瞬間に、白い猫と目が合う苦しみを知ってしまう。猫が欠伸を残し、私はここを去る。
オレは、イクミにその後会って志穂の事を説明した。ただ、幻覚の事は言えない。イクミと志穂が電話で会話をする。「大地には、近づかないで」とイクミが警告、長電話、反論の最後に、どうやら、志穂が納得したようだ。そして、イクミが指で胸で私を抱きしめてくれた。そして、オレはジーコンに電話を入れて、「明日から復帰します」と、マスターに宣言。長い休みも今日で終わり。私は、三日月の下、日付が変わる中での赤い信号待ち。
ジーコンに出勤が出来る幸福。マスターは何かあると涙もろく、オレの顔を見るなり赤目。
「心配させるなよ」
笑顔で泣いていた。三十七歳、子持ちのレゲエ好き。オレが、産まれて始めて出会ったバーテンダーが彼なのだ。
「もう、大丈夫ですよ」
オレの顔が綻ぶ。彼と会話が出来ると云う至福の時。それなりに、儲かっているジーコンは、私がいないうちに映像にも手を出したとの事。銀色に輝く、プロジェクターが大きく鎮座している。彼からは、リモコンの使い方を教わった。青いINと印された丸いボタンを押すと、
『I。likeLove』
映画のタイトルが黒味をバックに白字で浮かび上がる。この違和感がたまらなく楽しい。出勤カードを押すと、裏口から、一人の人物が、浮かび上がる。
「康之だ」
マスターは紹介するのである。不思議だな。開店前の職場に自分の知らない人がいるのは。
「はじめまして」
すんなりと、挨拶が出来る康之君は、良い奴そうだ。
「はじめまして」
私も丁重に挨拶。彼は華奢で素朴な青年を思わせる。バーテンダーは人懐こい職業だ。その二人の会話は、やはり同業者同士の会話であり、白熱するのである。彼は私より3つ年上で、銀行への就職が決まっている中、そうだ、一度、自分の、好きな、事を、しよう。と、思い立ち、学校法人日本バーテンダー育成学校1年コースに通い、卒業後、ジーコンのバーテンダー募集をたまたま、検索し、今ここにいるとの事。
シェイカーをジーコンのカウンターにて、持って、涙。酷く泣けた。本当にオレは泣いた。オレの事をマスターから大体把握している康之君が肩を叩いて、オレはもっと、涙を流し続けた。止まらない涙。オレはトイレでさらに泣き崩れ、シェイカーを何度も何度も瞳で指で、抱きしめた。
仕事である。私は、赤目に戻り、そして、普段の目に戻る。客の注文を聞き入れ、仕事道具を自在に操り、会話をし、休み、考え、喜び、酒を作る。そして、店を閉め、マスター、康之君と、「お疲れさん」の言葉を交わし、電車通勤の身であった、康之君を助手席に乗せ、帰路につくのである。
「オレ、大地君の事を尊敬するよ」
「何をですか」
「全てだよ、シェイカーの振り方、客への対応、水の使い方、出来あがり」
「経験が長いだけの事ですよ」
「それだけじゃないよ、学校の講師にも君みたいな人はいなかった、それに、君のほうが、ずっと年下なのに」
「オレには、これしかないですからね」
高速道路の朝は気持ち良く、ヘビースモークの男二人を迎えてくれるのである。会話は眠気と共にハイになり、彼は、私の病にも触れ始めた。彼とはこれから付き合いが長くなる。記憶の事、幻覚の事、志穂の事、私は、全てを話した。親身になって話をわかってくれた彼は、やはり、知識のカタマリ。車のハザードを出した、康之君のアパートの前ですんなりと、彼は言葉をくれた。
「それ、覚醒ってヤツじゃないの」
「えっ」
「きっと、変なもんでも打たれたんだろう」
そうかもな、どうでしょう、きちんとした答えを、出せないのが答え。
「そうかもしれないですね」
「じゃ、また、明日ね。深く考えるなよ」
覚醒。なんだ、それ。オレは頭をむさぼり、煙草にしがみつき、康之君に手を振り、アクセルを踏んだ。
イクミ。彼女との出会いは、運転免許取得所であった。
彼女の免許証を係りの不手際により、オレが貰ってしまったのである。彼女の免許証にオレの顔写真。オレの免許証にイクミの顔写真。免許取得のスケジュールを全て終えた夕方の時点で、係りにスピーカーで呼ばれた。「大変迷惑をかけ、まことにすみませんでした」と、署長直々に脱帽謝罪。二人は新しく正しい免許証が出きるまでの間、暗い廊下で時間を埋める会話をする事となった。互いが同じような場所で、同じような育ち方をしてきた事、感じること、考え方がお互いに似ていた事。などから、「今度、会おうよ」と、オレは彼女を誘ったのだ。二人は深夜まで待ち、パトカーに刑事の運転で帰宅し彼女が車を降りる前、二人は、最初のキスをした。この日から、二人は一緒に過ごす事が多くなった。それまで体験した恋や愛とは、どうも異なっていて、互いに、彼氏彼女の関係ではないのが事実である。私には、美保佳や綾乃がいて。彼女にも、色々あるとの事。これが二人の関係。二人は、これだけの関係なのである。彼女をジーコンに誘った事も無ければ、彼女がジーコンに行きたいと言った事もない。彼女は、設計士志願者。大工である父上の指導が厳しい事は知っているが、イクミはオレに愚痴の一つもこぼした事はない。二人は互いの家を行き来し、その家族も二人の事を理解してくれているのであって。顔を合わす事があれば挨拶をする、皆でありがたく、食卓を囲む事もあるのだ。これが、我々なのである。
故に青いイクミ。
故に赤いイクミ。
この事だけが、彼女に言えない秘密なのである。
二人でケーブルテレビにて映画を観る。笑い、泣き、映画を観る。いつもこれだけで、私もイクミも、ココロがリセットされる。これが二人の日常なのである。オレがイクミの家からジーコンに行くまで、車で約40分。いつものように、国道を使い、駅前のビル街を行き、トンネルは何時だって渋滞中。
トンネルを抜けて、急に加速をした私は、目の前に茶色い物体を確認。避けようとしたが、対面交通。そのまま、物体に車を当ててしまった。犬だ。茶色の中型犬。ハザードを出し、犬に駆け寄る。出血は無い。助かるかも。でも、鼾をかき、眠っている。咄嗟に判断した私は、後部座席にゆっくりと犬を乗せ、ジャン掛かりつけの動物病院へと、大急ぎ。大量の汗が落ちてしまう。病院に到着。獣医を呼ぶ。
「すみません。犬なんですけど、交通事故です」
いつもの先生が走って出ては車へ急ぐ。彼は犬の目をチェックし、
「ああ、大丈夫ですね。ショックで少し気絶しているだけ。念の為、今日は預かりますよ」
ふう。空を見て、溜め息一つ。犬は、先生に抱かれ、院内へ。受付嬢に呼ばれる私。
「ジャン君、そろそろ、定期検診なので、また、連れてきてくださいね」
営業担当である受付嬢に、いつもの低い声でくっきりと言われ、
「あ、はい」
と、オレは、三毛猫を思い出す。と同時に、マスターからの電話が鳴る。今日は康之君に任せて、ゆっくり休みなさい。という事。
その後、オレは自分の部屋にいた。ジャンが、餌を食う。私は、まだ本調子でない身体を、動かし、『鈴木竜平の楽しいカクテル講座 上級者編』を眺め、ブランクを埋めようとする。体操座りになり、横になり、空のシェイカーを振ってみる。鈴木氏の意見に対して、なるほど、と、思う反面、オレなら、こうするよな、と、自問自答。
気になるのは、もう一つ、 覚醒。 ベランダに置いてあったダンボール箱に、捨てるはずであった、小学国語辞典を見つける。裏表紙には、『6年3組うえはらだいち ウエハラダイチ 上原大地 DAICHI UEHARA (6―3)』 そう、オレは上原大地。過去の汚点に見る私は、阿呆な小学生である。6年生のオレ。無敵の上原大地君は阿呆である。
《覚醒》目が醒める事。
目が醒める事。小学生らしい、この1行だけである。おおまかな意味はわかるのだが。
中学校に通っている頃、同級生がシンナー中毒になってしまい、その姿を目の当たりにしてしまったのだ。全校集会の体育館にやって来た彼等は、シンナーを吸引していて、先生に追いまわされた挙句、2階から、「行きますよ、う。」と、大声で叫び、全校生徒が注目する中、飛び降りた。すると、彼のトリマキ達も次々、後を追って、「リョウコチャーン、アイシテルヨー」「冬の西瓜、最高」「ハダカの天使、参上」などと、叫び、まさに狂い、飛び降りては、皆、同じように救急車の餌食、さようなら。彼等はもう二度と、学校に現われる事は無かった。
『5』を開けよう。車に本を取りに行き、運転席から、後部座席を探った。
アカイヨ、アオイヨ、それは幻覚。二人のイクミ。青い。赤い。これ、現実。同じ型のブラウンのブラウスに同じ型のブラックのスカート。ストールが赤い青い。二人のイクミは、黒板の前、協力しながら、プレゼンのような行動をしている。声だ。小さな声も聞こえる。『ええ、今回の…』『発表…』何を、よ。と、我、認識して、全て、突如、途絶えた。発表とは何。また、喉が渇く。私は『5』を持たずに、戻った。
「悪い」
仕事から帰った親父を見つけ、『5』を燃やしてくれと、言った。彼は、いつもの口調で、
「忙しい、自分でしろ」
淡々と、言う。しかし、ごめん、親父、今回だけ。恐くて、怖くて、頼む。
「頼むよ、狂いそうなんだ」
徒事では無い素振りを見せ、苦虫を食ったかのような表情で、父は息子をサポート。
「わかった、わかった、燃やせばいいんだな」
私は車のキーを震える手で何とか親父に渡し、部屋へと、這い上がり、深い眠りに勤しんだのである。この二人のイクミを克服しないと私は息が出来なくなるのではないのだろうか。決心一つ。
二人のイクミは、何の為に現われるのか。
オレは、何の為に産まれて来たのか。
オレは、その理由を確認する。
オレは、その答えを出す事にしたのだ。