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第一部の演奏が終わって、休憩に入った。アメリカからやってきた有名なサクソフォン奏者のコンサートで、雪緒はこれをずいぶん前から楽しみにしていた。

カフェスペースでホットココアを買い、かろうじて空いていたソファ席に腰をおろしてパンフレットを眺めていると、

「あれ? 朝見?」

ふいに、聞き覚えのある声が降ってきた。

「……秋山くん」

先月会ったばかりの秋山の姿が、そこにあった。黒を基調としたカジュアルな服装だったが、柾貴と同じくらいの上背がある秋山には、どんな格好もよく似合う。

「来てたの? どうしたんだ、ひとり?」

あたりを見まわしながら、秋山が怪訝な顔をした。いつも隣にいるはずの例の男がいないので、不思議に思っているらしい。

「ひとりよ。きいちゃん、火曜日は篠笛のお稽古があるからさ」

ああ、と秋山は得心したように頷いた。柾貴がどういう家の育ちで、幼少のころからどんな稽古事をしているか、当然のことながら秋山もよく知っている。

「俺もひとりだよ」

と、彼は言った。

「よくひとりで来たりするの? こういうコンサート」

「時間があって、気が向けば、時々ね。特別サックスが好きだというわけじゃないけど、まあ、けっこう選り好みもせずに色々」

「へえ、意外ね。何かこう、秋山くんはもっと人の集まるお洒落なところで遊んでそうな……」

透明のプラカップに入ったアイスコーヒーの、最後の一口を飲み干して、秋山は「何言ってんだ」と苦笑した。

「親父の目も光っているし、それほど派手にも遊べないもんだよ。まあ、こういうコンサートに来たりするのは、親父も喜ぶからな」

知的な感じがするでしょ、と茶目っ気たっぷりに言う。

「なあ、それよりさ」

秋山は心もち声をひそめた。

「朝見、彼氏つくる気はないの」

「ン?」

ややとぼけた感のある返事になった。この手の話が、雪緒は苦手なのである。

「いまだに椹木と一緒にいるけど、別にあいつと付き合っているわけじゃないんだろ?」

「うん、そうね」

「もうちょっと交際範囲を広げてさ、彼氏のひとりでもつくってみてもいいんじゃないの」

秋山も無茶を言う。彼氏が出来そうなちょっとしたシチュエーションを、ことごとく潰してきたのは、実際のところ柾貴なのだ。そのうえ、雪緒自身がさほど恋人というものを欲してもいない。

「でも、今のままでじゅうぶん楽しいからね」

雪緒が言うと、秋山は大仰にため息を吐いた。

「そりゃ恋人と過ごす喜びを知らないからだよ、朝見。もうほんとにおまえはさあ……」

よけいなお世話ではあるが、ほどよく軽いノリの秋山を、雪緒はけっして嫌いではない。苦笑して、

「まあ、そういう気持ちになって、そのときにいいご縁があればね」

と、雪緒はいなした。

「ほら、秋山くん、休憩終わるよ」

まだ物言いたげな秋山を急かして、ソファ席を立つ。座席は離れているらしいから、この話題が延々続くことはないだろう。連絡先云々、次の約束云々、そういう話題になることを避けるために、雪緒は先手を打つようにして女子手洗いのほうを指ししめした。

「私、お手洗いに行ってから席に戻るから」

手洗い目的の混雑に紛れてしまえば、大丈夫だ。秋山が口を開きかけたが、雪緒は気づかぬふりでひらりと手を振り、年配女性たちのかしましい群れのなかへと飛びこんだ。



リビングに電気がついている。案の定、稽古を終えて帰ってきた柾貴が、雪緒の部屋に上がりこんでいた。

「きいちゃん、ごはんは?」

仰向けになり、開いたファッション雑誌を顔に乗せてはいるが、起きているはずだ。

「食べてない」

雪緒の帰りが思ったよりも遅かったので、拗ねているのだった。

「ユキは?」

本当はホール近くのカフェでパスタを食べていたのだが、雪緒はあえて、

「私もまだだから、何か作ろうか」

と言った。雪緒は雪緒で、思ったよりも柾貴の帰りが早かったので、焦っている。大人びた色っぽさを見せたかと思えば、わりと簡単に拗ねたり、あっさり機嫌がなおったりするような、幼稚な部分を併せ持つこの幼馴染みは、繊細な扱いをしなければならないのだ。

「きいちゃん、待てる?」

「ン」

雪緒がソファの傍から柾貴の顔をのぞきこむと、ようやく彼は体を起こした。眩しげな眼差しが、雪緒を見つめている。もう機嫌はなおったらしい。雪緒は思わず笑ってしまった。

「なに」

「え?」

「なに笑ってるの」

柾貴の手が伸びてきて、雪緒の頬をそっと撫でる。

「何でもないよ。ほら、きいちゃん、ごはん炊いて。早炊きにしてよ」

「うん」

「昨日、牡蠣を買って来たからね。それと鮭のムニエルにしよう」

「うん」

機嫌のなおった柾貴は、すこぶる素直である。ふたりは揃ってキッチンに立った。秋山と会ったことなど、言えるはずもなかった。


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