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篠笛の、涙を誘うようなせつない音色が、雪緒は好きである。椹木家の門扉をくぐってぐるりと広大な日本庭園をまわり、人目に触れない裏庭へ足をすすめると、耳慣れた篠笛の音色が聴こえてきた。裏庭に面した十二畳の和室と、その隣の二十畳の洋室が、柾貴の私室になっている。



遠き別れに 耐えかねて

この高殿に 登るかな

悲しむなかれ 我が友よ

旅の衣を ととのえよ



「惜別の歌」である。旋律が途切れたところで、柾貴がこちらに気づいた。「どうした?」と視線で問うてくるので、雪緒は小さく首を横にふった。「何となく来ただけよ」、という意味を、おそらく柾貴は正確に読みとっただろう。

「上がっていきな、ゆきちゃん。暇だろ?」

あら失礼な、と思ったが、実際に夕方まで暇ではある。雪緒はおとなしくサンダルを脱ぎ、縁側から和室に上がった。

ひんやりとした畳の感触が、足裏に気持ちいい。いぐさの匂いがかすかに漂う、ほどよく広いこの和室で、柾貴が吹き奏でる篠笛の音色を聴くのが、雪緒は昔から好きだった。雪緒がねだるどんな曲も、彼は簡単に吹いてみせる。「青い山脈」だとか、「リンゴの唄」だとか、そういう昭和前期の——つまり戦争の傷をひきずったような、悲哀を帯びた旋律の曲などは特に、ふたりの気に入りであった。

ほんとうは篠笛よりもトランペットを吹くほうが好きな柾貴だったが、そのことは雪緒しか知らない。トランペットなどに夢中になることを良しとはしない家であるから、柾貴も家ではトランペットには触れない。どうしても吹きたくなると、必ず雪緒を誘ってスタジオを借り、趣味程度の雪緒のテナーサックスとあわせて、思う存分トランペットを堪能するのである。

雪緒に冷たいほうじ茶を出したあと、柾貴はさらに「平城山ならやま」を奏でていた。今日の彼は、黒地に滝縞の浴衣を着て、白の角帯を締めている。上背があるうえ、鼻筋のとおった端整な顔立ちであるから、浴衣姿がいっそうすずしげに見える。



人恋ふは 悲しきものと

平城山に

もとほり来つつ

堪えがたかりき



柾貴はもう、必要以上に話しかけてはこなかった。ゆったりとして、しかしやむことのない篠笛の音色に、いつのまにか雪緒は畳のうえで眠りこんでしまっていた。



雪緒は夢をみていた。

夢のなかで、雪緒はまだ小学生だった。なんだか頬が熱いなと思ったら、何のことはない、自分が大泣きしているのである。どうしていいのか分からない、得体のしれない恐怖を、雪緒は感じていた。

(……ああ、これ……)

覚えている。雪緒を突き転ばして擦り傷を負わせた男子児童に、柾貴が復讐をしたときの記憶なのだった。こわかったのは、自分を突き倒した男子児童ではなく、柾貴のほうだった。あからさまに激昂したわけでもなく、怒りのあまり喚き散らしたわけでもない。ただ平然とした表情、そのきれいな顔を歪ませることもないまま、柾貴は手にしていた鉛筆を、男子児童に突き刺したのだった。

大人がどういう解決の仕方をしたのか、いまだに雪緒は知らない。だが、遠く引っ越していったのは、怪我をさせられた男子児童のほうだった。柾貴は柾貴で、そんな事件などなかったかのような顔をして、いつもどおり雪緒にはとろけるように優しかった。小学生のときから、柾貴はそんなふうだったのだ。

この幼馴染は、普通のひととはちょっと違う。気づいたのは、そのころだったように思う。だが、柾貴は優しい。どちらかといえば押し出しの弱い雪緒の手をひいて、いつも彼がいろいろなところに連れて行ってくれた。柾貴の存在が、雪緒のなかではもっとも大きかった。「きいちゃんは、ちょっとこわい」、そう思っても、彼を嫌いになることは出来なかった。

血を見て大泣きする雪緒の手を、柾貴は、人を傷つけたその手でつかんだ。嫌いにはならなかったが、そのときはただ、柾貴がこわくてこわくて、雪緒はいっそう泣いた。

「ゆきちゃん、なんで泣くの」

と、柾貴はあのとき、そう言った。彼は、雪緒がなぜ泣いているのかを、ほんとうに理解できなかったのだ。少し困惑した優しい声で、

「ねえ、なんで泣くの」

そう言う柾貴も、泣きそうな顔をしていたような気がする。そして雪緒は、「こわいよお」「やだあ」とひたすら泣き叫んだ。柾貴の手を振り払うことはしなかったはずだが、「きいちゃんがこわい」と泣きつづけた。

あのころから、雪緒は人付き合いが不得手になった。中学生になり、高校生になると、いよいよ雪緒は意識的に一線をひいて人と付き合うようになった。高校二年生あたりでようやく、小学生のときのあの事件がトラウマになっているのだということに気づいた。

だが、「なんで泣くの」と言ったときの——そして何より、「きいちゃんがこわい」と泣き叫んだときの柾貴の表情を、雪緒はいまだに忘れられずにいる。

「ねえ、なんで泣くの」

あ、だめ、きいちゃん、泣いちゃだめ。

夢のなかで、雪緒は柾貴にすがりついた。いつのまにか、自分の涙はとまっているのである。

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