二
昼前になって、雪緒はふらりと外に出た。近所のカフェで、早めの昼食をすませようと思ったのである。家から徒歩十分、新しく出来たカフェではあるが、雪緒はすでに常連客のひとりになっていた。
「あ、ゆきちゃん、いらっしゃい」
若奥さんのほうが先に気づいて、ふわりと花開くような笑顔を見せた。雪緒のほかに、客はまだいない。誰も客がいないときは、経営者である若夫婦の、雪緒への応対が、少しくだけた気安いものになる。
「今日は早めのランチ?」
「はい、根菜と揚げもちの胡麻煮? こないだ黒板で見たときから食べたくて食べたくて」
「あら、嬉し。日替わりね。すぐ用意するから、待ってて」
値段だけ見るとけっして安価とは言いがたいが、それでも提供される素材の質や味を考えると、妥当なところだと思われる。健康にこだわった野菜中心のメニューが大半で、女性客が多い。
窓際のソファ席にゆったりと腰かけて待っていると、ものの十分もせずに日替わりごはんが運ばれてきた。
「どうぞ、ごゆっくり。誰もいないから、デザート、おまけね」
と、アキコさんは笑った。ほんとうなら、デザートは日替わりごはんに二百円プラスしないと食べられないのである。晴れた夏空は気持ちいいほど青いし、カフェのごはんはお洒落で健康的で美味しいし、おまけでデザートもつけてもらえたし——こういう些細な幸福は、まさしく雪緒の理想とするところだった。他人と密度の濃い付き合いをすることが苦手な雪緒には、これくらいがちょうどいい。濃い付き合いは、正直なところ、幼馴染の柾貴だけでじゅうぶんだった。
美味しい昼食を堪能してカフェを出るころには、かんかん照りになっていた。日傘も持たずに出て来ていた雪緒は、腕で日差しを遮るようにしながら、さらさら流れる小川沿いの、柳の木陰を選んで歩いた。すぐに椹木家の屋敷にさしかかる。この界隈は、ほとんどがこの由緒正しい椹木家の土地であった。屋敷の北に広がる山々から、数十キロ離れた海まで、椹木家の土地だけを通ってたどりつくことができる——というのは、このあたりに生まれ育った人間が何度も聞かされる台詞である。
椹木家の屋敷そのものも、もちろん広い。カフェを出てすぐにさしかかる椹木家の漆喰塀は、五分歩いてもまだ途切れない。八分である。八分歩いてようやく椹木家の塀が途切れ、そして、朝見家の石塀に変わるのだった。椹木家にはとうてい及ばないが、朝見もまた、椹木家とともにこの地で歴史を刻んできた家ではある。古くから紙司を生業とし、祖父母の代からは鎌倉の本店だけでなく、横浜、神戸、京都、芦屋にも支店を出すまでになった。祖父母はずいぶん早くに亡くなってしまったが、神奈川の店は叔父夫婦が、関西の店は雪緒の両親が、それぞれ仲良く守っている。
両親が雪緒を自宅に残して関西に拠点を移したのは、ほかでもない、お隣の椹木家のおかげであった。いささか執拗な、ゆがんだところのある次男坊とは違って(といっても、柾貴はその執拗でゆがんだ部分はいっさい雪緒以外には見せないのだが)、椹木夫妻および長男坊は非常によく出来た優しい人たちである。雪緒と柾貴が同い年であったことから、母親同士は特に仲が良い。「何かのときはちゃんとうちが面倒みるわよ、ゆきちゃんのこと」、という椹木夫人の言葉に背を押されて、両親は雪緒の高校卒業を機に、今春から関西へ越していったのだった。
「ゆきちゃん」
長い長い塀の真ん中あたり、門扉のところで雪緒は名を呼ばれて立ち止まった。
「ふみちゃん」
というのは、椹木家の長男である。柾史というので、小さいころから雪緒は「ふみちゃん」「ふみちゃん」といって自分の兄のように慕ってきた。国立大の文学部に所属しているが、もちろん将来は家を継ぐのだろう。彼もまた、普段着は和装である。
「どうしたのゆきちゃん、手ぶらで。ああ、お昼か?」
「そう、いつものとこで……」
と、雪緒はカフェのほうを指さした。
「ふみちゃんは?」
「いまから、お花の先生のお知り合いのライブにね」
名家の跡継ぎは大変である。本分である日本舞踊だけにとどまらず、茶道に華道、和楽器などの芸事を手につけなければならない柾史は、大学の夏季休暇中でも忙しく出歩いているようであった。
「ライブ?」
「お花のライブってあるんだよ。おもしろいだろ?」
「生け花ライブってこと?」
「そうそう。クライマックスで、自分の号を叫びながら、メインの一本を活けるの。はじめて観たときは、笑いそうになっちまった。ここだけの話ね」
ふふ、と柾史は穏やかに笑った。
端正な顔だちこそ似てはいるが、こういう穏やかさは柾貴にはない。あんなに色っぽくて格好いいのになあ、微妙なところで残念なんだよなあ、きいちゃんは——と、雪緒は隣家の次男坊を思い浮かべた。
(ふみちゃんは、本当にこう、何ていうか、健全っぽいんだけどなあ)
しかし雪緒は、柾史のほうにはべったりくっついたりはしない。この出来すぎた長男の存在が、次男の心に影ともいえない影を落としている可能性があることを、雪緒は本能的に察しているのだった。
「……きいちゃん、家にいる?」
ふいに、あの屈折した次男坊の顔を見たくなった雪緒は、椹木家の門扉をくぐることにした。




