シロツメクサ 〜子供の頃の約束と、大人になったお兄ちゃん、私の恋は静かに動きだす〜
◇
(いつからだろう……お兄ちゃんを男の人だと意識し始めたのは……声変わりをして男の人だと意識したとき?背が高くなってきた時……それとも隣の家から出かける時に着ている制服が変わって年の差を感じた時……もしかしたら、それ以上前なのかもしれない……)
いつもと変わらない学校からの帰り道、ジリジリと照りつける太陽の暑さを肌で感じ美奈木は学校からの帰り道を歩いていた。
(毎日こんなに、暑いと参っちゃいそう……)
「早くクーラーの聞いた部屋に入りたい……」
暑さにやられノロノロと動いていた足は家が近づくにつれ、足早に動いた。
いつものように、家の門扉を開きポストの中に何も無いことを確認してから、家の中へ入る。
ここまでは、いつもと同じ風景だった……。
玄関にどこからどう見ても父の物ではない男物の靴が、一足綺麗に並べられている所以外は……。
「ただいまー、お姉ちゃんの知り合いでもきてるのー?」
ローファを脱ぎ、時計をみるとお父さんはまだ帰って無い時間だということを瞬時に判断し、4つ年上のお姉ちゃんの友達かもしれないと考える。
「美奈木ー?おかえりー、あんたも知ってるお客様が来てるわよー」
聞こえてきた返事はお姉ちゃんではなくお母さんの嬉しそうな声色だった。
(私もお母さんも知り合いの男の人??)
誰が来てるのか、すぐに思い浮かばず、小首をかしげながらリビングへ向かった、リビングでは楽しそうな声色が広がっていた。
テレビ近くのソファーにお姉ちゃんが座り、その向かいには、メガネをかけた男性が座ってお母さんの話に笑顔で受け答えをしていた。
お母さんと男の人の会話を聞きながら、時々言葉を挟み込んでいたお姉ちゃんは入り口まで来た私に顔を向ける。
「美奈木おかえりなさい」
「お姉ちゃんお母さん、ただいま。えーと、お客さんがきてるんだっけ……?」
(だれ…だっけ??なんだか見覚えある気がするけど……)
何処と無く見覚えのある男の人の顔を見つめている私に、お姉ちゃんが笑いながら助け船をだしてくれた。
「柾樹よ。私と同い年の、よく美奈木は遊んでもらってたじゃないの、柾お兄ちゃんって呼んでさ」
「柾お兄ちゃん……え、柾お兄ちゃん!?」
私の言葉を聞いた柾お兄ちゃんは、昔と変わらない笑顔で、懐かしむような声色を出す。
「久しぶりだね。美奈木ちゃん。確か俺が高2の春頃からあまり会えなくなったから……4年ぶりかな?大きくなったね」
お姉ちゃんと同い年の柾お兄ちゃんは、私が小さい頃から、それこそ幼稚園に通っている頃からの家族ぐるみの付き合いで私の初恋相手でもある……。
お兄ちゃん達が高校2年生になって、私が中学に入学してから、噂でお姉ちゃんが柾お兄ちゃんと付き合っているということを聞くまでは、私は犬のようにお兄ちゃんの周りをうろちょろしていた。
「ーーーぎ……ーーーなぎ? ーーーー聞いてる? ちょっと、美奈木?」
「え?」
あれからソファーに座り4人で話していると、いつの間にかぼんやりしていたようで話を聞いていなかったようだ。
「あ……ごめんなさい。少しぼーっとしちゃってた」
「もー、しっかりなさいよね。あんた来年受験生でしょ……。あっそうだわ。柾樹くん」
時々ぼんやりとしてしまうことが多く、友人からもフワフワしている所があるよねと良く言われる。今回は柾お兄ちゃんとの再会もあり思い出を思い出してたのもあり、一段とぼーとしてしまっていたらしい。
お母さんは来年受験を控えている私がフワフワしているからか心配になることが多いみたいで最近は少し小言が多い。
すると、ふと思い付いたように言った。
「ねねね、柾樹くん。さっき家庭教師のバイトを探してるっていってたわよね?」
「ええ、時間に融通がきく所で探してます」
急にバイトの話に戻った柾樹お兄ちゃんはきょとんとした顔で返事をした。
「良ければなんだけど、美奈木の家庭教師をしてみない? 代金はお父さんが帰って来てからの相談になるけど、時間はそこまで拘束しないし、良い金額を出すわよ」
「え……お母さん……?」
お母さんの言った内容がすぐに理解出来ず、思考停止したがすぐに反応したのはお姉ちゃんだった。
「それ、いいじゃないの。柾樹も美奈木なら知り合いだし変な事にならないんじゃないの?」
「お姉ちゃんまで……柾お兄ちゃんに申し訳ないよ。私の家庭教師なんて……」
嬉々としてお姉ちゃんまで家庭教師のバイトに賛成していた。
恐る恐る柾樹お兄ちゃんの方を向くといつの間にかこっちを見ていたようで目線が重なった。
「こちらとしてはありがたい申し出なので、是非ともさせていただきたいです。ただ、時間の擦り合わせがそのつど必要になると思ーーー……」
その後トントン拍子に話しが進み柾樹お兄ちゃんは、私の受験終了まで家庭教師をしてくれることになった。
◇
夏休みに入り、窓の外では朝から蝉が鳴いていて、カーテン越しの日差しだけでも暑さが伝わってくる。
「……んー……」
机に頬杖をつきながらノートと問題集とにらめっこする。
数学の問題は、見れば見るほど数字が増えている気がしてきた。
「美奈木ちゃん手が止まってるよ」
「……だって難しいんだもん」
すぐ隣から、くすりと笑う声。
ノートから顔を上げ横目でちらりと見てみると、柾お兄ちゃんは柔和な表情でこちらを見ていた。
昔より少し低くなった声。 細い銀縁のメガネ。 ラフにまくったシャツの袖。視界に入るたび、胸が変に騒ぐ。
(……ほんと、ずるいな……)
昔のまま優しい柾お兄ちゃんなのに、 なんだか昔とは違って見えてしまう。それが困る。
「ここ、途中の式抜けてるよ」
「あ……」
柾お兄ちゃんがノートを覗き込むようにして少し体を傾ける。
椅子が軋む小さな音。そのままノートへ手を伸ばした彼の肩が、触れそうになるほど近い。
「この公式使う時は、先にこっち計算してから——」
すぐ隣から声が落ちてくる。
(近い。
近すぎる)
シャンプーとは違う、少し爽やかな匂いがして、思わず身体を固くする。
「……美奈木ちゃん?」
不意に名前を呼ばれて、びくりと肩が揺れる。
「な、なに?」
「顔赤いけど。クーラー効いてない?」
柾お兄ちゃんはどこか心配そうな表情で私の顔を見ていた。
慌てて首を横に振る。
「ち、違う!暑いだけ!」
「……ふーん?」
どこか含みのある声。
でも柾お兄ちゃんはそれ以上何も言わず、また問題の説明に戻る。けれど。
説明している柾お兄ちゃんの横顔を盗み見た瞬間、小さく目を見開く。
柾お兄ちゃんの耳が、ほんのりと色づいていた。
◇
二時間ほど勉強した頃。
「はい、休憩」
柾お兄ちゃんががペンを置きながら息をつく。
「ううう……。頭パンクしそう……」
「まだ一教科しかやってないけど?」
「うぅ……」
机へ突っ伏すと、くすくす笑われた。
その時。コンコン、と部屋のドアが鳴る。
「失礼しまーす」
ひょこっと扉から顔を覗かせたのはお姉ちゃんだった。
「二人とも、休憩してるー?」
「今ちょうどしようと思ってた所」
柾お兄ちゃんがお姉ちゃんを見ながら答える。
すると姉はにやりと笑った。
「じゃあさ、アイス食べたくない?」
その一言に、美奈木の耳がぴくりと反応する。
「食べたい……!」
子供みたいに返すと、柾樹が肩を揺らして笑った。
「そういうところ、昔と変わらないね」
柾お兄ちゃんが小さく吹き出す。
「でも買い置き切らしてるのよねー。誰か買ってきてくれないかなー?」
わざとらしい言いまわしをしてお姉ちゃんはぱっと柾お兄ちゃんの方を見る。
「柾樹、悪いけど美奈木と一緒にコンビニ行ってきて」
「は?」
露骨に嫌そうな声を出す柾お兄ちゃんに、お姉ちゃんはけろりと返す。
「……別に俺だけで行けばいいだろ」
柾お兄ちゃんが面倒そうに返すと、お姉ちゃんは呆れたように眉を上げた。
「はぁ?せっかくなんだから美奈木も連れていきなさいよ」
「え、私も?」
「当たり前。女の子ずっと家に閉じ込めとく気?」
「言い方……」
柾お兄ちゃんが小さくため息をつく。お姉ちゃんは楽しそうに笑うだけだった。
「はいはい、いってらっしゃーい」
半ば追い出されるように部屋を出ながら、美奈木は小さくため息をつく。けれど。隣を歩く柾お兄ちゃんの横顔を見た瞬間、 また胸がそわつき始めてしまうのだった。
◇
外へ出ると、むわりと熱気が身体を包む。
「……暑っ」
「だよね」
隣で柾お兄ちゃんが苦笑する。昔は平気で隣を歩いていたのに。今は、肩が並ぶだけで変に緊張する。
コンビニまでは徒歩五分。たったそれだけなのに、会話が途切れるたび鼓動がうるさい。
「……柾お兄ちゃん」
ぽつりと名前を呼ぶ。
柾お兄ちゃんが「ん?」と視線をこちらに向ける。
「変わったね」
「俺が?」
「うん……なんか、大人になった」
言った瞬間、少し恥ずかしくなって俯く。すると隣から、小さく笑う声。
「美奈木ちゃんも……綺麗になった」
その一言だけで、 胸が熱くなる。コンビニでアイスを買い早速一つ食べ始める。帰路は夕焼けが少しだけ空を赤く染め始めていた。
「あ」
ぽたり。美奈木の手元で、溶けたアイスが指へ垂れる。
「……何やってんの」
柾お兄ちゃんが呆れたように笑い、私の手首を軽く掴む。ひやり、と体温が触れた。
「ほら」
親指で、指先についたアイスを拭われる。
(近い)
思った瞬間。ぺろ、と柾お兄ちゃんがその指についたアイスを舐め取った。
「……っ!?」
「甘」
何気ない顔で言う柾お兄ちゃんに対し、私は真っ赤になって固まってしまう。
「み、美奈木ちゃん??」
その反応に、今度は柾樹が「やば」とでも言いたげに目を逸らす。
「……ごめんね」
低く落ちた声が、 夏の熱よりずっと心臓を苦しくさせた。その後は、二人とも少しだけ口数が減った。コンビニの袋が揺れる音と、 遠くで鳴く蝉の声だけが耳に残る。
(なんか、気まずいかも……)
そう思うのに。
(もう少し、家までの道が長ければいいのに……)
そんなことまで考えてしまう自分がいる。隣を歩く柾お兄ちゃんの横顔を、ちらりと盗み見る。
昔より少し大人びた横顔。でも時々見せる笑い方は、 昔と変わらない。胸の奥が、じんわり熱を持つ。けれど。家の門が見えた瞬間、 小さく視線を伏せる。
◇
部屋へ戻ると、外とは別世界みたいに涼しい空気が肌を撫でる。
「生き返る……」
汗で張り付き出した胸元をぱたぱたと仰ぎながら椅子へ座る。薄い生地の部屋着が、冷房の風でふわりと揺れた。
「……っ」
「じゃあ続きやろっか」
そう言って、私はノートを開く。さっきまで外にいたせいか、 それとも——さっきのアイスのせいか。火照った頬の熱が、なかなか引いてくれない。
ページをめくる音だけが、 静かな部屋の中でやけに大きく響いた。
(……どうしたんだろ?)
ちらりと顔を上げる。柾樹は何も言わず、少しだけ視線を逸らしていた。部屋に入ってから、どこか様子がおかしい気がする。
「……征お―……」
名前を呼ぼうとした、その時だった。柾お兄ちゃんは数秒黙ったあと、深く息を吐く。
「……美奈木ちゃん」
「ん?」
名前を呼ばれ顔を上げる。視線が合った瞬間、 柾お兄ちゃんは妙に真剣な顔をしていた。
「その格好、他の男の前でもしてる?」
どくん。
心臓が跳ねた。
「え……?」
意味が分からず瞬きをすると、 柾お兄ちゃんは眉間を押さえながら視線を逸らした。
「……いや、何でもない気にしないで……でも」
低い声。
「少しは危機感持った方がいいよ」
柾樹は視線を逸らしたまま、 小さく息を吐く。
「……俺も、男だよ?」
どくん。
また心臓が大きく跳ねる。いつもの優しい“お兄ちゃん”の声じゃない。
「ま、柾お兄ちゃん……?」
戸惑ったように名前を呼ぶと、 柾樹は困ったように笑った。
「……そういう反応するの、反則」
柾お兄ちゃんはしばらく黙っていたが、 やがて観念したみたいに笑った。
「……男に、あんまり気を許しちゃだめだよ」
その声音は優しいのに。なぜか胸の奥が、 苦しいくらい熱くなった。
◇
次の家庭教師の日。
今日も窓の外では、今日も蝉が騒がしいくらいに鳴いていた。クーラーの効いた部屋の中で、ベッドの上に座りながら鏡を見つめる。
(……なんでこんなに緊張してるんだろ)
"次の家庭教師の日"
それだけなのに、 胸の奥が落ち着かない。相手は昔から知っている柾お兄ちゃん。けれど。もうずっと前から、 “ただのお兄ちゃん”としてなんて見られていない。
あの日以来、顔を合わせることを考えるだけで胸の奥がそわそわしてしまう。
『……俺も、男だよ?』
ふいに脳裏へ蘇った低い声に、 美奈木はぶわっと顔を赤くした。
「〜〜っ……!」
慌てて両手で頬を押さえる。
(思い出さなくていいのに……!)
ベッドへ倒れ込むように突っ伏したあと、小さく唸る。けれど。会いたくないわけじゃない。むしろ逆だ。
(……柾お兄ちゃんに、会いたい)
そう思ってしまう自分がいる。
ゆっくり身体を起こし、クローゼットへ視線を向ける。
(今日は何を着よう)
別に誰かと出かけるわけじゃない。ただ家で勉強をするだけ。それなのに、いつもより服選びに時間がかかってしまう。
白いワンピース。
淡い水色のトップス。
何度か鏡の前で合わせては、 なんだか違う気がして戻す。
「……変なの」
ぽつりと零しながら、 最後に選んだのは淡いクリーム色の部屋着だった。あまり気合いを入れすぎているように見えないもの。でも、少しだけ可愛く見えるもの。そんな基準で服を選んでいる自分に、小さく唇を噛む。
(……ほんと、何やってるんだろ)
ただ家で勉強をするだけ。それなのに、 柾樹に少しでも可愛いと思われたいなんて。叶うはずもないのに。胸の奥がちくりと痛む。髪を軽く整えながら鏡を見る。
(……おかしく、ないかな)
小さく息を吐き、 美奈木は視線を逸らした。ふと視線を逸らした先。棚の端に置かれた小さなアクセサリーケースが目に入った。
なんとなく手を伸ばし、 蓋を開く。その中で、小さな銀色の四つ葉が光っていた。
「あ……」
中学の頃、 柾お兄ちゃんにもらったペンダント。“頑張ったご褒美”だと言って渡されたものだ。
昔から大切にしていて、 今でも時々身につけている。小さく指先で触れる。すると自然と、 優しく笑う柾お兄ちゃんの顔が浮かんだ。
(……覚えてたりするかな?)
もう何年も前にもらったもの。柾お兄ちゃんからしたら、 きっと何気ないプレゼントの一つかもしれない。それでも。もしも気づいてくれたら、少しだけ嬉しい。そこまで考えて慌てて首を振る。
(な、なに期待してるの私……!)
そっとペンダントを持ち上げ、 首元へ合わせる。
銀色の四つ葉が、 鎖骨の上で小さく揺れた。鏡の中の自分を見つめながら、 ほんの少しだけ笑う。
「……これ、つけていこう」
◇
インターホンが鳴った瞬間、 肩がびくりと揺れる。時計を見るまでもない。
(柾お兄ちゃんだ)
「……っ」
無意識に胸元へ手を添える。鎖骨の上では、 銀色の四つ葉が小さく揺れていた。
(落ち着いて、私……)
深く息を吐く。
(ただ勉強をするだけ)
いつもと変わらない。そう言い聞かせるのに、 胸の鼓動は全然静かになってくれない。鏡の前へ立ち、 最後にもう一度だけ自分の姿を確認する。
(髪、おかしくないかな)
(変に気合い入って見えてないかな)
(ペンダント、やっぱりつけない方がよかったかも)
そこまで考えて、ふるふると首を振った。
(ううん……せっかく選んだんだし)
胸元へ触れる。ひんやりとした感触が、 少しだけ火照った指先を落ち着かせてくれる気がした。再びインターホンが鳴る。
「美奈木ー?出ないのー?」
遠くからお姉ちゃんの声が聞こえてきて、慌てて部屋を飛び出した。
「い、今出る!」
ぱたぱたと階段を降り、玄関のドアへ手をかける。ゆっくり開けると、夏の熱気と一緒に見慣れた姿が目に入った。
「こんにちは」
ラフなシャツ姿の柾お兄ちゃんが、 いつもの優しい笑みを浮かべる。その瞬間。
『……俺も、男だよ?』
不意に蘇った低い声に、心臓が大きく跳ねる
「……こんにちは」
思ったより小さな声しか出ない。柾お兄ちゃんは少しだけ不思議そうに目を瞬かせた。
「どうかした?」
「な、なんでもない!」
慌てて首を振り、 誤魔化すように先に家へ入る。すると後ろから、 小さく笑う声が聞こえた。
「……変なの」
その一言だけで、 また顔が熱くなる。
リビングではお母さんが冷たい麦茶を用意していて、お姉ちゃんはソファーでスマホを触りながらニヤニヤしていた。
「お、来た来た」
「そのニヤニヤやめてよ。お姉ちゃん……」
「別にー?」
(絶対面白がってる)
そう分かるから余計恥ずかしい。
「じゃ、今日も頑張ってね〜」
ひらひらと手を振るお姉ちゃんを背に、逃げるように柾お兄ちゃんを連れて自分の部屋へ向かう。後ろから続く柾お兄ちゃんの足音を聞くだけで、落ち着かない。部屋へ入ると、 クーラーの涼しい風が熱を帯びた身体を撫でた。
「……涼しー」
柾お兄ちゃんが小さく息を吐く。
「今日は数学からやる?」
「う、うん」
机へ向かいながら返事をする。けれど、 ノートを開いても全然集中できない。隣に座る柾お兄ちゃんを、 どうしても意識してしまう。
ペンを持つ指。ノートを見る伏せられた睫毛。時折、メガネの位置を直す仕草。その全部に、 胸が落ち着かない。
(……だめ、集中しなきゃ)
自分へ言い聞かせるようにノートへ視線を落とした。
◇
クーラーの風が、静かに部屋のカーテンを揺らしていた。机の上には開いた問題集とノート。けれど今は、二人ともほとんど手を動かしていない。休憩のために淹れたアイスティーの氷が、 からり、と小さな音を立てる。
「……あ」
ふと。ノートへ視線を落としていた柾お兄ちゃんが、小さく声を漏らした。
「どうしたの?」
顔を上げる。柾お兄ちゃんの視線は、 自分の胸元へ向いていた。その視線の先にあるのは銀色の四つ葉のクローバー。
「あ……これ?」
無意識にペンダントへ触れる。
「まだ持っててくれたんだ」
その声はどこか優しくて、 懐かしそうだった。
「……懐かしいな」
ぽつりと柾お兄ちゃんが零す。
「昔、よくシロツメクサ摘んでたよね」
「あっ、覚えてる?」
「覚えてるよ」
少し笑ったあと、 柾樹はゆっくり続けた。
「花冠作って、“結婚式みたい”ってはしゃいでた」
「〜〜っ!!」
思い出して一気に顔が熱くなる。
「わ、忘れてあんなの……!」
「無理」
くすりと笑う声。でも。その目だけは、 昔話をするような穏やかさじゃなかった。
「……俺、あの頃から結構本気だったのにな」
「え?」
あまりにも小さな声で、 うまく聞き取れなかった。
「……いや」
誤魔化すように笑って、 そっと柾お兄ちゃんがペンダントへ触れてくる。どこか壊れ物を扱うみたいに、本当に優しく。
「……柾お兄ちゃんにもらったものだもん」
自然と頬が緩む。
「大事にしてるんだ」
そう言うと、 柾お兄ちゃんは一瞬だけ言葉を失ったように黙り込む。やがて、小さく笑った。
「そっか」
その笑い方があまりにも優しくて、 なんだか落ち着かない気持ちになる。柾お兄ちゃんの指先が触れているペンダントへと、 思わず視線を落とす。すると柾お兄ちゃんが小さく目を細めた。
「……シロツメクサの花言葉は、幼い頃に『私を想って』だって、美奈木に教えてもらったけど」
「え?」
突然の言葉に顔を上げる。幼い頃、土手でシロツメクサを摘みながら、私が得意げに花言葉を話した記憶がふわりと蘇る。
懐かしさに目を瞬かせていると、柾お兄ちゃんは私の鎖骨のあたりに視線を落としたまま、静かに続けた。
「美奈木は、四つ葉のクローバーの花言葉知ってる?」
「……ううん、知らないかも」
そう答えた瞬間だった。
「《私のものになって》——……」
柾お兄ちゃんがゆっくりと身を屈める。そして。私の肌の上で、ひやりとした銀色の四つ葉へ、 そっと唇が触れた。
息が止まる。
至近距離で重なった視線は、もう、私の知っている“優しいお兄ちゃん”のものじゃなかった。それは、完全に私を捉えようとする「男の人」の目で。胸が、苦しいほど熱い。
完全に固まってしまった私を見つめながら、柾お兄ちゃんは、困ったように小さく笑った。
「……もう、お兄ちゃんのままじゃ無理なんだけど」
◇




