オーロラ・ド・シャボン~aurore de savon~
ホームセンターで買った材料が入っているビニール袋を、オーバーにガサガサ言わせながら走る兄は必死そのものだった。
苦しいのか、それとも足が痛いのかわらないが、なんだか今にも泣いてしまいそうな悲しい顔をしている。
兄は数十分前も同じように走っていた。
しかし、その腕にジャマそうなビニール袋の姿はなく、顔も苦しそうなだけだった。
少し疲れたのか息を整えるために、早歩きに切り替える。
それがたまたま公園の側だったのだ。
兄は遊具に一つ一つ焦点をあわせては、昔の思い出と照らし合わせていた。
夕方と呼ぶにはまだ少し早い時間帯であるため、子供が一人や二人遊んでいてもおかしくはなく、ましてその光景が兄の網膜に映っても、なんら不思議ではなかった。
そしてその瞬間、兄の脳の中で、今まで形成されていなかったシナプス回路が一瞬にして構築された。
つまりは思いついたのだ。
ひらめいたと言っても良い。
そして、兄は走ってきた道を猛烈な勢いで引き返し、ホームセンターへ向かうのだった。
兄が全力疾走を始める少し前、妹はいつものように花瓶の水を替えるために部屋を出た。
建物全体に染み付いた独特の匂いにもようやく慣れ、顔見知りの人もたくさん出来た。
洗面台で水を捨て、部屋に戻る些細な時間でさえも、すれ違う人と何気ない会話をするまでになっていた。
あの非日常だった毎日が、今では日常に変わっており、それは喜ぶべきことなのか、それとも悲しむべきことなのか、その判断は難しく、妹も答えを出せないでいた。
部屋に戻ると、そこには非日常が展開されていた。
その光景に思わず花瓶を落としそうになる自分に気づいた妹は、両手いっぱいに力を入れるといつもの定位置に花瓶を置き、ベッドを取り囲んでいる医師や看護士に尋ねた。
妹は動揺を見せながらも携帯を取り出すと、兄へ電話を入れたのだった。
妹が花瓶の水を替えようとする2時間ほど前、兄が新しい花束を持って病室へ入ってきた。
兄と妹は既に日常となっていたいつものやりとりを交わし、今日は調子がいいことを聞いた兄は、嬉しそうに優しく微笑んでいた。
そして、目を覚まして兄の存在に気づいた母と、兄と妹の三人で何気ない会話、つまりは今日や昨日、そして過去自分達が歩んできた全ての時間についての談笑を開始させたのだった。
「あんた達が小さい頃は・・・・・・」
「あの時は忙しくて・・・・・・」
「そういえばアレは・・・・・・」
昨日聞いた話、数年前に聞いた話、そして初めて聞く話を時間の許す限り続ける。
兄と妹の口から子供の頃の夢について語られ始めると、母はなんとも機嫌がよさそうに窓の外を見つめて話し始めた。
その話は兄と妹が初めて聞く、母が子供の頃に抱いていた夢の話だった。
「それじゃあ、治ったら行かないとな」
その言葉を残し兄は席を立つと、いつものように「また明日」と言って病室を後にしたのだった。
兄が病室の扉を勢いよく開けたときには母の意識はなく、医師達はただ定期的に機械に表示されるデータを読み取るしか手立てが無い状態だった。
妹は涙をポロポロこぼしながら兄の方へと近づいていく。
兄はそんな妹を素通りすると、窓を開けビニール袋を逆さにして中身を豪快に出し、何事もなかったかのように作業を開始させた。
兄の行動に涙も止まってしまった妹が、なんと声をかけて言いか迷っていると、兄は自分の行っている作業とその目的を、手を休ませることなく説明した。
一通り説明を聞くと、妹の顔は先ほどとは一変し、引き締まった顔つきにかわり、「わかった」と、力強く返答した。
妹と兄の息の合ったコンビネーションを医師と看護士は黙って見守っている。
目的の意図を理解し、賛同したのだ。
もうすぐ夕方と呼んでも差支え無い時間帯を迎えようとしている。
母の目がゆっくりと開かれた。
一番最初に気が付いた妹が顔を近づけて声をかける。
母の顔にある筋肉が一切動こうとしないため、声が聞こえているのか、理解しているのか、妹は判断できなかった。
しかし、妹は聞こえているし理解していると信じ、大きな声で先ほどまで兄と行っていた作業の一番大切な部分だけを伝えて窓のほうを指刺した。
窓のところに待機していた兄は、母の目線がこちらに向かれたことを確認すると、ゆっくりと窓を開けた。
窓にはスポンジや紐が装着されており、シャボン液がこれでもかというほど染み込まされており、その結果、窓が開かれていくと大きなシャボンの膜が形成されていく。
夕日に照らされ、膜に出来た虹色の模様が不規則にゆらゆらと揺れ、部屋の中から見上げると、その模様がまるで空に映し出されているように見えた。
先ほども言ったが、もう一度だけ妹は一番大切なことを母に伝えた。
「ほら、オーロラだよ。オーロラを作ったんだよ」
母の口元がかすかにピクリと動いたが、すぐさま元の表情に戻ってしまった。
しかし、兄妹には母の感情が手に取るように分かっていた。
母の反応を確認した兄が最後の言葉をかけた。
「やっぱり、本物にはかなわねえよ」
今まで我慢してきたのだろう。
ふさいでいた栓が取れ、思いとか気持ちとか、そういった感情が激流のように溢れ出て、兄の頬を濡らしまくる。
最後に一言、どうしても伝えなくてはいけなかったが、なかなか喉を通すことが出来ない。
息を口から吐こうとすると、アゴが揺れてしまい上手くしゃべれないのだ。
しかし、兄はそれでも懸命にあごを抑えながら絞るように言葉を発した。
「見に行こうぜ」
“みんなで”と付けたしたかったが、それは出来なった。
いや、確かに言ったには言ったが、もはや日本語、いや言葉とは呼べない音となって口から発せられていた。
母の表情は相変わらず変わらない。
しかし、目蓋を1回・2回とゆっくりと閉じて、今出来る全力で応えようとしていた。
その母の気持ちに神が応えたのか、はたまたただの偶然なのか。
まるで誰かが優しく吹きかけているような、そんな風が吹いた。
シャボンの膜が大きく歪むと、完璧な球体が部屋の中へと大量に流れ込んでくる。
小さいものから大きいもの、くっついているものから2重になっているものなど、様々なシャボン玉が部屋中を満たしていく。
それはまるでオーロラの粒子のように綺麗で、綺麗で、そして綺麗だった。
それが何を告げているのか、兄妹は一瞬に理解した。
部屋中を満たしていた美しいオーロラ粒子が、コンマ一秒も狂うことなく一斉に破裂したのだ。
破裂した粒子の水滴が肌を濡らすのを感じながら、二人は母の顔を見た。
力が入らなかったはずの母の顔は、確かに微笑んでいたの
だった。
それは数十年前の話。
夏の始まりを告げる蝉が校庭から聞こえてくる。
授業参観なのだろう。
1年2組の教室の後ろには、少しおしゃれをしたお母さん方がずらりと肩を並べている。
名前を呼ばれると、一人のちっちゃな女の子が元気よく返事をして席を立ち、ひときわ大きな声で自信満々に発表した。
「私の夢!!
私の夢は!!いつか!!家族で!!オーロラを!!見ることです!!
なぜなら!!オーロラは!!とても!!綺麗だからです!!」
キラキラした瞳をしたその少女は
数十年後
夢を叶えた。