第4話 第二の鬼
「『緑衣の鬼』が復活……?」俺は目を剥いて言った。「それって……!」
「落ち着け。無論リリパット=アリエスタが復活したわけではない」帝は冷静な声で機先を制す。
「模倣犯だよ、ましら。前にもあったろ、そんなことが」
バサラが思い出させる。「偽鬼」……緑衣の鬼が巷で暴れまわっていた頃、その威を借りる目的でスラムの「西南連合」がでっちあげた模倣犯だ。その時は鬼被害者のモルグが植物の鎧を着て成り済ましていたのだった。
「リリパットの骸は警察隊の合同葬儀で既に埋葬済み。屍人細菌の線も疑われたが、死体はやはり墓の中にあり、ウィルスも検出されなかった。実は今回の一件が起きる少し前、警察隊の武器庫と押収品の倉庫が襲撃される事件が起きていた。そこで鬼のローブが奪われたことも確認されている。十中八九模倣犯の犯行だ」
「……そうか」
わずかな期待が芽生える間もなく打ち砕かれ、俺は落胆を覚えた。と同時に、リリの死体がネクロウィルスによって弄ばれていないことが分かって少し安心もした。ネクロウィルスは地底由来の感染性ゾンビウィルスだ。噛まれると生者も死者も感情の無いゾンビとして人を襲い続ける。その鎮圧のために昨春は大騒ぎになっていたくらいだ。
「捜査は警察隊の方に任せてある。その件について明日の元老院会議の議題に上がっている。お前の枠は既に外道法師が代理として申請しているから……、お前はその次の会議から復帰しろ」
帝は時間が来たという風に話に区切りをつけた。
「アテネ嬢と会っていくか?」
立ち上がった俺の背に帝は声をかける。
「磨羯宮……、奴の屋敷も、例のカプリチオ虐殺事件で封鎖されているからな。御所内の離れに一時的に住まわせてやっている。まだ目を覚ましたアテネとは話していないだろう」
カプリチオ族の貴族たちが一堂に会し、アテネを除く全員が惨殺された事件……。アテネはそれから半年間眠り続けていたから、入れ違いにリリを失い引き籠っていた俺とは確かに会っていない。
俺は口ごもる。「いや、今は……」
「アテネなら、多分外出中ですよ」バサラが訂正する。「今朝御所から出ていく所を見ましたからね。ましらは間が悪かったな」
「ああ、うん。良いんだ」
俺は軽く手を振って応える。それから少し黙って、気になっていたことを聞いた。
「カプリチオ事件の犯人、あれは今、誰の仕業ということになってる……?」
「エルロックだ……、探偵の」
「! 馬鹿な、あいつは事件を捜査していたんですよ?」
「捜査を誤った方向へ導くためだ。奴の正体は自身のライバルであり、死んだとされていた半地下の元支配者・リンボ=エルモリアだった……。それだけではない、奴は二か月前『八虐』の一人モラン・カンケヴンソーダを脱獄させ、カプリチオ貴族の生き残りであるアテネの眠る施薬院を襲撃した。目撃者たちの証言によれば、リリの死もリンボの手によるものらしい……」
御所を後にし、俺は薄曇りの空の下を空間転移で移動した。家の前に着くと、小雨が既に振り出している。郵便物が届いていることがあるので、部屋の中には直接転移しない。
ポーチの前まで歩いて、俺はぴたりと足を止めた。玄関先の屋根の下、一人の少女が足を組んで優雅に佇んでいる。その光景はいつかの夜のことを思い出させた。
「やっと来たわね」
彼女が紅の髪を掻き上げると耳元で緑の宝石が揺れた。ショッキング・ピンクの瞳を細め、アテネ=ド・カプリチオがこちらを見つめる。「おかえりなさい、ましら」
〇
わずか言葉を失った後、俺は言葉少なにアテネを家の前に招じ入れた。
ぎこちなく彼女の前を歩き、所在無げに暖炉の前のソファを勧める。
「…………」
そんな俺の挙動をアテネは射すくめるような目でじっと観察している。
「……紅茶でも飲むか」
やっとの思いで俺は言葉をひねり出した。ええとアテネが座って答えるので俺は解放された思いでキッチンへ向かった。
小鍋を火にかけ甕に溜めておいた水を入れる。カップ二杯分より少し多めに入れた水の表面に次第に小さな泡が湧きたつのを眺めながら、俺は額に手をあてた。
言葉は喉の奥に出かかっていた。だが……、躊躇がそれを押しとどめていた。
それを確かめてしまったら、全てが終わってしまうから。
とん、と背中に小さな感触があった。いつの間にかアテネがキッチンにいて、俺の背中に額を付けていた。そのまま服の背を弱く握る。
「ごめんなさい、ましら」
どくんと心臓が跳ねる。喉を鳴らし、舌がもつれそうになるのを感じながら、俺はアテネに尋ねる。「…………ごめんって、何が?」
口の中が乾いた。アテネは答えない。……答えるまでのわずかな間を、俺が長く感じすぎているだけかもしれなかった。
アテネがようやく口を開く。「あなたが大変な時に……、会いに来れなくて。怒ってる?」
「……っ」詰めていた息を思わず吐きだす。「……そのことか。気にしないでくれよ。人に見せるような有様じゃなかったし」
向こうで話そう。俺は沸騰した鍋の火を止め、茶葉を入れたティーカップに湯を移して言った。
テーブルを挟んでソファで向かい合う。俺はアテネの斜め横に座った。「……」アテネはティーカップに口を付け俺の方を上目遣いに眺めた。
「入れないんだな」
「え?」
「砂糖。前は入れてた」
角砂糖の入った壺を指した。ああとアテネは理解して応じた。
「今は使わないの。甘くない方が好きになったわ」
「大人になったんだな」
「ふふ、そうだと良いわね」
湯気を立てるカップの上で、アテネが微笑んだ。
「……不思議なものね。こうしてあなたと話すのは、もう8ヶ月ぶりになるのに、ちっとも時間が経った気がしない」
「君は半年間寝ていたからな」
「もう。それでもよ。目が覚めたら、世界は変わってて……、ユードラやミーグル……、アマルティア……、お父様とお母様。皆いなくなってしまっていた。でもましら……」
カップをソーサーに置き、彼女は俺の隣に座った。「……あなたはまだここに居てくれてる。あなただけが」
「……」俺は目を伏せ押し黙る。彼女が家族を失ったのは事実なのだ。同情する想いも、心の中にあった。
「……リリのことは、残念だったわね。私を眠りから引き戻してくれたのも、彼女だったと聞いているわ。……辛いときに傍にいられなくてごめんなさい。ましらは私が眠っている間も、来てくれてたっていうのに」
「それは……、良いんだ。……当たり前の、ことだったから」
アテネの顔がこちらを向く。俺はまた言葉を切らす。……アテネの手が、遠慮がちに俺の手に触れた。俺は手を逸らさなかった。アテネの冷たい手が俺の手を握った。
「ましら……」アテネは伏し目がちに口を開いた。「辛いと思うわ。きっと寂しいと思う。でもあなたには、まだ私がいるわ。私にもあなたがいる……」
アテネがこちらに向き直り、そっと俺の肩を押した。俺はなされるがまま、アテネにソファの上へ押し倒された。
「癒してあげるから。あなたの心の穴を、私が埋めてあげる……」
アテネが握った手を自身の心臓に導く。掌の中で、彼女の激しく沸き立つ生の振動を感じた。アテネの手が、俺のベルトに伸びる。「ほら……、どきどきしてるの、分かる? 生きてるって証拠よ。私は生きてる。私はいなくなったりしない。リリと違って……」
「アテネ」
口から出た声は思っていたよりもずっと固く、冷ややかだった。アテネの手がベルトのバックルの上で止まる。
「そこからどいてくれないか」端的に告げる。渇いたショッキング・ピンクの瞳に、俺の冷たい眼差しが反射していた。俺はもう一度繰り返す。「離れてくれ」
「……あ」アテネは俺の手を放し困ったような笑みを浮かべる。「……ごめんなさいましら。私ったら、急ぎすぎちゃったわね! 今のは忘れて……」
「茶番はよせ。……もう知ってる」
俺はアテネの言葉を遮り、顔を背けて言った。
「お前なんだろ。……リリを、殺したのは」
俺の上で、アテネが固くなるのが分かった。……言ってしまった。ついに、核心に迫ることを。額から冷たい汗が流れるのを感じながら、俺はアテネの表情を窺った。……そして凍り付いた。
「……なあんだ」先ほどとは別人のような、感情のない笑みがそこにあった。「気付いてたんだ」
俺は絶句して表情を固めた。アテネはそんな俺を尻目に、背中を向けて床の上に優雅に降り立った。「他の目撃者は記憶を書き換えたけど……、やっぱり見られていたのね。リリの最期を看取ったと聞いていたから、もしかしてとは思っていたわ」
「……信じたくはなかった。俺の見間違いであればと……」
「期待に沿えなくて申し訳ないわね。でも残念、彼女を殺したのは間違いなく私よ。この手で狂花帯を貫き、屋上から落とし殺した」
淡々と答える。俺は跳ね起きて問う。
「なぜ……、なぜ殺したんだ!! リリは君を救おうとしてた! 償おうとしてたんだぞ!!」
俺は歯ぎしりし、荒く息をつく。「……きっと錯乱していたんだろう。永い眠りから無理やりに目覚めさせれば、そうなるかもしれないとリリも危惧していた。磨羯宮の時もそうだ! それにそのペンダント……」俺はアテネの胸に下がった、皹の入った黒いペンダントに手を伸ばす。「俺のあげたこのペンダントに籠っていた、『冥王』の怨念……! それに中てられたんだ! そうだよな? そうだと言ってくれ……」
アテネは無表情に俺の手を弾く。「残念だけど……、私の狂気は私のものよ。全ては私の感情が生んだ衝動で、私の意志が決めた行動。リリは殺すつもりで落としたの。彼女は目障りだったから。そして何より、私は『お母様』を殺す必要があった」
アテネは首を傾け俺を見下ろす。「それにしても……、リリの件はともかく、カプリチオ邸のことまで知っていたのは驚きね。どこから漏れたのかしら。ネヴァモア卿あたりから聞いてた?」
俺は答えない。ただ切迫した表情でその瞳を見返すばかりだ。アテネはため息をついて鋭く見つめなおした。『教えて』
「……! 地底にあった『冥王の頭脳』を破壊した時……、カプリチオ族の記憶を垣間見た。『頭脳』には、『冥王』すなわち中枢回路である人工脳髄と、その端末である奴餓鬼たちを中継する補助器具として……、奥土器の『阿頼耶識』が使われていた。そこに、死ぬ直前のカプリチオ貴族たちの念が記録されていたんだ……」
「ふうん。そういう繋がりね。もういいわ」
アテネの催眠が解けて、俺は床に崩れた。触れるまでもない音声のみの催眠……、明らかに能力が強くなっている。
アテネは用は済んだというようにスカートの裾を翻した。「待ってくれ!」俺は叫んだ。
「俺の……、せいなのか」
扉に手を掛けた、アテネの腕が止まる。俺は床の上に這いつくばりながら声を上げる。
「お前があの日……、あの虐殺の前夜、ここに来た時……! 君を連れていく母親から君を守ることができていれば……、あんなことにはならなかった!! 俺を恨んでいるだろう。だからリリを……!」
「それは違うわ。ましら」
俺に背を向けたまま、アテネは明瞭に答えた。「私が恨んでいるのは、あなたじゃない」
「! だったら……」「私が恨んでいるのは」アテネが声を遮った。そして穏やかな顔で振り返る。「……世界よ。そこに存在するもの、全てを憎んでいる。……でもそうね、恨み言があるとすれば」
アテネはまた俺のそばに跪き、俺の顎を持ち上げた。
「……あなたなら、気づけたかもしれなかったってことよ。私が虐待されていたことに。……でもあなたは見過ごした。いいえ、目を逸らしたんだわ。リリを救い出すことに夢中で」
大人びたアテネの顔が、一瞬だけ、見慣れた少女の表情に戻る。「……どうして助けてくれなかったの? 私はずっと叫んでいたのに。……あなたは私の、憧れだったのに」
「アテネ……」
うつ向き、意を決したようにアテネはまた面を上げた。既にその顔は酷薄な殺人者のそれに戻っている。「だから終わらせるわ」
冷たい手がゆっくりと首を掴む。「壊してあげる……、あなたも、あなたの愛したこの世界も……! 全て奪う。私が終わらせる……」
信じられないような握力で、指が喉輪に食い込んだ。俺は空気を求め喘ぐ。冷たくその様を眺め、アテネは飽きたというように手を離した。地面に落ち俺は喉に細い音を立てて息を吸う。
「今はこのくらいにしてあげる。事件のこと、黙っていてくれるならね。でも、もしも外に漏らせば……」
アテネは死人を見る目で俺を見下ろした。「リリと同じ目に遭わせるわ」
アテネは立ち上がって今度こそ玄関を開けた。「じゃあねましら。少し行くところがあるの。次会う時は、ゆっくりお茶しましょう」




