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人獣見聞録・猿の転生Ⅷ 終わりなき夜に生まれつく  作者: 蓑谷 春泥
第1章 幽鬼(ゴブリン)再び
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第3話 春宮(とうぐう)

 唇に痛みと温かな感触があって、俺は我に帰った。目の前を覆う褐色の素肌がメルのものだと気づいた時には、それは既に離れ柔らかな汗の匂いだけが残っていた。

俺はぼんやりとした頭のまま目をしばたたかせた。

 メルは唇から俺の血と毒のようなものを吐き出して、隊服の袖で口の端を拭った。

「……何だ? じろじろ見るな」

「え……、あ、ああ」

 俺は呆然として久しぶりに目の当たりにする現実の光に目を背けた。古い書物から香る黴の香りと、薬品の匂いが鼻の先で交じり合う。

「言いたいことは色々あるが……、今は一つ」毅然とした声でメルが問う。「戻ってきたんだな?」

 俺は彼女の瞳に刺されながら、少し掠れた声で答えた。「ああ」

 声帯は声の出し方を忘れたようにぎこちなく震えた。一体どのくらい閉じ籠っていたいたんだろう? 久方ぶりに目の当たりにする現実の色彩が眩しかった。

 メルはそんな俺をじっと眺め、それから仕方なさそうに扉の方に向き直った。

「ならば結構。下でカミラタ隊長がお待ちだ。この三月(みつき)お前の面倒を見てくださっていたんだ、礼を言っておけ」



 身の回りの整理をつけ、数日して俺は御所に赴いた。三か月近くも政務を(おろそ)かにしてしまった。行き掛かり上与えられた役職にしても、筋としてきちんと詫びておかなければならない。

 久方ぶりの御所はどこか静かで慌ただしかった。矛盾した感想だが事実なのだから仕方ない。前に見た時よりも空室が多くなり、その割に役人が額に汗して駆け回っているのだ。

国がこんな時に……、とメルが言っていたのを思い出した。俺が籠っていた二か月半の間に、また何か事件が起こったのか?

 迎えの者に案内を乞うと、すぐに帝の御室へと通された。帝には事前に話を通しておいたからスムーズだった。

 近頃の帝は、政務の裁量をより大きく自身に割り当てるよう動いているようだ。元老院の罷免権や任命権を持つようになり、有事の際の強行採決の用件を緩くしている様子だ。これまでは民族主導、各民族の代表である元老院に基本的な運営を任せ、自身はそれに口を挟み可否を定めるだけのスタンスだったが、元老院の承認を待たず国の重要事項を直接決定できるように法を改正したそうだ。

 そんなことを考えながら長い廊下を歩いていると、障子が開いて勢いよく子供が飛び出して来た。目の前にいた俺はよろめきながら受け止める。腕の中で子供が、驚いた様子で顔を上げる。10歳くらいだろうか。あどけない女の子だ。御所で遊んでいるということは、皇族の息女だろうか。

「あー、こら、春宮(とうぐう)。駄目だろー廊下に飛び出しちゃ」

 部屋の中から付き人らしい青年が追いかけてくる。俺は見覚えのある赤毛に思わず名を呼んだ。「ユーメルヴィル!」

「ぉん?」野風連東面の若頭、ユーメルヴィルはこちらに向けた顔を明るくした。「おお、誰かと思えばましらじゃねえか。なんだ、来客ってなぁお前のことだったのか」

「お前、なんでこんなとこに……」

「言ってなかったか? こっちで『新しい仕事』見つけたってよ」

そういえば前にそんな話をしていたが、まさか朝廷内の仕事とは思わなかった。俺はバサラの服装を眺める。軽い装備だが防具を着込んでいる。「……近衛兵か」

「ああ。うちの若い連中引き連れて入団したんだよ。一年前の……、なんだ、城内の戦いでずいぶん減っちまったからな」

 ぼかした言い方だったが、獄門院の変のことを伝えているのだと分かった。

「っつーか、衛兵が立ち話してるのもまずいよな。……帝!」

 バサラは部屋の内側に声を掛けた。

「……来たか。真白雪」

 薄い御簾(みす)の内で金銀妖瞳の眼が静謐な輝きを見せる。俺はいつになくかしこまって御簾の手前に正座した。

「どうした。柄にもなく弁えているな」帝が静かな声で問う。

「初めてこの地に来た時とは違い、今は朝廷に籍を置く身だ。そのうえで三月(みつき)もの間職務を滞らせてしまった。謹んでお詫び申し上げる」

「ふん、あくまで責務ある立場として、か。やはり旧世界の価値観は相違するな。貴族の位をくれてやったは良いが、忠誠の感情は芽生えていないか」

 俺は黙って頭を下げる。帝は小さく鷹揚に笑う。

「そう胸襟を堅くするな。もとよりお前は珍重な稀人(まれびと)。全てをこちらの道理に従えようとは思わん。特別に無礼講を許そう」

 楽にして構わないというので俺は一礼して膝を崩した。

「時にリリパットの件は残念だったな」帝が労うように言う。「不二原探題(しごと)については心配いらん、お前に変わって野風の長どもが業務を熟している。なあバサラ?」

 東国の話も入っているのか、バサラが肯いた。

「なかなか会いに行けなくて悪かったな。何度か診療所尋ねたんだけどよ、ずっと鍵しまったままだったから」

 俺が塞いでいた間、診療所の鍵はカミラタが持っていたのだ。そのことを知らなかったらしい。

「時に春宮と会うのは初めてか? 皇子(みこ)、この者が彼の有名な稀人、真白雪だ。きちんと挨拶しなさい」

「皇子?」俺は部屋を見回した。部屋の隅に侍女が座っている他は、俺とバサラ、それからさっきの娘しかいなかった。ところがその娘が小走りに俺の前まで来て、帝の側で正座した。娘が差し出した手に、バサラが水瓶を傾ける。両手で受けた水に面を埋め、すぐに娘は顔を上げた。

「獄門院ヘルダーリンが皇子、春宮のエッグハルトにおじゃる」

 俺は目を丸くした。少女だと思っていた子供の顔つきが少年に変わっている。幼いのはそのままだが、声色や微妙な体格が変化していた。俺の反応を見てバサラが笑う。

「驚いたか。俺も最初はたまげたよ。春宮は性別を反転できるんだ」

「水に濡れると変身するのでおじゃる」

 バサラの差し出した手拭いで顔を拭いながら、皇子が補足した。どっかで聞いたことある設定だな、と思いながら俺は納得した。皇族は特定の民族に属さず、各人ランダムな12民族の狂花帯が発現する。どういう力に目覚めてもおかしくはない。

「俺はこの春宮さま専属の護衛なんだ。猿族で近衛兵ってのがそもそも珍しいみたいなんだけどよ」

「そうなのか……。帝も新人によく任せたな」

何しろ春宮の身の安全は帝の命と直結しているのだ。帝と獄門院の間には血の契約が結ばれていて、春宮が一人前の王として即位できなければ、帝は心臓を破壊されることになっている。……帝もさぞかし苦い思いだろう。叔父の子とはいえ、憎き仇敵の子を次の帝に据えるため邁進せねばならないとは……。

 と、思っていたのだが、思いのほか室内には和やかな空気が満ちている。帝と春宮の間にも隔たりのようなものは感じられない。こうしていると普通の親戚のようだ。奇妙なものである。王族の考えることは分からないものだ。

「新入りと言っても、既に一年以上仕事を熟している。バサラは優れて実直だったものでな。皇族への忠誠心もあり、それでいて貴族のしがらみとも無縁だ。そういう人間はこの時世貴重だった」

 なるほどな。東国貴族クラマノドカ率いる夷の反乱、そして獄門院の変によって二分された国内の戦力……。帝は今疑心暗鬼のはずだ。獄門院の変で帝に反発する勢力は炙り出されたようにも思えるが、院の勧誘を受けながらも事態の趨勢を窺い判断を留保していただけの層も多いことだろう。信頼していた部下たちの裏切りを経て、帝も今まで以上に慎重にならざるを得なくなっているのだ。おそらく権力の一元化を進めたのもそのためだろう。元老院たちは元老院たちで、疑心暗鬼の帝に忠誠を示すために、この法案を通さざるを得なかったのかもしれない。

「実際、宮廷内で誰が味方かもわからねえ。何しろ身辺でああいう事件が続いてちゃな……」

 バサラが曇った表情で言う。「事件?」俺は尋ね返す。メルのいう国難のことだろうか。

「この二か月、親王を始めとする皇族たちが次々と失踪を遂げている」帝が口を挟む。

「ことごとくが宮廷を離れた場所で消失している。何かに誘い出されたように御所を抜け、煙のごとく姿を消す。既に11人が行方不明だ」

「誘拐か……」俺は唸る。「最悪闇討ちの可能性もある。皇族を狙ったとなると国家的な大事件だぞ。犯人から要求は?」

「ない。目的も方法も不明だ」

帝が低く答える。すると皇子が急に頓狂な声を上げた。

(おに)じゃ」

俺は春宮の言葉に注意を向ける。「……鬼?」

 春宮は肯いて薄緑の手拭いを突き付けた。「緑の鬼が攫うのじゃ」

 緑の鬼。そのフレーズを聞いて俺は反射的に固まった。帝が重々しい表情で肯く。

「そうだ。現場には大規模な破壊の後があり、多くの目撃者が口を揃えて言っている。緑のローブを着た、異様な怪力の者がいたと」

「それって……」

 帝がああと応じた。

「蘇ったのだ。『緑衣の鬼(グリーン・ゴブリン)』が……」


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