第2話 女神
「五号……? なんのことだ。……いや、それよりどうやって俺の世界に入った? お前は誰だ!」
「質問が多いねえ。君の片割れは順番に一つずつ訊いてくれたよ? 真白雪くん」
目の前の女は制服を身に纏い、はっきりとした少女の姿をとっていた。髪の毛は七色に煌めき瞳もまた玉虫色に堪えず揺らめいている。具体的な姿をとっているにも関わらず、その存在にはどこか超常的な雰囲気を感じさせるものがあった。それはこの世界が俺の精神世界であるということに留まらないようだった。
「どこかで会ったか?」
俺はさらに質問を追加した。
「直接顔を合わせるのは、初めてと言える。と同時に、汝はいつでも君に会っている、といっても差し支えない」
「禅問答は御免だ。……。さっきお前は俺を『五号』と呼んだな。『12人の怒れる男』の関係者か?」
「ほう」
女は興味深そうに七色の眼を輝かせた。
「なかなか勘が良いね。そうだ、私は知っている。君が『12人の怒れる男』第五号として手術を受け、12万年という歳月を一足飛びに飛び越えてきたこともね」
俺は彼女の声に耳をそばだてた。『もしもこの世界に帰ってくることができたなら……、君は英雄になる』。過去世界で俺が最後に聞いた言葉だ。あれは手術を施した男の言葉だったと今では思い出せるが……、ここに飛ばされた当時、俺はその言葉を女の声で覚えていた。転移して初めて遭遇したリリの声と、その手術者の言葉とを混濁した意識の中で結びつけてしまったのだろう、そう思っていた。だが彼女の声は……。
「君の想像通りだ。私は時間を跳躍する君に接触し、君を執刀した邇凝博士の言葉を繰り返した。大事なことだからね。だって君は『特別』になりたがってた」
俺は眉間にしわを寄せて睨む。「どこまで俺のことを知ってる」
俺の過去を、傷跡を、全て見てきたとでも言うのか。女は優雅に髪を指に巻き付けた。
「なんでも知っているさ。私は全知全能なんだ。直接見てきたわけではないがね、君の過去については知識として知っているよ。両親を知らず育ち、孤児院の家族を事故で失ったこと。生存者の後遺症に苦しんだ君が『特別』になることで生き残った意味を見出そうとしたこと、そしてこの世界に来てようやくその『英雄化願望』から解放されたことも。……そのきっかけとなった愛しい存在を、つい最近失ったこともね」
「黙れ!!」
俺はどんと壁を叩いた。空間に皹が入り、欠けた記憶の断片が床に散らばる。
「荒々しいねえ。辛いだろう、愛する者を失うのは。だが真白君、生き続けるというのはそういうことさ。生きている限り、人はみな『これ』を繰り返すんだよ」
景色が塗り替わっていく。遠くに火の手が上がる施薬院、心臓が撥ねる。屋上に、小さくリリの姿が見える。
「ダメだ!!!」
手を伸ばす。その手を擦り抜けていくように、リリの身体は宙を舞った。あの日と同じように、女神の像が伸ばす槍がその身を貫く。
俺は絶叫する。顔を覆い。辛い現実を書き換えようとする。しかしすぐにまた同じ景色が周囲を覆いつくす。
「目を背けるな!!」
女が俺の髪を掴んで引き上げる。
「君自身気になっていたのだろう? だからこの記憶だけは再生せずにいた。君の頭に浮かぶその仮定を確かめるのが怖かったから」
女が瞼を乱暴に掴み、無理やり見開かせる。リリが再び身を投げる。その瞬間、視界の端に紅い影が過るのをたしかに見た。そうだ、俺は視界に捉えていたのだ。リリを殺したその少女の姿を。
俺は膝を付き、音もなく喉の奥から息を吐いた。
「……分かったろう。いや分かっていたことだろう。君にはまだ為すべきことがある。追憶の中ではなく、現世でね」
女が頭を離し見下ろす。
「……あまり干渉する性質ではないんだがね。だが君は歴史の中で必要なピースだ。これ以上ここで足踏みされてもらっても困る」
「何だってんだよ……。これ以上俺に何をさせたい⁉ 一体お前は何者なんだ?」
「今の君に、正確な情報を開示する必要はない。汝はVであり、リリであり、もう一人のQでもあり、世界中全ての人間を内包している。汝は『宇宙そのもの』。人はそれを『神』と呼ぶ」
「神? ……違うな」
女の眉がぴくりと動いた。俺はかまわずに、今際の際のリリを正視した。涙が零れ落ちた。それでも、記憶の中でももう一度彼女を抱きしめた。その最後の温もりを、肌に焼き付けるように。
世界が消える。記憶が無になって白い虚無が横たわった。「……お前は神なんかじゃない。俺の女神はこの世界にリリだけだ」
「……ふ。何を信奉するかは自由だよ」
女の姿が風に吹かれ消えていく。「汝は仲立ちにすぎない。君を現実に引き戻す存在がいるとすれば、同じく現実を生きる者であるべきだ。そうだろう?」
ぴしり、と世界の果てに亀裂が入り、褐色の掌が覗いた。「お迎えが来たようだ」女が呟いて光の粒になっていく。
「ましら!」
メルトグラハが白い世界に身を乗り出し、俺に向かって手を差し伸ばした。「いつまで呆けてる、戻ってこい!」
女は既に消えていた。俺は振り返り真っ白なキャンバスを名残惜しく眺めた。かぶりを振り、メルの方に振り返る。彼女の腕をとる。世界が現実に向かって、引き戻されていくのを感じた。
白い世界の隅に、リリが佇んでいるのが見えた。いつかの記憶。リリは優しく微笑み、出かける俺を見送る時のあの笑顔で、いつものように手を振った。




