第31話 攪児(かくご)
階段を踏みしめたアテネが、そこから弾丸のようなスピードで飛び出してくる。攻撃の軌道を予知して身を捻る。ぼっという空気を殴る音がして俺の耳を衝撃が掠めていく。その一撃の鋭さに肌が粟立つ。この感じ……、リリと戦った時と一緒だ。一撃一撃が致命傷となりかねない強力無比な剛腕。アテネの記憶を覗いた時に見知っていたが、その威力を目の当たりにすると怖気が走る。
拳を躱されたアテネは、その勢いのまま半身を捻る。俺は如意宝珠を展開する。回転し回し蹴りに繋げたアテネの足を受け止め、そのまま押し敗けて壁際に弾き飛ばされる。激しく打ち付けられた背中が、呻き声を弾き出す。
「どうしたの⁉ 受けてばかりじゃ私は止められないわよ?」さらに勢いを止めず、バレエのような回転でアテネが軽やかに地面を跳ねる。振り下ろされた足蹴を再び如意宝珠で受け止める。すさまじい重圧に床に亀裂が入り、下の階層まで落とされる。螺旋階段は途中の段が途切れていただけで、一層下の部分はまだ生きていたようだ。俺は地上まで叩き落されることなく、フロア一つ分の落下で済んだ。安堵する暇もなくアテネが拳と共に降ってくる。転げるように躱し俺は宝珠を立てに身を起こした。
土埃の中アテネがむっくりと起き上がる。『止まれ』
そう命令される未来が見えて俺は耳を塞いだ。アテネの唇が同じように動く。今のアテネは音声だけでも催眠にかけられる。予知で聴く分には問題ないか……。さらにアテネの拳が空気を裂く。咄嗟に空間の穴を作りアテネの殴打を別の場所に繋げる。すぐ横に開いた穴からアテネの拳が飛び出、アテネの顔に直撃した。
「あっ……」
思わず俺は狼狽える。反射的にカウンターの位置に飛ばしてしまった。腕を抜いたアテネは無言で立ちつくし、自身の頬に触れる。「へえ……」それから驚くほど冷たい瞳でこちらを睨みつける。
「ようやく反撃してきたと思ったら……、自分で自分を殴らせる? あなた自身の手は汚そうともせずに?」
胸倉を両手でつかまれ引き寄せられる。ショッキング・ピンクの目が怒りに燃えていた。「ふざけないで。私を止めたいんでしょう? 最愛の人を奪った私を許せないでしょう⁉ だったら殴ってみなさいよ! 私を、殺すつもりで‼」
「っ、俺は……戦いたくない、お前と……! 俺はお前を傷つけた……、守ることができなかった! だからこれ以上傷つけたくない!!」
「甘えたこと言ってんじゃないわよ‼」
襟首から持ち上げられ、地面に背負い投げられる。呻く俺にアテネが馬乗りになって拳を叩きつける。「痛みは愛なのよ‼ 本気で! 殴らなきゃ! 伝わらない感情なの! こんなふうにね‼」
腕を顔の前に合わせて俺は必至でガードする。両腕の尺骨が折れ腕越しに衝撃が顔面へ伝わってくる。鼻が潰れ血が流れ出し、脳が揺れる。このままでは命が危ない。だが……、それでも俺はアテネに手を出せずにいた。あの夜、リリのもとに間に合っていれば……、虐殺の朝、アテネの母親を止めることができていれば……、いや、アテネが虐待されていることに、もっと早く気付けていれば……!
俺に彼女を殴る資格はない。目を背けた。アテネと向き合うことを避け、リリとの生活を選んだ。アテネの傷も、痣も、家族との不和も、俺は気付けたはずなのに、見て見ぬふりをした!
……このまま殺されるのも悪くないかもしれない。ふとそんな思いがよぎる。あの世でまた、リリと……。
「いい加減に死なさいよ……っ」
再びリリが胸倉を掴む。「無抵抗で聖人気取ってるつもり? やり返さないことが贖罪になるとでも思ってるの⁉ それは欺瞞だわ、ましら……。あなたは責任を回避してるだけよ‼ あまつさえ死んでリリと会おうなどと考えてる‼」
アテネが俺の頬を撲った。「あなたは卑劣だわ、ましら……‼ 私をこんな風にしたことを悔やむなら、責任を取りなさいよ。私に夢を見せた責任を、心を奪った責任を……‼ 明日に希望を抱かなければ、今日という日に絶望することもなかったのに……っ」
「……っ、アテネ……」
俺を見下ろすアテネの目から雫が一筋、俺の乾いた頬に落ちた。アテネは震える息を吐き出して目を拭った。
「……いい? ましら。人は死んだらそこで終わり。あの世も魂も無い。死んだ人間に再会することは叶わないわ。ましら。私があなたにやったのは、そういう事なの」
俺は唇を噛む。アテネが決然とした目をこちらに向ける。
「あなたに最期のチャンスをあげる。『私に立ち向かいなさい』。私を止めるということがどういうことか考えて」
アテネの強力な催眠が鼓膜や皮膚を通して流し込まれる。堪えきれないような衝動が押し寄せてきて、拳が握られる。その手をアテネに向かって伸ばす。リリの顔が浮かんだ。可憐で、誰よりも強くて、それでいて誰よりも傷つきやすい、残酷で優しい俺の女神を。俺に未来をくれた人。俺の愛しい人。世界中の何よりも美しい、最愛の恋人の顔を……。
アテネが真剣な表情で、受け入れるように目を閉じた。俺の手は……、開かれ、アテネの頭に載せられていた。
アテネが驚いたように目を見開く。
「それでも……、リリは君を、恨まなかった。最期の時、リリはお前の名を決して口には出さなかった……。あの子は、医者だから……、人を憎むより、愛することを選んだんだ。……アテネ。俺はお前を赦せそうにない。でも……、お前を救ってみせるよ」
俺は切れ切れに言葉を紡ぎ出した。アテネは、胸の内の張り裂けそうな、哀しそうな顔で微笑み……、そっと俺の手を外した。
「それじゃ……、駄目なのよ」
緑の耳飾りが、微かに冷たい光を零す。「もう手遅れなの、私は」
突き刺すような衝撃が胴に弾けて、俺の体は虚空へ弾き出された。アテネの放った一撃が再び床を砕き、俺を地上へと叩き落していた。衝撃とともに俺は地面に墜落する。頭を叩きつけ、視界が霞む。
「……呆れたわ、ましら。私を殺す覚悟も無いなんて。……もういい。これから私が壊す命を、世界を、あなたは指を咥えて見てなさい。後悔と共に」アテネは頭上から冷たく俺を見下ろし、乾いた一瞥をくれた。「あなたの所為なのよ?」
俺は彼女の名を呼び、手を伸ばした。アテネはそれに答えることもなく、ドレスの裾を翻した。振り返ることもなく、遠く、小さくなっていくアテネの姿を視界に収めながら、俺の意識は暗闇に落ちた。
間違えちゃったね、ましら君。どこかの女神が囁いた気がした。
〇
屋上に出ると、テラスは既に制圧された後だった。
優雅にしつらえられたテーブルや調度品は壊れ、大理石の床は荒れ果てて砕けていた。近衛兵長のシェクリイが帝を守るようにして倒れ伏し、猿天狗の下で息絶えている。無数の衛兵たちの屍を床に、サキが帝を追い詰めていた。こちらの気配に気づき、サキが振り向く。「アテネ様」
「仕事は果たしたようね。ユードラとましらを寄越したことは、不問にしてあげるわ」
「面目ありません……、近衛兵たちが思いの外粘りましてね。元老院の邪魔も入りましたし」
アテネは入り口の脇に気絶した元老院たちを見やる。拘束され半死半生の状態で意識を失っている。呪殺祈祷師の僧は目玉も飛び出さんばかりに刮目して頓死していた。アンドロシーの姿が見えない。
「ドロシーは?」
「ましらに勝機なしと見て離脱しました。気配からして、近くにはいるようですが……」
アンドロシー、放蕩貴族め。後で仕置きが必要だろうか……。……逃亡したわけではなさそうなので、一先ず置く。それよりも、テラスの中央で息をしていないルジチカが気になった。
どうやら完全に絶命しているようだ。「……よく殺せたわね、不死の仙薬を飲んだって聞いたけど」
「完全な不死など、人の身にあり得ませんよ。サガ帝が滅ぼしました」
そうか。殺したのは帝か。アテネはサキの前でこちらを見据えるサガを見た。その目は死んでいない。だが、威勢だけだ。帝の使用物らしい奥土器の剣も砕かれていた。
何か策を残している風でもない。最期の一瞬まで凛と、誇り高く……。国を統べる者の矜持か。アテネは冷たくサガを見下ろした。
「さて、貴女もこれからこの死体たちの一つになるわけですが……。どんなものですか? 初めて奈落へと突き落とされるお気持ちは」
「死を恐れはしない。いずれ来る末期の時が早まっただけだ。だが……、憂いてはいる。アテネ、貴様のやろうとしていることは間違いだ」
「へえ。貴女に私の目論見がお分かりで?」
「大方はな。だがそれは悪手だ。力を求め続ける道に未来はない。この国は必ず乱れ、滅びるだろう。為政者は私欲のためでなく、民のために動かねばならん」
「それが民を殺すことになっても、ですか」
アテネが冷ややかに返す。「同族内での醜い争いを引き起こす元老院制度……、帝、貴女が放置していた悪習です。そして不可侵の特権階級である皇族の争い……。実に愚かだと思いませんか」
「それが人の業だ。人は皆その闇の中に生まれついている。終わることの無い闇の中にな」
「それももう終わりです。この国は新しい夜明けを迎える」アテネが拳をかざす。「この一突きをもってね」
アテネの手が動く。小さな影がその前に現れた。立ち塞がるようにして両手を広げる陰に、アテネは思わず手を止めた。
「ほう、これは……」
サキが興をそそられたように目を細める。震える足で立ち塞がった子供に、アテネの目がかすかに揺れた。「春宮……」
「帝を殺さんでくれ、アテネ!」
思わぬ闖入者に、帝も意表を突かれたようだった。「若宮、なぜ……、いや、どうやって……」
アテネはちらりと入口をみた。地上からの階段は絶たれている。崩落した部分より上の階層に居たらしい。戦闘音の激しい上階へわざわざ向かう者もいまいと思っていたが、護衛を撒いて来たのか……。
「……春宮? そのお方はあなたのお父上を殺した張本人なのですよ? 庇う道理がございますか?」
「この方は私の、母のようなお人なのだ。殺してはならん」
春宮は負けじと返す。「若宮……、もういい、そいつから離れよ……!」帝の言葉にも耳を貸さず、春宮は立ち塞がった。「父の望みは、私を立派な帝王にすることだった! 帝にその想いを託し、帝はそれを受け継いだ! 帝を殺してはならぬ! もしここで帝を殺すなら、私は帝位にはつかぬ!」
春宮は決然として言い放った。空気が震えるような凛とした宣言だった。圧倒的な脅威を前に、涙をこらえて立ちはだかる、弱く、小さな存在。暴力に怯える、幼く頼りない子供……。鏡の中、毛布を抱えて震える幼子の姿がフラッシュバックする。
アテネは額を押さえた。「『母のようなお人』……? なにが……」
きりきりと頭痛が脳を蝕む。春宮が、訴えかけるような目でこちらを見ている。……アテネは拳を下ろした。「萎えた」
小さく呟く。え……、と戸惑ったように聞き返す春宮を尻目に、アテネは八虐達に号令をかけた。「撤収よ。帝を捕縛して連行しなさい」
「……! よろしいので?」
サキがいつでも手を下せるという顔で帝を見た。アテネが怠そうに手を振る。「良いわよ。今は春宮様との関係を優先する。これからの国を担うお方だからね」
アテネに言われ、左様ならばとサキが進み出た。膝を付いて手を差しだした。春宮はサキを阻むべきか戸惑うような目でアテネを盗み見た。アテネが疲れたような笑みを浮かべる。
「仕方がありません。帝には、代わりに太政帝王の位を新設し……、そちらについていただくことにしましょう。形ばかりの二所朝廷、実権の無いお飾りの帝位ですが……、院との契約内容を誤魔化せるかもしれません」
「! アテネ……」
「ただし、これからの生涯を、『空中楼閣』で過ごしてもらうことにはなりますがね。互いの保険です。狂花帯能力の干渉を許さない異次元空間……、あそこから出ないかぎりは、契約破棄の影響も先延ばしし続けることができるでしょう。無論、一歩でも外へ出れば、たちまちのうちに呪いが襲い来るでしょうが」
「『楼閣』とやらは……、帝にお会いすることはできるのか?」
春宮の言葉に、アテネは無表情に答えた。「……実例はあります」
「……アテネ……」
先に捕捉された帝が、すれちがい際にアテネと目を合わせる。
「勘違いなさらないように、帝。天運の尽きをしばし遅らせただけです。せめてそのわずかな時間で、辞世の句でもしたためてください」アテネが素っ気なく視線に答える。「……それから春宮、これはあなたの即位と交換条件ですからね。治天の君の座はあなたが受け継ぐことになる。サガ帝の実権は失われます」
春宮はこちらを振り返るサガの顔を眺め、それから迷いない瞳でアテネに視線を戻した。「かまわぬ。それで帝が救われるならば」




