第30話 王手(チェック)
猿天狗が烏声のように一声叫ぶ。槍はそのまま床に突き刺さり、猿天狗を釘付けにした。続けて落ちる他の槍は変わらず大口に吸い込まれ分解されている。猿天狗を穿つ槍だけが消えることなく実在していた。
「何故だ……っ。確かに本物の槍は防いだはず……っ」
「簡単なことですよ、殿下」
降り残った最後の数本を躱してシェクリイは答えた。「私の握っていた槍は精製品だった、というだけのこと」
猿天狗は血を零しながら睨む。「……霧の中で、入れ替えたのか。本物の槍を遠い軌道で撃ち出し……、自身はそれよりも早く麿の下へ……っ!」
「ご明察。『的』を矢の下に来るように微修正する必要があったんでな」
簡単なことかのような口ぶりでシェクリイが答える。それから不意に咳き込んだ。
手の甲を見る。紅い血の跡が微かに飛んでいる。隙を見て猿天狗が抜け出そうと、槍の柄の突端に向かって体を動かす。
「……もう少しお相手をしたかったのだがな。まだ迎え撃たねばならない敵もいる……。終わらせていただきますよ。少々手傷も受けたし」
猿天狗を柄の先端で押しとどめ、シェクリイが手をかざす。
「戦闘中何度も仮面を守っていたところを見ると……、やはりその仮面が殿下の本体のようだな。面が壊れれば封印が解けるやもと危惧していたが……、むしろ逆、面を破壊すれば仮面に封じられた殿下の精神ごと破壊され今度こそ落命する……。違うか?」
猿天狗が極限の抵抗を示すように唸り声を上げた。それは答えに等しかった。シェクリイは弓を引くように指を曲げる。指先で青い稲妻が弾ける。
「成仏召されよ!」
宣告と共に、シェクリイが弔うように目を閉じる……。……が、予期した雷霆の轟きは、耳元で放たれなかった。
「⁉」
シェクリイは意表を突かれ瞼を反射的に開く。掌に目を走らせる。そこにあるべき雷の矢が発生していない。
「これは……?」
不発の不和、だけでなく、不可思議な違和感が肉体を浸していた。全身の細胞が逆向きに集合していくような奇妙な感覚。
一瞬の隙。しかし喚声に気が付いた時には、既に猿天狗が槍を振り抜いたところだった。
猿天狗の振り払った槍が、シェクリイの首筋を切り裂く。瞠目したシェクリイの、膝から下の力が抜けて倒れる。
切り開かれた頸……。腹に貫通した穴。既に血を失いすぎていた。
それでもまだ、首を落とされたわけではない。ユダに斬られた時と同じ。石灰の塊で完全に止血をすれば間に合う。掌を首筋に持っていくシェクリイの背中を猿天狗が踏みつけた。石灰を精製しようとしたシェクリイの手が痙攣する。
……狂花帯が発動しない。
「かァッ、かッ、かァッ‼ 奥の手は最後に残しておくもんだよなぁっ‼」
猿天狗が叫ぶ。
「麿の力はなぁッ……、手数の多さが強みなんだッ! 相手の知らぬ手を隠しておくのは、当然だろうがッ!!」
完全にとどめを刺そうと槍を持ち上げた猿天狗だったが、激しい息切れとともにその手が下がった。槍と共にシェクリイの上に覆いかぶさるようにへたり込む。不規則な呼吸を、断続的にキツそうに続ける。重傷の度合いで言えば向こうも似たようなものだ。自身の肺から槍を引き抜いたことで出血は致命的なものとなった。続く最後の一振りで力を使い果たしたのだろう。
相討ちか。朝廷に仇なす八虐を一匹……、まあ最低限の役目は果たしたろう。
テラスの現状を詳しく確認する暇はなかった。他の八虐は倒せたのか。帝はご無事か? それだけが気がかりだった。
瞼を閉ざしかけたシェクリイのもとに、帝が駆け寄る。今にも絶え果てていこうとする忠臣の名を呼ぶ。
彼の側に膝を付いた帝は心を痛めたように顔を強張らせ、目を閉じた。だがすぐに気丈な表情を作ってシェクリイを見下ろした。
「よくやった、我が忠臣シェクリイ。お前は最後の敵を葬った。我らの完全勝利だ、お前のおかげでな」
「帝……」
サガは優し気な顔で微笑んだ。「お前が守り抜いたこの命、決して無駄にはせん。大儀であった、シェクリイ」
サガの労いを受け取ると、シェクリイは霞む視界の中で安らかな笑みと共に囁いた。「その言葉だけで……、充分でございます。我が君……」
シェクリイの眼から光が消えると共に、帝の前に狩衣の着物が進み出た。
「『最後の敵』とは……。よく言ってくれたものですね」
シェクリイの瞼を閉ざし、帝が無言で敵を見据える。
「興味深いことです。皇族とは、息をするように嘘を吐く生き物だと思っていましたが……、優しい嘘も吐けるのですね」
サキは相対する帝を興味深げに眺め、冷ややかな微笑を送った。背後には彼を止めようとした近衛兵やアリワラたちが倒れている。サキは帝のすぐ目の前、シェクリイの上に折り重なっている猿天狗の下に屈み込んだ。「これはこれは法皇様。随分手ひどくやられたようじゃあありませんか。治せはしませんが、これ以上傷が悪化しないよう処置はして差し上げましょう」
サキは不満げに呻く猿天狗の傷口に、経文のようなものが書かれた護符を張り付けた。傷口から流れ出すおびただしい出血がぴたりと止まる。猿天狗の首に指を添えほうと呟く。
「この出血でも脈は正常ですね。ずいぶん度胸のある心臓をお持ちのようだ。手遅れの可能性もあるやと思っていましたが……、この分では杞憂ですかね」
「神祇官サキ……」
サガが一歩間をとって立つ。猿天狗の処置を終え、サキも立ち上がる。
「さて殿下、もう貴方を守るだけの兵力は残っていませんが、どういたします?」
「侮るな‼ まだ我々が残っている!」
隠れ蓑から残りの護衛兵たちが現れ帝の前に立った。
「こちらも終わっていないぞ‼」
アリワラとアクアライム族長がサキの背後で立ち上がる。近衛兵とアリワラたちはいっせいに鬨の声を上げて先に挑みかかる。サキは冷笑を浮かべ、俊敏にその手を動かした。袖口から数枚の護符が飛び出して敵兵の攻撃を受け止める。近衛兵の放った炎、槍撃、アクアライムの出した花弁が、札を張り付けられるとともにその中に吸い込まれる。護符が硬い板となってからりと床の上に散る。
と共にサキの腕はしなやかに空を舞っていた。近衛兵たちの体が宙を舞いその上に枯山水の礫岩がのしかかって彼らを建物の遥か下に叩き落す。一方ではアリワラとアクアライムがテラスの壁に叩きつけられ、頭から血を流して倒れ伏した。
追い打ちをかけるように、床に散らばった槍たちが飛んでいき二人の四肢を縫い付ける。
庭園は完全に沈黙していた。
身構える帝の体をサキが吹き飛ばす。
「さて」乱れた髪の隙間からこちらを睨む帝を、サキが優雅な視線で見下ろす。
「チェックがかかりましたね、帝」
〇
土埃の舞う螺旋階段の端で、喉輪を押さえられたユードラが細く呻いた。
奥土器の爆撃によって崩れた螺旋階段は中途で途絶え二階から下が崩落しており、崩れた階段の先端部分に立ったアテネがユードラの首を掴み掲げている。ユードラの半身は消し飛び胸から下が塵になっていた。
「こうまでしても死なないとは……、やはりあなたはもう人間ではないわ、ユードラ」
「そうかもねえ……! 所詮この体は灰から作り上げた人形に過ぎない。また作り直せばいいだけだよ。……それに」
ユードラが口の端を歪める。「化け物はお姉さまも同じじゃない? 今の爆撃でほぼ無傷なんて、人間の耐久力じゃないんだよ」
アテネが鎧として着込んだ偽鬼葉鎧は、煤に塗れてはいたが、燃えることなく爆破の衝撃を吸収していた。至近距離の爆撃は荷が重すぎたのか、鎧は包帯のようによれてほころびているものの、その下のアテネの肉体は変わらず無事だった。
「『偽鬼葉鎧壱式(マークⅠ)・改』……。植物性の魔導具の弱点である耐火性の問題をクリアした改良版。葉の表面に不燃性の樹液を塗り込んである……。爆破の炎にも焼かれない。そして銀将門の細胞を移植したこの肉体……。野風でも並ぶ者のない耐久性を誇る。『緑衣の鬼』を名乗るなら、これくらいの防御力はなくちゃね」
アテネが自嘲気味に微笑む。それから視線をユードラの腕に移す。
「あなたの本体……、人形の頭ではなくこっちのようね。獏鸚の尾蛇に記憶を移植してたか……。こいつの脳を潰せばあなたは消滅する。記憶複製の時間切れを待たずにね。せめてもの慈悲として、私が直接殺してあげる」
腕の蛇が威嚇的にシューと喉を鳴らす。アテネの手がその頭を捕えた。
「怖くないわ。あなたの生きた証は私の思い出として残り続ける……。私が朽ちるまで、あなたは私とともに生き続けるのよ」
それから陰りを帯びた目で続ける。「それが……、罪人に選べる唯一の幸せ」
「ふ……ッ、ざ、けるなァ……!!」
必死の抵抗を試みるユードラの声を飛び越して、矢のように声が届く。「アテネ!!」
弾かれたようにアテネが振り返る。螺旋階段の頭上で、ましらが汗を浮かべ立ちはだかっていた。
「ましら……」
恍惚の表情で目を細めたアテネがユードラの肉体を投げ捨てる。「ふふ……、やっぱり来てくれたんだぁ……」
「ちょっ……!!」自由の効かないユードラの半身は窓枠をすり抜け地上へと落ちていった。
「! ユードラ……!」
窓際へ駆け寄ったましらは下を覗き込んだが、既にユードラは地面へ到達した後だった。小さく歯噛みして、ましらはアテネに向き直る。「本当に変わっちまったか……。アテネ」
「人は変わるものよ。それに……、生まれ変わったと言ってほしいわね」
アテネが短く言って階段に足を掛ける。
「さあ……、殺し合いましょう? ましら」




