第1話 閉(とざす)
部屋の中は荒れ果てていた。
あちこちに閉じたままの書物が山積し、何日も換気されていない空気は淀んで沈殿していた。カーテンは引かれたまま、薄い日光がその隙間から、舞い散る埃を照らしている。部屋全体が生気なく沈んだ診療所、その主リリパット=アリエスタの寝室の隅、毛布にくるまったままベッドの端で膝を抱え、真白雪は宙の一点をぼんやりと見つめていた。その目はほとんど死んだように光無く、時折思い出したように瞬きをすることでようやく生きていることが確認されるくらいだった。目は落ち窪み、頬の肉は落ちて力なく壁にもたれかかっている。
突然、扉を開ける空気の振動で、宙を舞う埃がカーブを描いて逃げる。それなりの大きな音にもましらは反応しない。暗い部屋の中に光が差し込み、二人の人影を連れてくる。
ドアノブを握ったまま、警察隊長カミラタは小さく咳払いした。「少し塵が待ってるな」
ずかずかと部屋の中に入り込んでカーテンを引き、窓を大きく開いた。数日ぶりの風が静かにレースを揺らす。褐色に藍色の髪をなびかせたメルトグラハが、眼帯を掛けた目で部屋の惨状を眺める。「…………」
「三ヶ月も籠り切りの割には、片付いてるだろう」
机に置かれた本の上を人差し指でなぞり、指先についた埃を吹き払いながらカミラタが言った。「時々姪を寄越して様子を見させてる。衛生兵だからな。部屋を掃除して、食事と水分を摂らせ、メディカルチェックをする。それから体を拭ったりな。病人の看護のようなものだ」
「……カミラタ隊長、奴は……」
「もう何週間もこの調子だ。自分からはほとんど動かず、こちらの言葉にも反応しない。まあこいつの肉体は相当頑丈だからな、飲まず食わずでもしばらくは保つ。とはいえ放っておくと餓死しかねないから、こうして世話を焼いているのだが」
「『あれ』から……、ずっとですか」
「リリの死からな……」カミラタは痛まし気に首を縦に振った。「家の鍵は俺が預かっている。見舞客はなるべく通すようにしているが、この有様じゃな……。奴の瞳を見てみろ」
言われてメルトグラハはましらの前に膝を付き、その両目を覗き込んだ。その瞳には映るはずの自分の顔が反射せず、影のようなものが動き回っていた。驚いて観察する。ドクター・リリの姿だった。
「『記憶』だよ。奴の精神はあれ以来、ドクターとの思い出の中を彷徨っている。自分自身の精神時間を遡っているのだ。繰り返し、繰り返しな」
口の細い水差しを持ってきて、ましらの口元にあてがう。口の端から水があふれるが、喉が嚥下するのが見えた。
「何か奴を呼び覚ます方法は無いかとあれこれ試してみたが、どうにも効果はなくてな。ネヴァモア卿にも診せたが、精神的な症状では何ともと。親しい人間の言葉を聞けばあるいはと思ったが……、我々では反応なしだ」
「アテネ嬢は?」
これまで話題に上っていないことが不思議だと言う風に、メルはその名を口にした。カミラタがかぶりを振る。
「声は掛けているんだがな。まだ一度も来ていない」
「そうですか」意外そうにメルは目をしばたたかせた。「現状、ましらと最も親しいのはあの子だと思うのですが。あれで案外薄情ですね」
「言ってやるな。あいつも一年の眠りから目を覚ましたばかりなのだ。気づけば親族は皆殺しに遭い、頼みのましらもこの状況。気持ちの整理がついていなくても、当然だ」
まだ若いしな、と付け加える。そのアテネはと言うと、今はカプリチオ貴族虐殺の首謀者、リンボ=エルモリアを追っていると聞く。警察の見解では、リンボはアテネの眠っていた施薬院を襲撃し、リリの死亡にも直接関与したことになっている。アテネを含む目撃者の証言も一致していた。アテネがリンボの捜索に打ち込んでいるのも、目前の仕事に没頭し、傷を癒すためかもしれない。とはいえど……、顔くらい見せてやってもいいものだが。
いや、自分が言えたことではないか。事件後初めてましらの元を訪ねたメルは、独り内省する。地底からの侵略者、「奴餓鬼」掃討戦。三大監獄「地底回廊」の攻略とともに行われたその作戦の後始末に忙殺されていたとはいえ……、顔を出す時間くらい作れたはずだった。二の足を踏んでいたことに変わりはない。
「隊長の電撃なら……、ショックで目を覚ますのでは?」
重たい空気を跳ねのけようと、メルは冗談交じりに尋ねた。「試したが無駄だった」カミラタが肩をすくめる。試したのか……。
「……ここまで深く沈み込むのも、無理あるまい。忘れそうになるが、こいつはそもそも民間人なのだ。この地に迷い込み、巻き込まれ、否応なく戦場に足を踏み入れた。それも国を揺るがすほどの猛者たちが集う、戦場にな」
カミラタは椅子を引いてきて座り、机に肘をついた。「こいつは軍人でも貴族の子でもない。俺やお前のように精神訓練を受けてもいなければ、貴族たちのように国を守る心構えを教育されてきたわけでもない。忘れそうになるが、こいつは民間人なのだ。戦場で仲間が、愛する人間が死んだ時の傷は、俺たち以上に深いものだろう。ましてドクターは、こいつがこの異郷の世界で見出した最大の希望だ」
カミラタは部下に向けるのとは少し違った眼差しを、ましらに向ける。
「本音を言えば、少し休ませてやりたい。そういう気持ちもある。今が、この国難の時でなければな」
カミラタは小さく息をついて立ち上がった。メルの肩を叩いて廊下に向かう。「当座、奴を目覚めさせることができそうなのは、お前の『それ』くらいだ。俺は下にいる。何かあったら呼べ」
階段を下りていくカミラタの足音を聞きながら、メルトグラハは隊服の内ポケットから、殻に覆われた一粒の小さな実を取り出した。外見は赤っぽく、しわの少ないクルミのような形状をしている。親指の先で強く握り込めばすぐに割れて、中の緑い汁液がしたたり落ちるだろう。「ユビキタ」。強い幻覚作用を持つ果実で、通常拷問に使われる毒物である。が、一方でその幻覚を以て催眠や暗示を相殺する効果があり、別名「山羊殺し」とも呼ばれている。尋問に使用されるのは、自白防止のために口封じの催眠を仕込まれている人間を吐かせるためだ。
改造人間であるましらは毒への耐性が強い。他の者には強すぎる劇物でも、ましらであれば適度に作用する公算が高かった。
皮膚の中で、血管が近い薄い場所。唇の端を狙う。血中に直接汁液を注ぎ込むのが、ユビキタの最も安全な投与方法だ。なおかつ、唾液によって毒性が中和されるので、唇や口腔内に傷をつけて摂取させるのが良いとされている。
周囲にナイフの類を探してみたが、それらしきものは見当たらなかった。念のため、刃物と長い紐の類は隠してある。メルは顔をしかめる。カミラタがそうした理由は分かる。
小さく舌打ちして、メルは歯の奥でユビキタの殻を割った。口の中に辛みのある果汁が染み込む。
「……お前を待っている人間が大勢いる。感傷に浸っている時間などない」
ましらの胸倉を掴んで引き寄せる。
「……戻ってこい、ましら」
メルトグラハは、血色の薄くなったましらの面に顔を寄せ、その唇の端に歯を突き立てた。
記憶の中の世界では、昨日と変わりなく君が笑っている。
リリと過ごした数年の歳月を、繰り返し、繰り返し俺は経験し続けていた。ここには全てがあった。時は俺の手の中に握られていた。未来など要らなかった。現在さえも必要ない。ただ過去の幸せな思い出の中にだけいられたなら、それ以上何を求めることがあるだろうか?
目の前のリリがふと立ち止まる。「……?」俺は訝しんだ。記憶にない動きだ。
『随分とみすぼらしくなったものだねえ』
リリの姿から声が聞こえる。だがその声は聞き覚えのない……、いや、リリの声ではないけれども、どこかで聞いたことのある声だった。そう、それはこの未来世界に来たあの時、そして獄門院の右腕ザフラフスカとの戦いで意識を飛ばしかけた時……。そうだ、俺はあの時、その声からある存在を直感していた。
「汝は獣になれと言ったはずだがね」リリの姿が陽炎のように揺れ、虹色の髪に溶けた。振り返る。リリとは似つかない、山羊のような瞳をした女がそこに立っていた。
――女神。
その姿を見て、そしてその声を聞いた時と同じように頭の中に降りてきた単語。少女とも成熟した女ともつかないその存在は、小首をかしげ、超常的な声音で語りかけた。
「さて、この世界で……、英雄にはなれたかい? 五号の真白くん」




