第19話 ヴァニタス
空間転移の最大同行者数は以前よりもずっと増えていたが、御所に直接飛ぶことはしなかった。
というより出来なかったのだ。試みてはみたのだが、御所を中心とした半径500メートル程度の空間の座標を脳内で把握することが困難になっていた。こういう状況は以前にもあった。ジャミングだ。サジタリオ族の空間転移対策として使われる煙幕式のジャミング装置がある。アテネはどうもそれを張っておいたらしい。幸い城下から御所まではそれほど遠くない。俺たちは徒歩で向かうことにした。
道すがら通りかかった河川敷で、俺たちは一度休息をとった。帝は役職柄、長距離の徒歩移動に慣れていない。その上病み上がりでもあった。俺たちは小休止を挟みながら移動した。
草原の間を流れる澄んだ水に、それぞれ喉を潤したり手拭いを浸して汗を拭ったりした。シェクリイは背中に負った大剣を下ろす。遺留保管庫に向かったついでに、警察隊の武器庫にも訪れ、戦いになった場合に備え奥土器を調達しておいた。シェクリイのそれと、ミーグルの鞭だ。
ミーグルは皆と少し離れた岩場の上に、一人座っていた。小川に面した人の肩くらいある岩の上にぽつんと片膝をついて、水の流れを見下ろしている。俺は彼女に並んで岩場に腰を預けた。
「……飲むか?」
竹でできた水筒を差し出す。今のミーグルにはまともに使える手が片方しかないから、水を掬うのに適していない。ミーグルは目だけでちらりとこちらを見止めた後、簡潔に答えた。「いらないの」
「そうか……」
俺は行き場を失った水筒を、ぶらぶらと所在無くこちらに戻した。仕方なく自分で一口だけ飲んで腰に差しなおした。
「……」
なんとなく口を尖らせてみせて、水流をじっと見つめる。
ミーグルがこちらをまた横目で見て、はあと溜息をつく。「何か用なの?」
俺は目線をミーグルに戻す。
「あ、いや……。どう声を掛けようかと迷っていた」
「それは見れば分かるの。余計気まずいから、話すなら話してほしいんだけど」
別に何か話題があるわけでもなかった。ミーグルとは微妙な関係だ。知人と言うほど話したこともないが、無縁というには接点を持ちすぎていた。ミーグルはアテネの屋敷の使用人で、メイドとしての彼女とは一度磨羯宮で出会ったくらいである。一方で彼女とその双子の姉のユードラは獄門院の手先でもあり、それなりにしっかり拳を交えたことがある。
それに後から知ったが彼女たちはアテネの腹違いの妹らしく、俺としても全くの他人と言う気持ちでもないわけである。……向こうがどう思っているかは知らないが。
俺がなおも黙っているので、ミーグルが仕方なさそうに口を開いた。「今の私は作り物の身体だから、水も栄養もいらないの。必要だとすれば、こっちに必要」
片腕から生えた蛇を俺に向けて威嚇させる。獏鸚同様にミーグルの素体と融合していた。俺はミーグルの体を眺める。以前の子供らしい瑞々しさは無く、肌の色は灰色っぽくて髪は茶色と鼠色の斑になったくすんだ色だった。ユードラの遺骨を利用して、バニラの複製能力で作り上げた肉体……。本物らしい生命活動は行っていないようだ。俺は彼女が復活した時から気になっていた疑問を口にした。
「君は今……、どういう状態なんだ?」
「どうって? ……生きてるか死んでいるかってこと?」
ミーグルはじろりとこちらを見返した。小柄だが容姿も相まってフランケンシュタインのような迫力がある。俺が肯くと、彼女はそっけなく鼻を鳴らした。
「どちらとも言えるの。今ここに居る私は生きていると言えなくもないけど、もう一人のミーグルは死んでる」
「もう一人……?」
水面を泳ぐ魚の鱗が銀色に反射している。双子の片割れのユードラ……、の話では、なさそうだ。
「カプリチオには高難度の秘術がある。お屋敷を離れて西側に流れていた期間、それを教わった」
「秘術」俺はまた繰り返す。
「精神だけを移動させ、他者の肉体を乗っ取る術……。成功した例は過去に数例しかない。それもほとんどは、祟りと言われる類の『死後の呪い』として偶然起きたケース。大抵は失敗するし、そもそもやろうとする人間が少ない」
どうしてだ? 聞く限り、かなり可能性のある術のようだ。肉体を渡り歩けるなら、不死の達成も夢じゃない。肉体が限界を迎える前に、次の体へ移れば良いのだから。そう思って尋ねると、ミーグルはやれやれと言った風に首を振った。
「そう上手くはできてないの。言ったでしょ、移動できるのは精神だけ。狂花帯は元の体に置いてけぼり」
「あ……」俺は納得して呟いた。「次の体では精神能力が使えないんだ」
なら……、同じカプリチオ族に乗り移ればどうだろう?
同族は同じ能力で拒絶されるからダメ。とミーグルは説明した。精神が弾かれて乗り移れない。だからこの術はそうそう使われないらしい。それもそうか。一回限りの賭けだし、成功しても本来のカプリチオの能力を捨てることになる……。
「せいぜい延命目的の悪あがきとして試されるくらいなの、私もそうだけど」
「で……、お前は成功したのか?」
俺は核心を突く質問をした。ミーグルは沈んだ表情で、日光の乱反射する再び川面を見つめた。
「失敗なの。私は移植ではなく精神の『複製』しか作れなかった。出来損ないの不完全な記憶と人格……。オリジナルの『私』の人生は既に終わってる。私は『私』の記憶を再現しただけの似て非なるコピー……」
もう一人のミーグル……、彼女がさっき言った言葉の意味がやっと分かった。
「精神も長くは持たない。1年続くかどうか……。少しずつ綻びていって、この蛇の寿命が尽きるより早く、私の意識は消えてなくなると思う」
ミーグルが膝を抱える。死の定義……。少なくともカプリチオ族の考えでは、精神……、自分が自分であるという自己意識が連続している限りは「生き続けている」という判定のようだった。つまり「沼の男」や転生は生存として認められるというわけだ。一方で、自分と同じ人格や記憶の人間を作り生き延びたとしても、それはよく似た別の人間が生きているだけと考えるらしい。……まあ、共感はできる。結局そいつは人生の途中、ある一時点までの「自分」の分岐した姿なわけだし、結局「死ぬ」ってのは「今こうして思考している自分」の意識が永遠に消失することなわけだから……。
「ん……? でもそれって不可能じゃないか? そもそも精神の『移動』ってどうやるんだよ。魂……、人魂とか『氣』みたいなエネルギーの塊みたいなのが存在するなら可能化もしれないけどよ、言っちゃ悪いがそんなものは……」
「実在しないの。心、意識、精神……、それらはあくまで脳の造り出す現象にすぎない。だから肉体から独立して維持できる精神、魂なんてものは無い……。ってカプリチオ族では教えられる。精神の移植は基本的に複製と同じやり方で行われる。失敗してみて分かったけど、多分成功するかどうかの違いは……、『同期』にあるんじゃないかな」
「『同期』?」
「うん。同じ記憶や性格を持った人格をもう一つ作ったところで……、意識が分離していればそれは別人。でも二つの肉体が、リアルタイムで意識を共有していたら? それは一つの同じ精神と言えると思うの」
なるほど……? たしかにそれなら、片方の肉体が滅んでも自己意識は途絶えることなく持続している。別の肉体で……。
ふうむと顎を撫でて考えていると、後ろで砂利を踏む音がした。
「随分と小難しそうな話をしていますね」
バニラズテラ=ジェミナイアが髪を掻き上げた。




