第12話 ネヴァモア
夢の中で、ちょうど世界を思い出す時がある。
「……なに、読んでるの?」
幼い日の欠片。陽だまりの中に彼はいた。黒や藍、紫。夜の色を宝石にして閉じ込めた様な綺麗な装丁のされた本の表紙には、漆のような色の鳥がいた。
「絵本……。ママからもらった。でも難しくて分かんないんだ。……は分かる?」
そこに含まれた、自分を表す記号さえ今は思い出せない。私は少年の隣に座って、そのページを覗き込む。
『それを僕らの別れの言葉としよう。鳥よ、あるいは悪魔よ!』
僕は立ち上がって叫んだ――。
『帰るんだ、嵐の中へ。夜の、あの世の岸へ!
その黒い羽根を残していくな、君の魂が吐いた嘘の欠片を!
この孤独をどうかそのままに! ――アテネの胸像から離れたまえ!
僕の心臓に突き立てた嘴を抜いていけ、
そうしてドアから姿を消すがいい!』
「――――烏は言った。『もう二度と(ネヴァモア)』」
ネヴァモアの呟きを拾った送受信用の奥土器が、アリワラの反応を伝えた。「何ですかその言葉。詩……ですか?」
「分からない。ふと思い出しただけ」
ネヴァモアがこだわりなく答える。「ポーの『大鴉』……。……ポーって誰?」
「師範が分からないんじゃ、こちらもお手上げですよ」
通信器の向こうから、アリワラの苦笑が聞こえる。相変わらず記憶の「混線」ですか。老人を労わるような調子でアリワラが言った。
小石が床に跳ねる音がしてネヴァモアが口を止める。
「……ましら?」
振り向き、闇の奥に尋ねる。「師範……?」「しっ」アリワラを黙らせる。……闇は沈黙で答えた。ネヴァモアは通信を切って立ち上がり、警戒した様子でもう一度呼びかける。
柱の陰から腕が飛び出した。虚を突かれネヴァモアが首を掴まれる。勢いのまま、少女がネヴァモアの上に馬乗りになった。
「っ……! アテネ=ド・カプリチオ……!」
「用心なさることですね。優秀なカプリチオ族なら、気配の出所を誤魔化すくらいわけないんですよ。ネヴァモア卿」
偽鬼の葉鎧で顔の下半分を覆ったまま、同じく葉鎧を手の先にまで纏いネヴァモアの首を絞める。満身の力、ネヴァモアも痩躯に似合わない膂力で対抗するが、鬼の握力にはかなわない。ぎろりと睨み上げるネヴァモアの気配が変わる。体内の瘴菌を放ち始めたのが分かる。
「無駄ですよ。事前にアリエスタ族の手下を使って、免疫を底上げしています。加えて45種類の病原菌に対する抗体を、体内に精製させてある。あなたの瘴毒は対処済みです」
「っ……! あなたの疑惑は他の者に伝令済み……。私が死ねば疑いは確信に変わる」
「先ほどの通信ですか。予防策を打っていることくらい想定済みです。あなたはまだ殺しません」
緑衣のフードの下で、アテネが冷たく目を光らせる。「たしかに、あなたが死ねば、状況は私を黒と示すでしょう。しかしあなたが、正気を失っていたとすれば……? あなたの吹き込んだ情報は、狂人の戯言にすぎなくなる」
「……催眠か……」
葉鎧の指先が黒く変色する。「!」アテネは首を絞める手を放し後ろに跳び退る。掌を見る。手袋の葉が腐り落ち始めていた。
「なるほど、人体ではなく植物に対する病原菌を……。草木も病気くらいしますからね」
掌の表面の葉を千切り捨てる。
「私にも経験値がある。痛みや薬品によって催眠を解く技術は習得済み。たとえそれを上回る催眠を加えられたとして、幻覚状態にあることは検査すれば分かる話。元老院の目は誤魔化せない」
洗脳という手もあるが、それをするだけの時間と環境はこの場にはない。
「催眠ならそうですが」緑の耳飾りを揺らし、アテネが距離をとったまま出口を塞ぐように歩く。「あなたの言動におかしな点があれば、何者かに操られていないか検査が入る。逆に言えば、その結果催眠の疑いなしという診断が下されれば、私の嫌疑はグレーに留まるわけでしょう」
ネヴァモアも警戒を続けたまま、狭い地下の壁際をじりじりと移動する。
「催眠を使わない……。ならどうする。脅迫で私を動かす?」壁際に止まり視線を正面から捉える。「試してみると良い。私を捕まえられればの話だけど」
アテネの手が動く。打ち出した拳が柱を粉砕し破片がネヴァモアを襲う。右腕で軽くいなし棚の中から掴んだガラス瓶を投げつける。アテネがしゃがむ。空を切った薬瓶が背後の石壁にあたり煙を上げた。その姿勢から退路を塞ぎつつ一直線に当て身を狙う。ネヴァモアが飛び上がって躱しアテネの背を蹴って出口へと飛び出す。
アテネは素早く棚を掴み棚枠ごと放り投げた。投擲された大棚がネヴァモアを突き飛ばし、出口を塞ぐように食い込んだ。
「簡単に捕えられましたね」
倒れこんだネヴァモアの上に仁王立ちになり、アテネが見下ろして拳を鳴らした。「あなたが悪いんですよ? 私の警告を無視して彼と手を組むから」
「……初い。嫉妬とはね」
ネヴァモアが床に手を広げたまま見上げた。……その視線はアテネを向いていなかった。
衝撃がアテネの足元を掬う。「⁉」地下室に鳴動が反響した。ネヴァモアの視線を追って壁際に目をやる。「……まさか……」
地下室を支える全ての支柱が腐食していた。ネヴァモアの出した細菌によって柱は腐り土の重みに崩れようとしていた。
「っ、雨烏が……っ!!」
土砂が勢いよく地下に雪崩れ落ち、アテネが天井に向かって拳を振り上げた。
数分後、一転静けさの支配した瓦礫の山を、ネヴァモアの小柄な体が押しのけた。
ネヴァモアは通路から出てきた。柱の折れる順番、角度、タイミング、土砂の堆積量。それらを計算し、這いつくばっていた自身が抜け出られるだけの隙間が生じるよう、ネヴァモアは腐食位置を調整していた。
崩落したのは地下空間だけである。地上への通路は入り口が衝撃で木材に覆われただけでほとんど塞がれておらず、階段を遮る木棚さえ壊せば抜け出すのは容易だった。
ネヴァモアは、崩れた地下空洞の分だけくぼみ沈んだ瓦礫の廃屋を眺めた。
赤毛の影は見えない。土砂の下に埋もれているだろう。ネヴァモアは踵を返しわずかに目を伏せた。
「……彼には、恨まれることになる……」
その時だった。突如として瓦礫の中から飛び出した腕が、ネヴァモアの足をすさまじい力で掴んだ。
「!!!」
「酷いじゃないですかぁ、私だけ生き埋めにしようとするなんて」
瓦礫を押しのけて、アテネが顔を出した。血のように赤い髪がネヴァモアの足を浸す。
「っ、あれだけの土砂を……!」
「それほど深い場所じゃあありませんでしたからねぇ。でも、これではっきりしましたよ。自分だけ逃げのびるだけの死角をつくるその演算能力の高さ……、常人以上のフィジカル……、やはりモリアの推測通り、あなたはましらと同じ……!!」
足首を掴む力が強くなる。「知っていますか? 人間の記憶は、忘却はしても完全に消えてしまうことはない。脳のどこかに保存されているんです。あなたの脳が処理落ちを防ぐため、徐々に覆い隠していった12万年の記憶……、それを一度に思い出して、理性を保てますかね?」
「なっ……?」
アテネがネヴァモアの足を地中に引きずり込む。膝を付き姿勢を崩したネヴァの頭を、勢いよく飛び出したアテネの掌が掴んだ。
「さようなら、羊の王様」
〇
既に陽が落ちた街外れの広場に、約束の時間を過ぎてもネヴァモアは現れなかった。
20時を告げる宵五つの鐘は、ずいぶん前に鳴り終わっていた。俺の体内時計は正確だ。時間に間違いはない。所定の地点が違うのではと幾度か記憶を辿ってみたが、やはり教えられた場所に相違なかった。
さびれた住宅街で人通りも多くない。道の端を、通りすがりの男二人が歩いていた。
「聞いたか? 裏の路地の廃屋が突然沈んだって話」
男の話し声に俺は聞き耳を立てた。
「地盤沈下だろ? そういや地響きみたいなのしてたもんな。もともと廃屋だった場所で幸いだったよ……」
「ちょっと」
俺は二人を呼び止め、振り返った二人に尋ねた。「その場所、教えてくれるか?」
聞き出した場所へ向かうとたしかに陥没の跡があった。その影響なのかもともとなのか、崩れた一軒家の瓦礫が倒壊して積み重なっていた。申し訳程度に表側の瓦礫が除けられた形跡はあったが、廃墟ということもあってか、それほど詳しく調べられた様子はない。
「ネヴァモア!」
俺は叫んでみた。落ちた屋根の一部が真ん中にそびえていて奥の方は見通せない。俺は瓦礫の上を転移して裏側に回り込んだ。
「ネヴァ……」月明りを頼りに見回す。白い影が視界に写った。
崩れた木材の間に隠れるように、膝を抱えたネヴァモアの姿があった。呼びかけるこちらには反応せず、膝に顔を埋めて地面を見つめている。その姿はいつもと違って、見た目相応の少女のようだった。俺は駆け寄って跪き、肩を抱いた。
「ネヴァモア! 良かった、無事……か? ここで一体何が……」
ネヴァモアはうずくまったまま、虚ろな瞳だけをこちらに向けた。俺と目が合う。
その両目が不意に濡れ、静かに涙が流れ落ちた。
「⁉ どうし……」
「やめて」ネヴァモアは喉を震わせ、やっとの思いで絞り出すように告げた。「その瞳で私を見つめないで。……あの人と同じ瞳で」
「……? ネヴァモア……?」
「ネヴァモアじゃない」
少女は小さく嗚咽するように声を上げた。
「それは本当の名じゃない。私の名前は雨乞烏合……。あなたと同じ、改造された『12人』の一人」




