第9話 血と血
夏を前にした湿った熱い風が、未知の両脇に伸びた竹たちをざわつかせる。闘気立ち上る三人の気迫に、竹林全体が毛を逆立てているかのようだった。
「……このタイミングで私を狙う人間は……、まず帝。次点で覇権を狙う別の元老院。なんだけど……」
アテネは二人の脱獄囚を眺め、それから片方の顔にじっと視線を注いだ。「あなたがいるということは、後者の方ね。ゴングジョード」
髭面の大男、ゴングジョード=レオンブラッドはふんと鼻を鳴らした。元・元老院の一人、ゴングジョード。好戦的な性格ながらも民衆の支持を得て長く朝廷を支えてきた男。獄門院の変に際し、帝を裏切り院の側に付いたことで投獄され、地底回廊に囚われていた。先日の「奴餓鬼」騒ぎで地底回廊が破られ、ほとんどの囚人が屍人として感染するか討伐される中、逃げおおせた幸運な一人でもあった。
「遣わしたのは後釜のオンリエドワードってとこかしら? 同族のよしみで匿っていたわけね。あなたたちを」
「エドは二十年来の戦友、同じ釜の飯を食った中だ。そのあいつがお前を邪魔だと言ったんだ。その意味は分かるだろ?」
帝不在の現状、元老院内の序列も変わってくる。新しい帝が誰にせよ、現帝ほどの影響力はないはずだ。そうなれば元老院内での発言力は、そのままこの国の実質的な権力になる。
「対立しうる代表者を、先んじて消しておくつもり……。貴族の考えそうなことね!」
大地を蹴ってアテネが勢いよく飛び出す。筋肉を隆起させ迎え撃つゴング……、の前に、白い影が割り込んだ。
「!!」
アテネの腕に虎の爪が食い込む。猛る笑みと唸り声を乗せて、混獣の野風「白鵺」が立ちはだかった。「やっと見つけたぜぇ……、白毛の人猿!!」
食い込んだ爪は筋肉にまで到達していなかった。アテネはぐっと左腕に力を込め白鵺の刃をはじき返した。
「どこのどちら様と言いたいところだけど……、シンパシーで大体察せるわね。『徒刑』の白鵺……。ユードラとミーグルがお世話になったみたいだけど」
「獄門院の仲間組は関係ねえ。用があるのはお前ん中の『銀将門』の血だ」
興奮したように息を吐きながら白鵺が手を掲げる。爪の先には皮膚を裂いた痕の血が滴りかけていた。
「この血……! お前も理解ってるだろ。お前の野性が叫んでるはずだ、俺たちは同じ一人の野風の遺伝子を受け継いでいると!! 『緑衣の鬼』が生み出したヒト族と猿族の混血、お前の肉体に刻み付けられた細胞は、俺の父親のものだ!!」
白鵺が咆哮する。「俺の目的は親父を永眠らせることだ!!!」
虎の腕、羊の蹄で大地を駆ける。ちぐはぐに縫い付けられた獣の肉体、それを駆り白鵺は強靭な一撃を放つ。野風最強の名をほしいままにした一世代前の猿族・「銀将門」。その息子が「白鵺」である。天賦の肉体と強力な野性を合成した獣身で底上げしている。対するはアテネ、リリによる異種間混交施術によって半人半獣の身となった不完全の人猿。その体に植え付けられた細胞は「銀将門」のそれである。かつては機能不全だった野風の力も、今や完全に開花しコントロールしている。紅の髪の毛には銀白が混じり、ヒトの身でありながら至高の肉体を操る怪物と化している。
アテネの拳が空中で白鵺の腕を薙ぎ払う。二人の野性はぶつかり合い互いの中に眠る最強の野風の血を騒がせていた。
「二人して愉しんじまってよお……!」
異様な影が地面に落ちる。
「俺も参加させろォ!!」
巨木の如く不自然に肥大化した右腕が、二人の頭上に振り下ろされる。地面が割れ、飛び離れた二人の足元へ跳ねる。
収縮した右腕が、ゴングジョードの肩に納まる。レオンブラッドの細胞操作能力……、その大家である彼は筋肉を増殖させ、人の身ではありえない大きさにまで育てることができた。そのサイズは小さな山に喩えられるほど。大岩のごとき硬さと威圧感である。
二人の連撃がアテネを襲う。速度の白鵺と剛力のゴングジョード。二つの腕を肥大化させたゴングのスマッシュが、白鵺に足止めされたアテネの頭上に降り注いだ。
ずしん、と鳥が木々の間から逃げ出すほどの振動を以て、ゴングの拳が地面にめり込む。満足げにゴングは鼻を鳴らした。
きらりと緑の光が瓦礫の隙間から光る。「!」白鵺の獣性が危機を感じ取る。「油断するなゴングジョード!! まだ生きてるぞ!!」
怪訝な表情を浮かべたゴングジョードの顔が、みるみる驚愕の色に染まっていく。小隕石のようにサイズアップした両の拳が、宙に向かって押し返されていく。白い小さな手が、片腕で巨腕を押し上げていた。
「まだ生きてるなんて、控えめな表現ね」大地の割れ目に立ち上がり、大腕を持ち上げたアテネが告げた。「骨一つ折れてないわよ?」
「こいつ、下に何か着込んでやがる! 特殊な緩衝材だ! 俺の爪もそれで防がれた」
「『偽鬼鎧装壱式(マークⅠ)・改』」アテネが一言で返す。「警察隊に保管されていたモルグシュテットの装備を拝借させてもらったわ。『緑衣の鬼』は不屈の肉体を持っていなければならない……。リリは再生能力を、私は鎧の耐久力を使ってそれを実現する」
「ほう……。お前が噂の鬼だったか。リリパットの真似事をしてる奴がいると聞いていたが、皇族攫いの真犯人はお前だったとはな……!」
アテネが両手でゴングジョードの巨中指を掴み、満身の力で振りかぶる。銀将門の肉体+リミッターを外した脳による肉体の潜在能力の開花、常人ならざる筋力は既にリリの怪力に匹敵していた。
掛け声とともにアテネが腕を回す。巨腕ごとゴングジョードの体が宙を舞い、弧を描いて地面に叩きつけられた。
勝ち誇ったようにアテネが口角を上げる。それも束の間、一閃横切った影が、アテネの襟を裂いた。
首を狙った一撃、躱してなおすれすれをその爪は切り裂いた。竹と竹の間を猛スピードで縦横無尽に飛び回る白鵺。優れた野風にとって樹木は床も同然である。無重力も同然に竹の胴を蹴り閃光のように竹林を巡る。残像が幾本の筋になって周囲を跳ねる白鵺を、アテネは首を振って捉えようとした。
その速度は肉眼を超えていた。加速を経た白鵺がアテネの脇腹を突き刺して竹藪の中に弾き飛ばした。二人の肉弾が土煙を挙げて竹々を将棋倒しにする。
地面に突き刺さるように押し出されたアテネは白鵺の虎腕を掴み、上体の力だけで押し返し始めた。
「……っ、虎の腕力が押し敗けるだと……⁉ 信じられねえ膂力だ……!!」
「安心なさい、あなたの父親の力、だけでなく……、私の能力も加えてるから!!」
完全に起き上がり、腕を逸らしたアテネは、白鵺の顔面に己が額を叩きつけた。頭突きを鼻柱にくらい白鵺が吹き飛ぶ。鈍い咆哮が頭上から響く。腕だけでなく、全身を巨大化させたゴングジョードが、砦一つはあろうかというほどの巨人となって足を振り上げたところだった。
足裏が岩雪崩のようにアテネを圧し潰す。アテネは両足を踏ん張って両手両肩で大足の圧に対抗した。地面が割れ踵が土中へ沈み込む。
「そのまま押さえとけ!!」
がばりと起き上がった白鵺が地面を蹴り、動けないアテネへ豪速の突進を見せる。
『止まれ』
アテネの叫びに応じて白鵺の体が硬直する。猛進の勢いを保ったまま白鵺は動きを封じられアテネの側を横転した。
「声だけで催眠か! カプリチオの中でも上澄み……、おん……?」
ゴングジョードがふらりと膝を付いた。酩酊したように平衡感覚が失われ、巨体を宙に彷徨わせる。
「これだけ図体がでかいと……、催眠にも時間がかかるわね」
緩んだ拳を擦り抜け巨人の腕を駆けのぼりながらアテネが呟く。強烈なめまいにバランスを崩し倒れたゴングの頭部に、アテネは秒間五発の連撃を叩きつける。ゴングが呻き声を上げる。バウンドし跳ね返った頭にとどめとして足蹴でついにゴングジョードは音を上げて気絶した。
収縮するゴングの体の陰から白鵺が飛び出す。空中でアテネを捉え打撃を加える。そのまま竹藪に飛び去り、再びしなる竹を足場に高速包囲を展開した。
「どうだ、変則的だろうが! 目にもとまらぬ超速移動! 南部野風式古武術をマスターし、それを合成獣の体に最適化させ昇華させた我独自の体術だ。攻撃パターンは変幻自在、計算で捉えられる代物じゃないぜ!」
「……たしかに、目視や予測では追いきれないわね」
アテネは呟くと左右に振っていた首を止め、脱力し瞳を閉じた。
「どうした観念したか⁉ ……背中ががら空きだぜ‼」
アテネはぱっと右手を上げ白鵺の拳を受け止めた。衝撃に竹々がびりびりと震える。瞼を開いた。「背中……? 嘘つき」
返す拳が白鵺の胴を撃ち飛ばした。ごろごろと地面を転がり白鵺はすぐに体勢を立て直す。「っ……! 野性か……っ!」
直感に身を委ねたアテネが突っ込んでくる。「……たしかに、野性と反射で対応するのが最適解ではある……。我の変則体術にはな。だが、そう来るなら……」
真っすぐな拳が連続でアテネの体に叩きつけられた。「……!!」アテネは体を硬直させカウンターを放った。白鵺が直線的な動きでそれを払う。
「反射で来るなら、正道の古典体術に切り替えるまでだ……。シンプルな技術勝負に持ち込みゃ良い‼」
白鵺の連撃が襲う。アテネは反射で捌こうとするも、一撃は的確に防御を擦り抜け、鎧の上に衝撃を与えた。
「っははは! フィジカルで誤魔化しちゃいるが、よく見りゃ動きは素人だ!! 所詮狂花帯頼りの御令嬢様、力任せに腕をぶん回してるだけじゃ、伝統に洗練された野風の武術は防げないぜ‼」
宣言どおり高速の精密打撃はアテネの本能的防御をかいくぐり、着実にヒットしていた。緑の鎧に護られてはいるが、じりじりとアテネは後退し出した。防戦一方に回され、アテネは白鵺の動きを凝視して何事か呟いている。
ふん、今さら何をしても無駄だ。白鵺は思考する。打撃が弾かれる。気にも留めず次の蹴打を相手の膝に当てた。……このまま葉の吸収速度を上回る頻度で打撃を加え続け……、緩んだところを殺る。 警戒するとすれば催眠くらいだが……、今の我は野性全開、幻覚は本能で見抜ける!
素早く繰り出す首狙いの爪撃……、右を囮にした必中の一撃だった。が、アテネの上体が滑らかに動きそれを回避する。「……!」空を切った拳に白鵺が小さくバランスを崩す。
反射で首を回した白鵺の頬を、閃光のように緑の拳が掠める。体重の乗った良い打撃。こいつ……。すぐさま反撃に転じた白鵺は違和感を覚えた。……急に動きが良くなってやがる……?
事実、白鵺の攻撃のミートする回数は確実に減少しつつあった。腰の入った回避の身のこなし、無駄のない重心移動、直線的な拳がカウンターとして飛んでくる。
「……まさか……!」
精妙な一打にぐらつかされながら白鵺の脳裏に仮説が過る。「我の動きを学習しているのか……⁉ 今……! この場で……‼」
「……左……、落として捻る……、タイミングをコンマ5早く……」
念仏のように唱えながらアテネの精度が向上していく。動きを模倣し分析し再構成している……。正確な一撃が白鵺の防御をすり抜けて顔面に入った。
「っ馬鹿な……、我でさえものにするのに三ヶ月はかかった……! ものの数分でできるわけがっ!」
喚声を黙らせる流麗な連撃。後ろに押し込まれた白鵺が怯んだ隙にアテネの姿が消えた。竹をしならせ、矢のように竹林を飛び交う。「っ、我の動き……⁉」
「悪いわね……、視覚情報の模倣と学習……、人間の脳の限界を、カプリチオの自己催眠は容易く引き出させる」
標的の頭上に瞬時に現れながら、アテネは言い添えた。「相手が悪かったわね」
激烈に撃ちだされた拳が、白鵺を地面まで半回転させた。
「っ……」
頭が割れ、生温かな血が見上げた空に滲んでいく。同じ紅の髪をした少女が倒れ伏した白鵺を見下ろす。
「っ……安心……したぜ」
白鵺は歯を剝きだして笑む。「親父の紛い物じゃ……、なかった。お前の中の、親父は、既に死んでいる……。もはや銀将門ではない……、それを超える何かに、生まれ変わった」
「当り前じゃない。誰の血が混ざろうが、私は私よ。正当なカプリチオの後継者であることに変わりはない」
あっさりとアテネが肯定する。「さて……。これでお終いにするけど、何か言い残すことはある?」
「……。どうやらこの国は……、とんでもない怪物を生み出しちまったようだな……。アテネ……、カプリチオ最後の貴族……、二人目の鬼……。その力で、お前は何を望む」
緋の瞳でアテネが見下ろす。
「革命を」
ふっと口元をほころばせる白鵺の吐息が漏れ、頭蓋の割れる湿った音が続いた。




