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3話

 ナイフが振り下ろされる。


「お嬢様!」

「ぐっ!?」


 直前、どこからか何か重いものが飛んできた。

 それは男の額に直撃し、たたらを踏んだ男が倒れる。


「良かった、当たった。リリアーナ様、ご無事でありますか!」

「貴方、は」


 リリアーナの前に現れたのは、平民の服を着た若い男だった。

 その顔に、リリアーナは見覚えがある。リリアーナの家、ミッシェル家の私兵だ。


「駆け付けるのが遅くなり申し訳ございません! お怪我はございませんか?」

「だ、大丈夫……え、なんで貴方がここに?」

「はっ! お父君からリリアーナ様の警護をするよう仰せつかってその任についておりました! 何事もなければ、姿を見せず遠くからお見守りする手筈だったのですが……」


 なるほど、とリリアーナは納得した。

 どうりですんなり屋敷を抜け出せた訳だ。監視を付けていた訳だ。そしてそのおかげで、怪我をせずに済んだ。


「リリアーナ様、ご用事があるのは重々承知しておりますが、本日はお屋敷に帰りましょう」

「……分かったわ」


 リリアーナは素直に頷いた。

 その背についていこうとして、リリアーナは後ろを振り返った。


「…………」


 クラウスは、じっと己の手を見下ろしていた。

 動かない。沈痛な面持ちをした彼は、その場から動こうとしない。


「お嬢様?」


 呼ばれてもリリアーナは動かなかった。

 ただクラウスを見つめた。私兵が困惑した様子を見せるが、それでもクラウスを見つめ続けた。


「……」


 ゆっくりと、クラウスの顔がこちらを向く。

 視線が交わる。一瞬、クラウスは迷うような色を見せた。それから。


「……君は。仕方がないな」


 ふっ、と。少々ぎこちない微笑みを浮かべて、リリアーナの方へ足を動かす。

 リリアーナは一言謝罪をした後、ようやく歩みを再開させたのだった。


◇◇◇


 屋敷に帰り、リリアーナはすぐに医師の診察を受けた。

 怪我としては大したことなく、捕まれて赤くなった腕や、転んだ際の擦り傷の治療は数分で終了した。

 その後の母の説教は長かった。母の言葉からはリリアーナを心配し、労わる気持ちが伝わってきたため、リリアーナは終始罪悪感に苛まれることとなり、最終的には当分の間の自宅療養を命じられたのだった。


「疲れた」


 重い体を引きずり、リリアーナはベッドに身を沈めた。


「……」


 リリアーナは窓際に佇むクラウスへ視線を向けた。

 見られていることが分かっているだろうに、クラウスは口を開かない。ただじっと自身の足元ばかりを瞳に映している。


「……ごめん」


 やがて、クラウスは足元へ視線はそのまま。小さな声で謝罪の言葉を口にした。


「僕が考えなしに言ったせいだ。配慮に欠けていた。すまなかった」

「……」


 リリアーナは重い体を起こした。

 暗い部屋に月明かりだけが注がれている。静かな光が窓ガラスの影を床に映していた。


「私の方こそ、ごめん」


 時間が経ち、リリアーナの頭は冷静さを取り戻していた。

 否、数日振りにと言った方が適切かもしれない。クラウスが死んだという知らせを受けてからずっと、リリアーナ・ミッシェルという人間は冷静ではなかった気がした。


「クラウスが言ってた通り。私は、もっと人付き合いを考えるべきだった。クラウスはもう、私のことを助けられない。私の逃げ場になってはくれないから」

「……」

「クラウスは、あえて厳しく言ってくれたんでしょ。だって今までそういうこと言わなかった。あんな、直接的には」


 リリアーナは立ち上がった。

 クラウスの近くで足を止めると、初めて彼が顔を上げた。リリアーナはその目に宿る感情が、とても複雑な色合いをしていることに気付いた。


「……」


 リリアーナはクラウスの頬へ手を伸ばした。


「本当に、触れないや」


 リリアーナの手は虚しく空を描くだけだった。

 温かさも、触れた感覚もない。それでもリリアーナは、クラウスの頬を撫でるように手を動かした。


「物、また触れなくなったの?」

「……さっき試してみたら、触れられない時と、触れられる時が半々ってところ」

「そっか」


 リリアーナは頬を撫でる手を、きゅっと握った。


「ね、クラウス。悲しいわ」


 クラウスが微かに目を細めた。


「悲しい。私、すっごく悲しい。貴方に触れないの。貴方が、生きていないの」


 縋りつきたいのに、出来ない。

 だから支えられるものがなくて、リリアーナの瞳から抑えきれない涙が零れ落ちた。


「本当は落とし物を見つけたくない。見つけたら、クラウスいなくなっちゃいそうだから」


ぽた、ぽたと。床に染みを作っていく。


「でもクラウスの頼みは聞いてあげたい。ちょっと危険でも、それでもいい。私はもう一度路地裏に行けって言われたら、喜んで行く」

「リリアーナ……」

「花嫁衣裳も、着たかった。試着したら、お姫様になったみたいで凄く気分が良くて、これでクラウスの隣に立っても見劣りしないなって思えたから」


 リリアーナは鼻を啜った。ああ、今人様に見せられない顔を晒している。

 よりにもよって、クラウスに。

 それが嫌で、リリアーナは自身の顔を覆った。醜い自分を隠したかった。


「クラウス」


 その理由を、リリアーナはよく分かっていた。


「私、貴方が好きよ」

「——」


 震える吐息が、零れるのを聞いた。


「好き。好きよ。いつからか分かんないけど、好き。爽やかな好青年で、友達千人いるような貴方が、いつも私のことを気遣ってくれる優しい貴方が、好き」

「……」

「ああもう、ひどい告白しちゃった。怪我してるし、涙でぐちゃぐちゃだし、クラウスのせいだからね」


 想いを告げてしまった恥ずかしさを隠すように、リリアーナは言葉を重ねた。ベッドサイドテーブルまで行き、置いてあるハンカチで涙の痕を拭いていく。


「リリアーナ」

「なによ。振るならさっさと振ってくれていいんだから。私たちがただの政略結婚の間柄だって、私が一番よく分かっているんだから」


 リリアーナは半ば自棄になった気持ちで言った。

 そして振り返って、怪訝に思った。

 クラウスが、ひどく苦し気な顔をしていたから。


「僕、は」


 初めて見る表情だったかもしれない。

 クラウスは苦悶の表情を浮かべ、爪が食い込むほど強く拳を握った。

 やがて絞り出すように、


「僕は——君が思っているような人間じゃない」

「え……?」


 扉がノックされたのは、その時だった。


「リリアーナ、今少しいいかい?」

「お父様?」


 聞こえてきた声に反応すると、父はそれを了承と受け取ったようだった。

 部屋に入ってきた父は、リリアーナの涙の痕を見て驚いたようだ。そしてそれを、今日の出来事のせいだと思ったようだった。


「リリアーナ、報告を聞いたよ。怖かったね。怪我は大丈夫?」

「え、あ、うん」


 頷きながら、リリアーナはちらりとクラウスへ視線を向けた。

 クラウスは俯いていた。はらりと垂れた前髪のせいで彼の表情は読めない。分かるのは、今彼が話をする気はないということだ。


「お父様、今私ちょっと色々あれで……」

「ああそうだよね。すぐに終わるから。お前に話しておきたいことがあるんだ」

「話しておきたいこと?」

「新しい婚約者が出来る」


 リリアーナは言葉を失った。

 叫ぼうとして、父の顔を見て止めた。父がひどく重い表情だったからだ。


「クラウス君のことは、とても残念だと思う。本当に」


 リリアーナはクラウスの死を知った時の父を思い出していた。

 茫然と立ち尽くし、言葉を失くした父。父からすれば、幼い頃から知っている子が亡くなったのだ。もうじき義理の息子になるクラウスを、父が密かに待ちわびていたのをリリアーナは知っていた。


「お前はクラウス君とも親しかった。本来ならば新しい婚約者なんて見つけたくない。だが」


 父は静かにリリアーナを見つめた。


「私たちは貴族だ。結婚をするのが当たり前で、親として娘の結婚相手を探す義務がある」


 故に、父にクラウスの死を悼む時間はない。

 早く娘の新しい婚約者を探し、一日でも早く良縁を見つけてあげなければいけない。娘のためにも。


「せめて顔合わせはお前の心の傷が癒えてからにしたいと思っている。だがこのことは、早めに伝えておかねばと思ってね。……すまないね、色々あって疲れているというのに」

「……」


 父の心境を正しく理解し、それでもリリアーナは受け入れることが出来ずにいた。

 だって、ついさっき、長年好きだった男に告白したばかりなのだ。

 同時にリリアーナの頭は、努めて冷静に告げてくる。

 即ち——断ることは出来ない、と。


「っ……お父様、私——」


 その時だった。


 窓ガラスが、割れた。


「なんだ!?」

「っ……!?」


 硝子の破片が床に散らばる。

 離れていたリリアーナと父に破片が突き刺さることはなかったが、床も窓も無残な状況だ。

 そしてなにより不可解だったのは、


「窓が……勝手に割れた?」


 父が茫然と呟く。

 音を聞きつけたのだろう。慌てた様子の使用人たちが飛び込んできて、侵入者かと警戒する。しかしすぐに誰もいないことに気付き、不思議そうに首を傾げた。


「旦那様、お嬢様、大丈夫ですか!?」

「お怪我は……!」

「えっ!? なんで窓が割れてるの!?」

「風かぁ?」


 騒ぎになっていくのを聞きながら、リリアーナはゆっくりとそちらを向いた。

 暗がりの中に佇む、ずっと静観していた青年。

 顔を真っ青にして、恐怖するように己の腕を抱きしめ立ち尽くす彼に。


「……クラウス?」


 貴方がやったの?

 リリアーナのその言葉は、喧噪に紛れて消えていった。


ここまで読んでくださりありがとうございます。

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