2話
リリアーナを制したクラウスは、険しい表情だ。
「待って、リリアーナ。そっちは路地だよ」
「分かってるけど、問題でもある?」
「ある。一人で探すのならこの通りだけにしてくれ。路地裏はガラの悪い人間がたむろしていることが多いし、見晴らしも悪い。助けも通じにくい」
リリアーナはむっとした。
「大丈夫よ、見た目で私の身分なんて分からないし、気を付けるし」
「そういう問題じゃ」
「昔はよく二人で抜け出して、色んな所行ったでしょ。今更文句を付ける訳?」
リリアーナは腕を組み、クラウスを睨み上げた。
視線を受けたクラウスは、意思の強い瞳で見返してくる。
「あの時と今は違う。今の君は一人だ。路地を行くのなら護衛を付けてからにしよう」
「心配性め」
これ以上言い争っても仕方がない。リリアーナは路地を諦め、再び明るい橋の手前に戻った。
護衛か。
そう心の中で唱え、ちらりとクラウスを見る。
「護衛がいたら、貴方と話せないじゃない」
「——」
八つ当たりのように言葉を零す。
クラウスが息を呑んだような気配がしたが、リリアーナは無視して落とし物を探し始めた。
——だがしかし、それが見つかることはなく。日が暮れたのを合図に、リリアーナは屋敷に戻るのだった。
◇◇◇
翌日、なんだか体が重い。
リリアーナは疲労を抱える体を引きずっていた。葬儀に落とし物探しと、連日の疲れが出ているようだった。
まだ朝ご飯を食べたばかりなのに。そう思いながら角を曲がった時だった。
「あ」
「?」
ばったり遭遇した侍女が顔を真っ青にした。
屋敷内で侍女と会うことはそう珍しくない。にも関わらずどうして。
「……あ」
リリアーナの疑問はすぐに解消された。侍女たちが運んでいたのは、リリアーナの花嫁衣裳——になるものだったからだ。
「……これ、どこに持っていくの」
「え、えと。奥様の言いつけで、しばらくは衣装部屋に……」
「そっか」
リリアーナの花嫁衣裳は特別な部屋に置かれていた。
それが衣装部屋に行くということは、あの花嫁衣裳はしばらく出番がないということだ。
「あの、お嬢様……よければ後で、美味しいお茶をお持ちしても良いですか?」
古株の侍女が気遣わしい表情で見上げてくる。
リリアーナはふいと顔を背けた。悼むような視線から逃げたかった。
「いらない。しばらく部屋にこもるから誰も来ないで」
「か、かしこまりました……」
頭を下げる彼女たちの前を、リリアーナは通り過ぎた。
「リリアーナ、おかえり。見てくれ、簡単な物になら触れるようになったんだ」
部屋に戻ると、クラウスが出迎えてくれる。
クラウスは屋敷内にいる時は極力リリアーナの私室に滞在していた。リリアーナが己にうっかり話しかけてしまわないように、というクラウスなりの気遣いらしい。
「……本当、凄いわね」
リリアーナはぽつりと言葉を零す。
クラウスが言った通り、彼は確かにドレッサーに触れられていた。どうやら部屋にいる間、どうにかして触れられないか試行錯誤していたらしい。
「だろう? やっぱり僕の意識の問題だったみたいだ。その気になれば動かせるかもしれない。人は、難しそうだけど……」
そこでクラウスは言葉を切った。
「何かあったのかい? いつもよりも暗い顔だよ」
「……それ、いつも暗い顔って言ってる?」
「おっと口が滑ったか。安心してくれ、暗い顔のリリアーナも魅力的だから」
「もう! 着替えるから一度出て行って!」
クラウスは「分かったよ」とおどけた仕草で外を出て行った。
壁を通り抜けていく姿は、彼が幽霊だということを実感させられる。
「……」
一人きりになったリリアーナは、視線を落とし、クローゼットを開ける。
分かっている。
クラウスがああいう口を利くときは、自分を元の調子に戻そうとしている時なのだ。わざと怒らせたり、笑わせたり。そうやってリリアーナから悲しい記憶を忘れさせようとしている。
生きていた頃と、何も変わらない。
「……探し物見つかったら、クラウスは……」
着替えの手がとても億劫だった。
「それで、護衛は?」
「いないわよ」
再び橋の元へやってきたところで、クラウスが盛大に溜息を吐いた。
「リリアーナ。路地に入らなくてもいつどこで何が起きるか分からないんだ。護衛は付けるべきだと思うよ」
それにとクラウスはじっとリリアーナを見つめた。
「それに君、やけに屋敷を抜け出すのに慣れているね」
「う」
「僕たちが屋敷の外へ行っていたのは小さい頃の話。でも君の動きは久しぶりを感じさせない。今日の動きで確信したよ。君、度々外へ抜け出していたね?」
「……クラウスには関係ないでしょ」
「あるよ。僕たちは結婚する——の話はなくなった、けど」
リリアーナは胸を剣で刺されたような感覚だった。
「でも幼馴染として、君の心配はさせてくれ。貴族令嬢ではなくても、若い女性をどうにかしようと考えている下衆な奴らはこの世にたくさんいるんだから」
「…………」
その時、通った馬車が静かに停車する。
「リリアーナさん?」
開いた窓から顔を覗かせたのは、知り合いの令嬢だった。
「あ、えーと、どうも」
リリアーナは冷や汗を流した。
見覚えのある知り合いの令嬢だ。しかし、名前が出てこない。ぐるぐる回るリリアーナの思考回路を他所に、令嬢は悼ましい表情を浮かべた。
「聞いたわ、ご婚約者様のこと……挙式もされるご予定だったのでしょう? なんて言葉を掛けたらいいのか……」
「お心遣い、感謝します。でも私より悲しいのは、彼の家族ですから……」
「そう……。ところで、こんな所で何をしているの?」
「えっと、あの。色々あって」
その婚約者の落とし物を探しています、と言う訳にもいかず。リリアーナは曖昧に言葉を濁した。
「色々……?」
「色々です。色々。そちらこそ、どうしてこの道を?」
令嬢は気になった様子だったが、素直に答えてくれた。
「この先にお気に入りの店があってその帰りなの」
「へえ……」
「そうだ、もう行かなくちゃ。リリアーナさん、また今度お茶でもしましょうね。それから、もし私に出来ることがあれば言ってちょうだい」
「あ、はい」
令嬢の馬車が去っていく。
リリアーナは強張っていた肩の力を抜いた。そして痛いくらいにこちらを見ている彼を見上げた。
「なによ」
「……今の人、友達かい?」
「え? あーいやそんなんじゃないけども」
名前も覚えていない相手だ。ただ、お茶会に参加した際、何度か話しかけてくれたような気がする。
「……へえ」
クラウスの声色が固い気がして、リリアーナは彼を見つめた。
「言いたいことあるのなら言いなさいよ」
「なら遠慮なく——君、もう少し人付き合いを改めたらどうだい?」
「むきー!」
予想していた内容でも、いざ実際言われると腹が立つものである。
「私はもうこういう性格なの。人付き合いを改めるとか無理。友達千人いる人は黙ってて」
「リリアーナ、僕に友達が多いのではなく、君に友達がいなさ過ぎるんだ。君、僕以外に話せる相手はいるのかい? 両親を除いてだよ」
「うるっさいわね!」
リリアーナは唇を尖らせ、落とし物探しを始めようとした。しかし、
「リリアーナ。日は落とし物探しはなしにしよう。いや、むしろ諦めてもいいかもしれない」
「はあ?」
リリアーナの眉間に皺が寄る。
「クラウス、今更何を言ってるの? 未練を晴らしてほしいと言ったのはどこの誰?」
「それは、ごめん。僕の都合で君を振り回したこと、心から謝罪する。でもそれより大切なことがあるんだ」
「大切なこと?」
「君だよ。リリアーナ」
クラウスの真剣な眼差しに、リリアーナの言葉が詰まった。
「な、によ。それ」
リリアーナは凍り付く喉を必死に動かす。
クラウスは視線を落とすと、静かに話し始めた。
「リリアーナ、君は自分自身を理解してくれる人を作るべきだ。無条件に君を理解し、信頼して愛してくれる人を」
「……なんで。そんなの、いらないわよ」
「必要だよ。君は生きているのだから」
「っ」
リリアーナは自身の片腕を強く握りしめた。右腕が悲鳴をあげている。痛い。でもそうしないと、何かが溢れてしまいそうだった。
「リリアーナ」
やめて。
リリアーナは彼が何を言おうとしたのか、正しく予想して。
「僕はもう死んでしまった。君を理解出来る人間は、この世界から一人いなくなったんだ」
「——」
「リリアーナ!」
気が付けば、リリアーナは駆けだしていた。
無我夢中で走り続ける。どこでも良い。どこかに行きたかった。細い道を駆け抜け、
「——あ」
その勢いのまま転がった木箱に足を躓かせた。
「っ……訳が、分からない」
立ち上がることも出来ずに、リリアーナは薄暗い路地の地面に拳を擦りつけた。
「リリアーナ、大丈夫かい!?」
「分かんない、分かんない、分かんない!! なによ、そこにいるじゃない。クラウスはそこにいるじゃない!!」
「リ——」
「クラウスは私の目の前にいるじゃない!」
倒れたまま振り返った先に、クラウスがいた。
息を切らせているこちらと違い、クラウスは息一つ乱していない。細い路地を駆け抜けたのに、クラウスは全く問題なくついてきた。
その違和感に気付きながら、リリアーナは叫んだ。
「死んだなんて嘘でしょ、もうすぐ結婚式だったじゃない! そりゃ私たちは世の中の恋人同士みたいじゃない、政略結婚だったけど、お互い文句なく、結婚式の段取りを進めてて」
「——」
「……なんで、死んでるの。貴方の方が、ずっと友達もいて爽やかな好青年で、私は友達付き合いも上手く出来ない人間で、死ぬのなら、私の方がっ」
クラウスがハッとした。
リリアーナの耳に足音が響く。重い足音。同時に、つんとした酒臭さ。
「なんだぁ?」
「リリアーナ、立って。まずはここから逃げよう」
「可愛い嬢ちゃんがいるじゃないか」
「……っ」
足音が止まる。
リリアーナの前に立ったのは、酒臭い男だった。
「丁度良かった、一人で暇してたんだ。こっち来て付き合ってくれよ」
「いたっ……」
「リリアーナ!」
男はリリアーナの腕を掴み、無理やり立たせる。腕の痛みにリリアーナは顔を顰めた。
「っ、離して!!」
リリアーナの空いた手が何かに触れた。それが何か確認する暇もなく、掴んで思い切り男の方に向かって投げつけた。
転がっていた空瓶だ。それは男の腕に当たり、その隙を突いてリリアーナは立ち上がった。
「この女っ! 痛い目合わせてやる!!」
男は上機嫌な酔っ払い顔を一転、怒りで真っ赤にする。そして逃げかけたリリアーナの後ろ髪を掴んだかと思うと、懐からナイフを取り出した。
「しまった——」
刃が振り下ろされる。
焦りの表情を浮かべたクラウスが間に入る。その刃を掴もうとして、
「え——」
それは、最初の頃のようにあっさりとクラウスの手をすり抜けたのだった。
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