酒宴 ーSHUENー
夜の帳が下りた空に、煌々と月明かりが灯っている。それを跳ね返すように、門前に焚かれた松明の火が、辺りをぼんやりと照らす。
先代の村長である治五郎が村に帰ってきたときは、いつもこうして、村長の家で宴が開かれるのだった。大人たちはそこに一堂に会し、その間、子どもたちは「悪さはしないように」とよくよく言い聞かせられて、村長の家には近づかないようにと追い出される。子どもたちはこれ幸いと、大人たちの目のないところで、当然言いつけを守ることなく、勝手をするのが常だった。
けれど、今回ばかりは違う。子どもたちも村長の家に寄り着くことを許されて、それもおこぼれに預かれるらしい。村の外れの稽古場から、軽い足取りでやってきた4人は、それぞれに喜色に頬を染めて、門をくぐった。
「お、来たか」
ちょうど外の空気を吸いに出てきたらしい治五郎が、4人を目敏く見つけて、手招きした。家の中からは、大人たちの楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
「治五郎じぃ!」
いち早く治五郎に気づいた悠奈が、瞳を大きくして、駆け寄る。隆道と李橙もそれに続いた。大きい手が子どもたちの頭をぐりぐりと撫でる。
「こっちや。澄治たちも待ってるぞ」
治五郎に続いて、悠奈たちは塀と建物の間の細い道を進む。壁を軽くコンコンと叩くと、中から小さい扉が開かれる。
「お、ようやっと来たんか」
中から顔を出したのは誠汰だった。その頬がもきゅもきゅと動いている。それに悠奈が顔を赤くする。
「お行儀悪い!」
「はよ食わんとなくなるやろ」
「もうないの!?」
「まー、のうもない」
誠汰は悪びれもせずに言って、中に姿を隠す。治五郎が4人に、中に入るように促した。それに従って、悠奈たちも中に入る。6畳ほどの一部屋に、子どもたちが集まって、一つの鍋を囲んでいる。
「いらっしゃい」
茶碗と箸を両手に持って、澄治が4人を迎える。4人が中に入ったのを見届けて、治五郎が外から扉を閉めた。行燈の明かりでぼんやりと明るい部屋の中には、美味しそうな匂いが立ち込めている。
「鹿が手に入ったんやって」
端に置いていたらしい茶碗と箸をそれぞれに渡しながら、樺乃子が言った。
「渋漬けにするで、ちゃんと見とけって言っとった」
「んげ」
悠奈が顔を歪める。その横で、床に下ろされた遙が、澄治に手招きされて、茶碗を片手にそちらへ向かう。
「なんや、あんなんたまに行って見ればええだけやろ」
「それが面倒なんだって」
「まあまあ。大事なお役目やよ」
誠汰の隣に腰を下ろしながら文句を垂れる悠奈に、李橙が言う。悠奈は口を尖らせた。
「うちらが『外』から穢多か非人に見えとらんと、お役目が果たせんからね」
「それはそうだけどさぁ」
鍋から茶碗によそいながら、やっぱり口を尖らせたまま言った。
「うちにもよそって」
「うん」
鹿肉と山菜と米を中心に煮込まれた鍋からは、味噌の香りが漂い、窓の隙間へと流れていく。
「味噌煮なんやね」
「刺しは子どもには早いって」
「そらそうや」
「肉を食えるだけでも儲けもんやろ」
李橙の言に、樺乃子が応える。李橙がそれに頷いてみせると、横から誠汰が口を出した。
「ま、大人衆は刺しで食うとるらしいけどな」
ついでとばかりに茶碗を渡そうとする誠汰に、「自分でやりなよ」と悠奈がお玉を渡す。
「用意するの大変やったよ」
「おカノ手伝ったん?」
李橙が問えば、樺乃子がうん、と頷く。
「カシワの兄さんが張り切っとったからな」
向こうから口を挟んだ隆道に、もう一度、樺乃子がうん、と頷く。
「カシワのにぃさん、こないだも気張って、悪心おこしてなかったっけ?」
「あれは喰いすぎやろ」
悠奈の言に、隆道が呆れたように言った。空いた腹に、味噌のうまみが染み渡る。お腹いっぱいになった子どもたちは、うとうととしている者もいる。
しばらくそうして鍋をつついて、鍋が空になろうという頃。そういえば、と口を開いたのは澄治だった。
「山で人を見たって」
「外の人?」
澄治がコクリと頷く。神妙な面持ちの澄治に、李橙は不思議そうに言った。
「白山の山開きも済んだらしいし、修験者が来とるんやないの?」
「こっちに迷い込んだら事やろ」
「そうやな」
村に外から人が来ることは少ない。わざわざ自分から近づこうという者はほとんどいない。村に人が来るときは、よっぽどの事か、あるいは迷い込んだ者だ。
「ま、考えても仕方ないやろうけど」
「ほやほや」
起こってもいない出来事に不安をいだいていられるほど、子どもの世界も甘くはない。
満腹の腹を抱えて、ひとり、また一人と眠りに落ちていく。大人はみんな酒宴の最中。このままここで夜を明かしても、誰も怒りはしないだろう。
***
いくらか時間が経って、李橙が目を覚ましたのは、真暗闇の中だった。眠い目を擦りながら起き上がる。
「あれ、あの子どこ行ったんだろ」
隣にいたはずの悠奈がいない。ただそれだけのことなのに、なんだか厭な予感がして、李橙は立ち上がった。
「……この絡繰屋敷で迷いでもしたら困るものね」
自分に言い聞かせるように呟いて、李橙は部屋を出る。村長の家は、度々子どもたちの遊び場になる。それは、村でも有数の広さを誇るというのもそうであるが、なによりその構造による。勝手知ったるから、大人たちは子どもをここに寄せ付けようとしないのだ。
夜目を頼りに、大人たちに見つからないように屋敷を回って、李橙はようやく悠奈を見つけた。
「おユウ?」
李橙が声をかければ、悠奈はハッと目を見開いて、素早く振り向いた。その大きな瞳が李橙の姿を確認して、ぱちりと一つ瞬く。
「……イトねぇ。どうしたの、こんなところで」
「それはこっちのセリフやけど。何やってるん?」
月の光も入らない裏の道で、小さく交わされた言葉の最後は、「しーっ」というものだった。ただ、板壁の隙間から、薄っすらと明かりが漏れる。狭い通路でも、子どもの体には十二分に余裕がある。李橙は悠奈のそばに身を寄せた。
板を一枚隔てた向こう側。酔った声は閑かな夜に響き渡る。
「どうにもならんのか」
「ここは龍神様のお膝元やぞ。これまでずっとやってきたことや。それに、藩のもんも目を光らせとる」
「それはそうやが!」
あ、と思った。この子をここにいさせてはならないと、李橙は思った。けれども、それは叶わなかった。
「まあまあ、ここは、胡蝶が自ら名乗り出てくれたんを誇りに思おうや」
「胡蝶は村ん女子衆ん中でも容貌がええで、龍神様も歓ぶやろ」
「なしてこないなことを続けていかないけんのや……」
「お国のためや」
「柏木には悪いが」
「仕方がない。何を言うたってどうにもならん」
「もう戦を起こさんでもええようにせんといかん」
「そのための贄が一人で済むんなら、それで納めんといけんやろ」
「もうそのへんにしとき」
「これが飲まんでいられるか」
「飲んだって酔えやせんやろ」
板一枚挟んだ向こう側。この薄い膜が、子どもと大人の差だ。知って苦しむか、知らずに悲しむかの差だ。板の隙間から覗くわけでもなく、ただ漏れ聞こえる音だけを浴びている。
「……おユウ」
思わず李橙は名を呼んだ。まだ幼い子どもに聞かせるような話ではない。手探りで繋いだ手を握る。
「行こ」
それだけ行って、悠奈はその場から離れる。李橙も手を引かれて、それについていく。
着いたのは子どもたちの眠る部屋ではなく、外だった。逃げ場の多い家だ。求める場所に辿り着くより、外に出る方が簡単なのだ。
深深とした夜に、月は南天を過ぎたところで、村を優しく見守っている。光の少ない時代。遠く離れた星の明かりが、つぴつぴと肌に刺さる。夏の柔らかい風が髪をさらう。
何か声をかけようとして、けれども李橙は口を噤む。
「大丈夫、わかっとるよ」
家の中の大人たちには聞こえないようにと、その声はひそめられていた。小さな黒子が、柔く弧を描く口に添えられている。
「子どもは子どもらしくいないと。大人が大人になれんやろ」
子どもが言うにはあまりにも大人びた台詞だった。李橙はそれを怖いと思った。いつか自分も通った道で、これまでに同じような姿をたくさん見てきたはずなのに。
大人が思う以上に、子どもは残酷だ。善悪の境があるから残酷なのだ。子どもには子どもの観念があり、それは周囲の大人によってつくられる。
村の子どもたちは、特にそれが顕著だ。李橙はそう感じている。幼少の砌からさまざまなことを叩き込まないと、生き残れないためだとはわかっている。生きるも死ぬも己の力量次第の世の中であるためだとも分かっている。だから、これは本来なら、ちょっとした事故で済むはずだった。この村の子でなければ。この子でなければ。少し酒が入ったくらいで、子どもごときに盗み聞かれるなんて、大人たちの怠慢だ。
「知らんふりをするんも、子どもの仕事やって」
李橙は何も言えなかった。言葉を出すことすらはばかられた。この時代。この村では、子どもは『神さま』なのだ。だから、大人はなるべく『穢れ』から遠ざけようとする。無垢なままでいさせようとする。けれどもそれは叶わない。白は様々な色を吸って、様々な色に染まる。子どもは紙だ。染まるのも色づくのも、覚えるのだって早い。
わかっとるよ、と悠奈は繰り返した。
まるで自分に言い聞かせてるみたいに。それから、くるりと空に顔を向けて、呟いた。
「早く大人になりたいなぁ」
風がその言葉も、届かないようにしてくれればいいのにと、李橙は願った。かわいた喉に、酒を流し込みたい。けれども願いごとは、たやすく叶わないものである。
***
まったくこの世は舞台なのだ。人はみなその舞台で踊る役者。与えられた役を演じることしか叶わない。大人も、子どもも。誰だって。