帰路 ーKIROー
力強い足踏みに、床板が鳴る。くるりくるりと回り、回る。短く着付けられた着物の代わりに、袖を上げている襷が揺れる。垂らされた髪の結い紐が揺れる。ほの暗い稽古場の中、爛々と輝く瞳は何を映しているのだろう。
遙はその様子を凝っと見つめていた。大きな瞳に橙色が映る。どこか遠く、鈴の音が聞こえたような気がした。
「ユウナ」
「うひゃあ!?」
入口の方から掛けられた声に、踊っていた少女が飛び上がる。そのまま尻餅をついて、少女は声の主を見た。
「なーんだ、タカミチにぃか。びっくりしたぁ」
「何やっとるんや」
足を拭き終えた隆道が、李橙と共に近づいて来る。
「あれ、ハルカもおる。いつからそこにっ!?」
「えへへ」
遙も照れたような困ったような笑いを浮かべながら立ち上がる。床に墨で引かれた舞台を表す線を踏み越える。立ち上がった悠奈が、やってきた遙を抱える。
「ユウ、きれいやった」
「へへーん、そやろ」
褒められて自慢げな顔をする悠奈には、先程までの鋭さはない。頬を緩めて鼻をこする悠奈の横で、床に落ちた木の棒を隆道が拾い上げる。
「調子乗るな」
「いてっ」
木の棒で小突かれる悠奈に、遙がクスリと笑う。いつも通りの光景に、李橙も口角をあげた。
鈴の代わりの木の棒を悠奈に渡して、隆道が遙を抱き上げる。
「ハル、楽しかった?」
「うん」
李橙の問いに、隆道の腕の中で、遙はにっこりと笑って頷いた。李橙もそれに微笑み返す。
「よかったなぁ」
「それで、二人とも何しに来たん?」
木の棒を端に置いて戻って来た悠奈が、隆道に問いかける。
「何しに来たて。お前らが戻ってこんから呼びに来たんや」
「なんで?」
心底不思議そうに、首を傾げて見せる悠奈に、隆道は呆れたように肩をすくめた。確かに、普段なら稽古場まで呼びに来ることはないけれど。察せとばかりに視線を送る隆道の横で、李橙が何か気づいた様子でクツクツと笑う。
「おユウは気づかんでしょ」
隆道は李橙を一瞥してから、深く息を吐いた。
「そもそも、こんな遅なるまで何しとったんや」
「踊ってた」
「それは知っとるわ」
悠奈の言葉は隆道に一蹴される。木枠のような窓の隙間から、月明かりが漏れる。夜の帳の中、遠く笑い声が風に乗って届く。いつもとは違う空気が、谷を渡っていく。悠奈は軽く頬を膨らませて、斜め後ろに視線を送る。その様子に、李橙が口を開いた。
「みーんな宴だ酒だって行っちゃったもんだから」
李橙が悠奈を軽く指さす。
「拗ねてる」
「拗ねとらん!」
悠奈がくわっと反論するが、残念ながらそれは受け入れられない。
「そんなことやろうと思ったわ」
「違うって!」
隆道は面倒くさそうに悠奈を一瞥してから、稽古場の入口に爪先を向けた。悠奈はその背に向かって抗議しようとするが、その肩に李橙が手を回す。
「時に諦めは肝心、ってな」
「イトねぇ!」
「はよせんと置いてくで」
戸口までさっさと歩を進めた隆道が、くるりと振り返って言った。その腕の中で遙がちょいちょいと手を招いている。それでも頬を膨らませたまま動こうとしない悠奈に、李橙が耳打ちする。
「うちらの分もご馳走、用意されとるって」
「え!」
顔をあげた悠奈に、戸口の方で、それを察したらしい隆道が頷いて見せる。治五郎が帰ってきたときは、いつも、宴に参加できるのは大人たちだけだった。大人たちが一堂に会するから、子どもたちはその分目を盗んで遊びに行くことが多かったので、それはそれで、というやつだろうが、それでも、美味しそうな香りや、楽しそうな酒宴の場に憧れる気持ちがないわけではない。
隆道たちの元へ駆けだした悠奈を李橙が追う。稽古場の戸を締めて、田んぼの間の細い道を4人は進んでいく。いつしか暗くなっていた空には、宝石のように星が煌めいている。
月明かりがぼんやりと村の姿を浮かび上がらせる。村の外れの稽古場の堂から、遠く松明の光が、ちらちらと燃えているのが見える。村長の家に、皆集まっているのだろう。随分柔らかくなった風が、子どもたちの間を吹き抜けていく。
「あんまり急ぐと転ぶで」
遙を抱えたまま、隆道が、大股で先頭を歩く悠奈に声をかけた。
「へーきへーき。そんなヘマせんよ」
振り返ることもなく悠奈が言う。満月に近づく月の光は、十分にあたりを照らしている、ということらしい。この村の子どもたちは、確かに夜道にも慣れているけれど、そういうことじゃないと言いたげな隆道の横で、李橙も慣れた調子で悠奈の後を追いかける。
「そういえば、治五郎の爺様はどうやったん?」
「じいさん?」
「スミが爺様に会うのも久しぶりやったろ?」
「ああ」
李橙の言葉に、隆道が得心したように声をあげる。そういえば、昼に澄治と治五郎を二人きりにしてから、李橙は悠奈と稽古場に籠ったままだった。あの家は基本的に言葉が足らないから、というのが、隆道と李橙の共通の見解である。
「俺らも様子を伺っとったけど、梅の兄貴に呼び出されてからは何があったかは知らんで」
「梅の兄さん?」
「せっかくの一斉稽古やし、ハルカにも色々見させた方がええやろって」
「あー、回ってたんか」
「そうや」
梅というのは、彼らの二代上の兄貴分である。祭りに向けて、舞方同様、笛や太鼓などの稽古も行われてた。それらを遙と隆道は回っていたらしい。
「それで、ハルカはあそこにいたの?」
前から二人の話を盗み聞いていたらしい悠奈が口をはさむ。
「あそこって?」
「稽古場で、笛方がいるところにおったから」
そういえば、と李橙も思い出す。稽古場にやってきた遙が、迷わず向かった先は、確かに舞台からは離れた場所だった。
「賢い子やなー」
「えへへ」
横から頭を撫でられて嬉しそうに遙が声をあげる。その様子に、優しい顔を向けつつも、隆道が口を開いた。
「あそこの家は相変わらず言葉が足りんで、居心地悪そうやったけどな」
「ん? まあそやろなー」
「近く、外が荒れそうやって」
「……そか」
隆道の一言に、李橙は真面目な顔になる。遙が隆道を伺うように見上げるが、隆道は軽く首を振るだけだった。
「それで、治五郎じいが帰って来たの?」
「まあ、そう考えるんが普通やろな」
「そっか」
悠奈もまた、振り返りもせずに言う。子どもたちも子どもながらに、知っていることは多い。外で忙しくなるなら、次の祭りが終わったら、中も忙しなくなるだろう。治五郎も他に大人を何人か連れて、外に出るに違いない。
「じゃあ、今のうちにたらふく食べておかないとだ」
悠奈の言葉に、「そうやな」と李橙が頷く。
「姉さんたちが帰ってこんかったら、次はうちらの代やもんな」
「ほんであの舞か」
隆道が得心したとばかりに呟いた。村は信仰を中心に成り立っている。神仏を祀り、神仏に守られて暮らしているのだ。そのために、祭りは欠かさず、村に残ったものが執り行うことになっている。それが、いつかに定められたこの村の掟の一つだ。
李橙が悪い顔をして、悠奈に耳打ちする。
「綺麗やゆうとったで」
「嘘でしょ!?」
「嘘や」
思わず振り返った悠奈に、間髪入れず、隆道がばっさりと切り伏せる。
「嘘なんかい!」
「そらそうやろ」
遠かった火が、随分迫って来た。隆道は事もなげに、ポコポコと殴ろうとする悠奈の手を交わして、颯爽と家のある方へ足を進める。李橙もケラケラと笑いを零しながら、それについていく。悠奈はその様子に敵わないと察して、目一杯頬を膨らませてから、三人を追い抜いていった。そのままの勢いで、家々の間を飛びぬけていく。
「やっぱ猿やな」
「いんや、鬼子よ。うちらの代のミコサマは」
「……そうやな」
楽しそうな声、美味しそうな香りに交じって、炎がじり、と燃える音が風に流れて消えた。