第2話「望月 葵斗くん、何なのですか? 変態ですか?」
「葉緩も、おはよう」
「おおおおはようございます!」
松前 桐哉はくノ一・葉緩の主人であり、もっとも敬意を払う相手だ。
柚姫と並ぶと尊すぎて葉緩はバグを起こしてしまい、目を回して慌てふためいてしまう。
頬を薄紅色に染める姿はまさに恋する乙女……に見えるが、実態は変態的な忠犬精神だ。
この瞬間が葉緩にとって、至高の時である。
「それでは授業が始まりますので失礼します!」
それゆえか、桐哉に挨拶されると葉緩は声を裏返らせて暴走してしまう。
こればかりは何年経っても慣れるものではなく、目をグルグルとさせながら弾丸のように飛び出した。
桐哉と柚姫は困り果てた様子で目を合わせ、強張った笑顔で肩を落とす。
「一限目って数学だよね?」
その質問には二つの意味が含まれる。
一つは葉緩の苦手教科・数学であり、繋がって二つ目は教室での授業に逆らって遠ざかっていくこと。
調子よく数学からも逃げ出している構造となっていた。
***
逃亡者・葉緩は誰もいない廊下の白い壁に張りつき、胸をなでおろす。
(あー危なかったです! またこうべを垂れてしまうところでした!)
四ツ井家の者にはそれぞれ魂の主がいる。
出会った瞬間にわかるものらしく、葉緩にも主がいた。
「桐哉くんにはもっと積極的になってもらいたいですね」
従者にしては上から目線の言葉であるが、桐哉の幸せを願うからこその想い。
葉緩にとって桐哉は主であり友人と、代えがたい特別な人だ。
お務めの一環として桐哉が柚姫に恋心を抱いていることもばっちり把握済み。
柚姫も桐哉を好いているのは間違いなく、あとは些細な後押しで二人は将来伴侶になると確信をもっていた。
(夫婦ですよ? このくノ一・葉緩、そんな日を迎えられるならばその日に殉職してしまいます!)
桐哉と柚姫が会話するのを眺めているときだ。
二人は両片思い状態で、ろくに目を合わせることも出来ない距離感にいる。
――実にうぶ。
そのじれったささえ愛おしいと、葉緩の口角は上がりっぱなしだ。
葉緩と桐哉は中学から縁があり、今も仲良くしてもらっている。
桐哉は友情ととらえてくれているだろうが、葉緩には永遠に忠誠を誓う主。
結ばれてほしいと願うこの想いは、ただの心ではなく葉緩の存在意義、お務めだ。
(いやぁ、主と姫は最高の夫婦ですな。二人の想いが一つになれば……ぐふっ、葉緩は幸せでございます)
桐哉は初対面の時から女子にモテていたが、恋愛にはまったく興味なしの堅物くんであった。
あまりに岩な価値観に頭が痛くなったが、高校生になってその頑固さはようやく崩れてくれた。
運命の人・柚姫が現れ、ガチガチになりながらも大きな一歩を踏み出した。
二年生になって、同じクラスとなり距離が縮まりつつある。
柚姫には特定の友達がいなかったようで、葉緩はクラスメイトになったことを好機ととらえた。
間近で眺める二人の恋物語に、葉緩は壁と一体化して応援することを決めたのだが……。
「葉緩だ、おはよ……」
「はわぁ?」
壁に密着していた葉緩に気配を感じさせずに迫ったのは、ここ最近の葉緩にとって最大の悩みの元凶。
高校二年生になって転校してきたクラスメイトの望月 葵斗だ。
さらさらの黒髪は光に当たると青みが透けて見える。
それくらい細くて絹のような美しさだ。
普段は眠そうに見えるが、前髪で隠れているだけで目はスッとした切れ長。
それに気づいている人はそういない。
なぜ、葉緩が気づいているのか。理由は現状の至近距離が日常茶飯事だから。
(この人は一体何なのです? 影の中の影である私が見つかるのはなぜーっ?)
拳をわなわな震わせても、一向に葉緩は葵斗の腕から抜け出せず、毎日悩まされていた。
最初こそ桐哉は驚いて怒ってくれたが、今はもう見慣れた光景のため、駆けつけてはしても手を差しだしてはくれない。
「葉緩。一時間目、数学。どうする?」
「ひぃっ? い、今は望月くんに捕まってしまい……」
「うーん。だって、葵斗。離してあげたら?」
「やだ」
「やだって……」
呆れた様子で桐哉は頭をかき、伺いの眼差しを追いついた柚姫に向ける。
ハッキリ言えない桐哉に柚姫は思い悩みつつ、葵斗を一瞥してから葉緩と視線を合わせた。
「葉緩ちゃん。数学から逃げちゃダメだよ?」
「ひっ……ひめぇ……」
「望月くん。葉緩ちゃんを離してあげて?」
「……わかった」
「んっ……ちょっと! どこ触ってるんですかー?」
柚姫のお願いに了承して離れてくれるかと思えば、耳元に鼻先が触れて大きな手のひらがお腹のあたりを撫でてきた。
コイツは出会ったばかりの葉緩に遠慮なくセクハラしてくるド変態だ。
「ぎゃーっ? お腹? 変態! 変態ですよ望月くん?」
「大丈夫。すぐに良くなる」
「うええええん! 意味がわからないですぅ! 助けて姫えぇぇぇええ!」
葉緩にとって桐哉と柚姫は大切な主人に値する人だが、決定的な違いがある。
それは忍びの性なのだろうが、男性には仕える認識で女性は守るという考えだ。
その分、女性とは心の距離も近くなりやすく、桐哉には求めることのできない救済を柚姫には涙目で訴えてしまう性があった。
パッと葵斗が葉緩を離してくれると、鼻水を垂らしそうになりながら柚姫に抱きついて逃亡を図る。
よしよし、と最初こそ母性に満ちた受け止め方をしてくれたが、だんだんと柚姫は健全にことを進めようとした。
「さ、葉緩ちゃん。授業、はじまっちゃう」
「あああああっ! 姫ぇ! ご勘弁~っ!」
ポワポワしているようで柚姫は手厳しい。
数学は毛が逆立つほど嫌いだが、柚姫から力尽く逃げることも出来ず、廊下を引きずられていった。
こんな日々が続いており、平穏ではあるが葵斗の存在だけが歪。
普通、出会って数日の女子生徒にべたべた触る男子はいない。
どう考えてもおかしいのに、誰も当たり前として受け入れているあたりがもっと怪しい。
望月 葵斗とは、気配が探れないだけではない何かがあると、葉緩は気を張りつめていた。
(根端はいったい……! と、その前に)
数学との戦いから終わらせなくてはならず、葉緩はゲッソリしながら授業を受けた。