よくある話。氷雨と銀竹
どうしてこうなったのか。
その問いかけに対してこんな言葉がある。
事実は小説より奇なり、と。
「いや、単にお前が料理下手くそなだけだろ」
かっこつけようとするなと冷ややかな目を向ける銀竹。氷雨はゆっくりと微笑むと「今度は笑って誤魔化すな」と頭にチョップが落ちた。
柔らかそうな栗色の髪に華奢な細淵メガネ。
誰に対しても丁寧な口調を使い優しい先輩のお手本と称されている氷雨の微笑みも、従兄弟の銀竹からしてみれば都合の悪いことを誤魔化して逃げようとしているだけだ。今も炭と化したナニカに水をかけて「で?」と氷雨に向き直る。
「一体、何を作っていたんだ」
「この『プロから学ぶスイーツ作り』にあるシフォンケーキを」
「不器用なメシマズアレンジャーが無謀にもほどがある。大体なぁ、俺がキッチンに入らなかったら火災警報器鳴らすところだったんだぞ。解ってるのか?」
銀竹が氷雨の家に来たのは、借りていた本を返すため。前もって氷雨がいることを確認してあったのにインターホンを鳴らしても応答がなく、それなのに鍵は開いていたので声をかけてから入ってみれば、キッチンから氷雨が飛び出してきたのだ。
焦り具合からピンときた銀竹は、立ちはだかる氷雨をすり抜けてキッチンに向かったところ見えたのは煙が上がっているオーブン。一瞬で状況を理解した銀竹は、プラグを抜いてシンクにオーブンの中身を出して水をかけるまでの流れを僅か3秒で行うと、氷雨に向き直って冒頭に戻る。
どうしてこうなったのか。
「氷雨がスイーツ好きなのは知っているけど、食べる専門だろ。何で作ろうと思ったんだ」
甘いものに目がない氷雨は、橙南もしくは遼を誘ってよくスイーツ巡りをしている。いつも一緒にいる銀竹がそこに入っていないのは、単に銀竹が甘いものが苦手だからだ。なぜ今日はそれをしなかったのかと尋ねると「橙南は金欠、遼は用事があるそうです」とのこと。
なるほどだから今日は家にいたのかと納得した半面、だったらスイーツをテイクアウト…はだめだなと考えをすぐに否定した。
なぜなら氷雨には迷い癖があるから。
道に対して、記憶力なし方向感覚なし帰巣本能なしの重ね技で、誰かと一緒でないとすぐに道を外れてしまい「ここってどこでしょう?」と銀竹に助けを求めるのがここ数年、お決まりのパターンとなっている。
そうなると自分で作るという発想に行きつくのも仕方ないのか。
「(だからってキッチン破壊してもいいわけじゃないけどな)」
炭化した失敗作をゴミ箱に。床やキッチンカウンターに飛び散らかっていた薄力粉や砂糖は掃き集めて(ここでも氷雨は小麦粉の床にウェットシートを使おうとして銀竹の怒りを買った)どこにどう使ったのか赤、青、黄色の食紅やアラザンにカラフルなチョコスプレーとサルミアッキは銀竹の「スポドリの件は反省していないのか」というツッコミと共に戸棚に仕舞いと、銀竹指導の下、どうにか掃除は終えられた。
なんとなく残っている気がする焦げ臭さの対処法をスマホで調べてみると、換気をしながら濡れたタオルを振り回すのがいいらしい。この時、お酢でやると更に効果的らしいが、銀竹にはどうしても振り回したタオルで周囲の物を破壊する氷雨しか思い浮かばない。
「はい、どうぞ」
不意に出されたコーヒーにスマホを操作する手が止まった。
「インスタントコーヒーをスプーン一杯分、お湯に溶かしただけなので味は保証します」
「自信たっぷりに言ってるが、逆にそれで失敗する方が不思議だからな」
そう言って飲んだコーヒーは濃くて、一杯分でも超山盛りだったのが想像できた。ここまでくると逆に才能なんじゃないかと思えてきて、もしそうだったら、なんとまあ使えない才能なんだろう。
お湯を入れて薄める事も考えたが、氷雨の自信を失わせる行為なのと濃いだけで飲めない程ではないのでそのまま飲み続けた。ちなみに氷雨のコーヒーにはミルクと砂糖がたっぷり入っていて、銀竹が飲めるものではない。
「今年の入部者も少なかったですね。東城君と河西さんの二人だけですよ」
「河西ちゃんは女子だしマネージャーだから実質、未来一人だけだろ。でもまあ、中学では全国大会に出ただけあって、この間の練習では立花を負ますほど強いから即戦力で大歓迎だけどさ」
「瀬野君はラリーが続くと段々、雑になってしまう。だからつけこみやすい、つけこまれやすい。知ってます?遼も負けそうになったらしいですよ。先輩の意地でギリギリ勝ったみたいですが」
「先輩の意地っていうのが遼らしいけど、アイツのパワープレーに対抗できるなんてやっぱ強いな」
「ね。流石全国大会経験者。……そんな強い人がなんで蒼夏に入学したんでしょう?だって蒼夏が強かったのは10年以上前の話で、復活させた僕達が言うのもなんですが一度廃部した弱小の無名校ですよ」
「奇遇だな。俺も同じこと考えていた。普通、七雲とかもっと強い所いくよな?」
「聞いたら教えてくれるでしょうか」
「受験失敗して蒼夏にきたとかだったらいけないから止めとけ」
「そうですね。ああ、そうだ河西さんなんですけど…」
いつもなら盛り上がる部活の話題なのに、スイーツ作りに失敗して食べれなかったのが相当ショックだったのか話す氷雨に元気がないのは丸わかりだった。来週は試合があるし、その次の週からはテストが始まるのでスイーツ巡りをするなら今日しかなかったからだろう。
甘いものが苦手な銀竹にはスイーツを食べれなかった氷雨の気持ちに共感することはできないが、こうも目の前で落ち込まれると気になってしまう。
ああ、もう仕方ない。
「キッチン借りるぞ」
「え?」
呆気にとられる氷雨を置いてけぼりにして、銀竹はキッチンに向かう。奇麗になったキッチンカウンターに薄力粉、卵、砂糖、最後に秤を並べるとそれぞれの分量を量りふるいにかけて、オーブンは予熱、そしてトッピングに残していたおかげで無事だった生クリームを泡立ててと手際よく進めていく従兄弟の姿に、氷雨はすっかり見入っていた。
そして数十分後。氷雨が目指していたシフォンケーキができあがった。シフォン型は氷雨が焦げ付かせてだめにしてしまったので型はカップケーキのを使用している。
「本当はバニラエッセンスも入れるんだろうが、俺には匂いが甘すぎて酔いそうだから入れなかった。そこだけ我慢しろ」
銀竹はレシピ通りに作らなかったことを詫びたが、スプーンで突いただけで解るふわふわの生地の中には生クリームがたっぷりと詰め込まれていて、焦げではない奇麗な焼き目には粉砂糖によるシンプルなデコレーション。一口食べたらそのクオリティの高さの前には、バニラエッセンスの有無など問題ではなかった。
同じ材料、調理器具を使ってこうも自分と違うものが作れるとは。
「うーん、どうしたらこうなるのか。不思議すぎます」
「氷雨が不器用でアレンジャーなだけだろ。俺はレシピ通りにしか作ってねーよ」
「いえ、銀竹そうは言いますがそれだけじゃないと思いますが…」
腑に落ちなくてもケーキを食べる手は止まらない。
余談ではあるが、銀竹が氷雨にスイーツを作ったのはこれが初めてではない。自分は食べないのに、なぜか作る度に腕を上がっているので、最初に氷雨が見せた『プロから学ぶスイーツ作り』に掲載されているレシピも難なく作ってみせる。
それもまた氷雨が不思議に感じる所だった。
「ねえ、銀竹」
「あ?」
「今度はレモンケーキ作ってくれません?」
「はっはっは。調子に乗るな」