春
かなり昔に書いた作品ですので、深く考えずに読んで頂けると助かります。
バタンと閉じた車の扉を無言で見つめ、動き出した車の窓に額をくっつける。
「すまないな、飛鳥。」
運転席で申し訳なさそうな表情を浮かべる父親に大丈夫だと答えて、流れていく住み慣れた町を眺めていた。
飛鳥の父親の転勤は突然のことだった。転勤のため引っ越すことになり、引っ越しの準備のせいで最近は今までにないほど慌ただしく時が過ぎたような気もする。
引っ越すことによっての別れで淋しさは感じるものの、父親にとってもやむを得ない事なため飛鳥は素直にそれを受け入れた。はじめは文句の一つや二人でも言ってやろうとは思っていたが、父親の申し訳なさそうな顔と少し疲れたような表情に何も言えなくなってしまったのだ。
(…壱、怒るだろうなぁ。)
自分が引っ越すことはいなくなる日までは皆には黙っていてくれと担任にお願いしたから、皆には多分今頃知らされているところだろう。一番仲の良かった親友ともいえる壱や他の仲の良かった奴らはきっとなんで黙っていたんだと怒るだろう。決まった日からいままでそんなそぶり、一度も見せなかったのだから。
「…転校、かぁ。」
うまくやれる自信など、ない。
いつも内気な飛鳥を引っ張り皆の輪の中に入れてくれたのは紛れも無く壱のおかげで、壱がいてくれたからこそ飛鳥は楽しい毎日を過ごせていた。だけれど、転校先にはもちろんのこと壱はいない。
「本当にすまない、飛鳥。」
何度目かわからなくなってしまった父親の謝罪に、飛鳥は苦笑を浮かべた。
「…しょうがないよ。仕事なんだからさ」
そうは言ったがそれは父親向けての言葉でもあり、自分へと言い聞かせるための言葉でもあった。
「しょうがない」という言葉一つでで簡単に終わらせられるわけも、納得できるわけでももないが、今の飛鳥にはそう言って我慢するしかなかった。
どうやっても、変わらない事実であることは確かなのだから。
(全部、夢ならいいのに…。)
転勤も転校も引っ越しも、なにもかも夢だったのならどれだけよかっただろうかと、飛鳥は小さく溜息をはいて重くなってきた瞼を閉じた。
大きく息を吸い込めば都会では感じられないような清々しい空気が肺へとおくられ、瞼を閉じて周りの音に意識を傾ければ風が木々を揺らしざわめく音や、鳥や虫たちの鳴き声。遠くのほうからは風にのり子供たちが賑やかに遊ぶ声までをも感じることができた。
都会にあった人々のざわめきや車等の雑音は一切無くて、大自然を全身で感じられる。
「思っていたより、いい場所だな。」
先程よりもいくらか明るい表情に変わっていた父親にそうだねと返事をして、飛鳥は目の前にあるテレビや本でしか見たことのなかった自然に感動していた。
調度桜の咲く季節だからか山の一部は桃色に染まり、桜の花びらが風に吹かれ舞落ちていく光景は思わず息を飲んでしまうほど美しい。
「父さん。ちょっとだけ、散歩してきてもいい?」
笑顔で頷き迷子になるなよと言う父親に大丈夫だと笑って、飛鳥は歩きだした。
知らない場所、知らない道、見たこともない花、見たこともない虫、全てが新鮮に思える光景に自然と飛鳥の歩く速度は速くなる。
(壱にも見せてやりたい。)
きっと壱ならすげぇ!とかヤバイ!なんて叫びながら走り回るだろう。騒ぐのと体を動かすことが好きな壱はいつでもクラスのムードメイカーで、いつでも皆に好かれていたから。
「――坊や。何してるのかねェ?」
急に聞こえた声にビクリと震え立ち止まる。恐る恐る声のした方向を向けば薄桃色の着物を着た黒髪の女性がいて飛鳥は少しだけ安堵する。
もしかしたらここは入ってはいけない場所だったのかもしれないと、謝ろうと口を開こうとした瞬間に
空間が、歪んだ。
「…いけないねェ」
感情のこもっていない声でそう聞こえたと思ったときにはもう、飛鳥は立っていることもできずに地面に倒れ込み、意識は闇深くへと落ちていってしまった。
「いけないねェ…本当に。わっちの責任になっちまうのかねェ?」
何もなかったかのようにその女性一人がその場に残り、飛鳥の姿は何処にもなくなっていた。
「―い、――おい、」
浮上する意識の中で聞こえてきた声に飛鳥はぼんやりとしたままの思考で「なに?」と返事を返す。まだ眠いから寝ていたい。今日は学校はないはずだから何か用でもあるんだろうか?
「お前、なんでこんなとこにいんだい?」
こんなとこ?何を言っているんだろうか、ここは自分の部屋じゃ…、と考えたところで変な女性に出会って自分が気絶してしまったことを思い出す。
「うわ!急に起き上がるなよ!」
バッと勢いよく上半身を起こして辺りを確認すれば先程いた森のような場所ではなくただ地面があるだけの場所で、横へと視線を向ければ見たこともない姿をしたモノが、いた。
「大丈夫かぁ?お前、ここに倒れてたんだけどよー、おれっちの体は小さいから運べなくて困ってたんだい」
ぴょこぴょこと跳びはねてそう言った「それ」
赤くて爛々としている目は吊り上がっていて、ニィと笑った口元からは鋭く尖った歯が突き出ている。体長が50センチくらいしかない「それ」の全身は表現しにくい色合いで、強いていうのなら濁った水のような緑色に近い色。
(な、何?コイツ)
動物のみたいなのに言葉を話して、意識疎通ができる不思議な生き物。否、本当に生きているものなのかもわからないが。
「だ、大丈夫…です。…君は、な、何なの…?」
何とか返事をしてそう尋ねれば「それ」はハァ?と呆れたような表情を浮かべ口を開く。
「おれっちを知らないなんて…、お前どんな田舎から来たんだい?…見た目も非力なアイツらに似てるし、何より臭い。アイツらの世界で生きてたみたいだねぃ。」
「これ」が口にする「アイツら」とか「臭い」とか「アイツらの世界」とは何だろうか?それに田舎から来たってことはこっちのほうが都会なの?それに「これ」を知らないとおかしいなんて聞いたことない。
(…もしかして、ここが「あの世」なのかな…?)
あの女性に会って何かしらの出来事があって死んでしまって、それであの世について、「これ」は実はあの世の番人とかだったりするのかもしれない。
そう考えたとしても、喋っていることは理解のできない事ばかりなのだが。
「ま、いいか。おれっちはヤマキっていうんだい。お前は?」
やはり聞いたこともない「それ」の名前に戸惑いながらも、飛鳥は恐る恐る口を開いた。
「飛鳥、です。」
ヤマキは飛鳥の名前を聞いて何か考えるような仕種をした後、ニィとまた笑って手を差し出してくる。
「アスカだねぃ。ここで会ったのも何かの縁だい!よろしくな」
差し出された手をとってヤマキと握手をした飛鳥は「こちらこそ」と苦笑気味に答えた。
「――おや、ヤマキと会っちまったのかい」
急に聞こえた声に振り向けばそこには気絶する前に出会った女性がいて、飛鳥は目を見開いて驚く。そんな飛鳥とは真逆にヤマキはその女性を見てぴょこぴょこと跳ね、興奮気味に女性へと近づく。
「スイじゃねーか!久しぶりだねぃ!どうしたんだい?」
ヤマキのあまりの変わり様にも驚きながら、飛鳥は「スイ」と呼ばれた女性へと視線を向け観察する。薄桃色の着物で黒く長い髪は頭の高いところで結ばれ簪で留められていて、気絶する前は気づかなかったが瞳の色は深い碧色をしている。
赤い口紅は女性の色気を引き立てていて、口元を上げる動作にドキリと心臓が高鳴り自然と頬がほてった。
「いやねェ、ちょっと「お客」を迎えに来たんだよ。ねぇ?坊や」
チラリ、と流し目でこちらを見る女性に違う意味で心臓が跳ねる。ほてっていた頬とは逆に今はきっと真っ青になっているに違いない。
「客?坊や?アスカに用でもあるのかい?」
首を傾げて不思議そうに言うヤマキに女性はニヤリと笑い飛鳥の顎を掴んでクイッとあげた。
「そう、迷子になったこの坊やを迎えに来たのさ。これ以上「迷子」になってもらっちゃ困るんでねェ」
キスができてしまうくらい間近にある女性の顔に飛鳥は赤くなったり青くなったりととても忙しい。女性はそれを見てクスクスと笑っているが、ヤマキは状況を理解できず、二人の様子を不思議そうに見ている。
「あ、あの…。ここは何処なんですか?」
そうこうしてる間に飛鳥は少しは落ち着いたのか、女性の手からそっと逃げて距離をとり、そう尋ねた。
ニヤリ、とまた女性が笑う。
「それはわっちが後でじっくり教えてあげるからねェ、とりあえず、ついておいで?」
おれっちは仲間外れか!と叫ぶヤマキをあしらい女性は歩きはじめた。その様子に困惑する飛鳥を振り返り見ることなく急かしてその女性はヤマキを無視したまま歩き続ける。
飛鳥は落ち込むヤマキと女性を交互に見て躊躇いながら、結局見えなくなっていく女性へと向かって行った。
息苦しい。今の飛鳥の頭の中はそれだけで、前を風を切るように走る女性に置いていかれないようにすることだけに必死だった。
「大丈夫かい?坊や。もう少しだと思うからしっかりついて来るんだよ」
ヤマキが見えなくなってすぐに走り出した女性に、意味を理解する間も考える間もなくただついて行くしかできず、飛鳥は必死に森の中を走る。
息は切れ足はもつれ体力も底をつくギリギリだ。
「――ここなら、大丈夫かねェ」
やっと止まったのは小さな湖のほとりで、女性はいつの間に取り出したのか煙管をくわえていた。
「…あ、の…!」
うまく酸素を取り込むことができずに咳込み、なんとか言葉を吐き出す。
心臓が急激な運動のせいではやくなっているのを感じながら飛鳥は女性へと視線を向けた。
「坊やが聞きたいことならわかってるよ。この場所のことと、わっちのこと。それに今の状況だろう?」
女性の質問に頷くことで肯定して飛鳥は息を整える。
深呼吸を数回した後に、やっと顔をあげた飛鳥は女性へと真っ直ぐに視線をむけた。
「…いったい…何が起こっているんですか…?」
飛鳥の質問に女性は目をふせ軽く笑う。
「まずは自己紹介が先かねェ。わっちは睡蓮、坊やは確かアスカって呼ばれてたねェ。…ここは魔魅ノ国って言ってねェ、坊やみたいな「ヒト」とは違う奴らが山ほどいる世界なんだよ。普段は「ヒト」とわっちみたいなのが関わらないようにできてるんだが…「開い」たせいで坊やが巻き込まれちまったみたいだ。」
煙管をくわえなおし、溜息をはいた睡蓮に飛鳥はただ呆然とする。予想外すぎる出来事に頭がついていけなかった。
「坊やが会ったのがアホでマヌケなヤマキでよかったよ。普通、わっちみたいなのは「ヒト」が嫌いだからすぐに殺しちまう。…まぁ、わっちは気にしない質だから坊やを殺そうなんて思わないがねェ。」
ブルリと体が震える。もしかしたら本当に死んでいたのかもしれないなんて。だけれどまだ死ぬという可能性が消えていないわけでもないから油断はできない。
それと同時に、どうしてヤマキが自分のことを「有名」だと言ったのかを理解できた。アホでマヌケ、と評されるくらいなら悪い意味でヤマキは有名なのだろう。…本人は気づいていないようだが。
「…ぼ、く…。帰れないの…?」
その質問に睡蓮はキョトンとした表情を浮かべた。何故、そんな答えにいきついたのか。睡蓮は迎えに来たと飛鳥に言った。それはもちろん元の場所に戻すため。
「坊やもヤマキに劣らずのマヌケだねェ…、わっちが何のためにわざわざ隠れてたい時期にこっちに戻って来たと思ってんだい?坊やをあっちに返すためだよ?」
今度は飛鳥がキョトンとする番だった。そして先程までの会話を思い出し、睡蓮の言葉を今更ながら理解して羞恥から顔を赤くする。
「あ、そ、す、すすすみませんッ!」
バッと頭を下げ謝りはじめた飛鳥に睡蓮はクスクスと笑う。からかうと楽しそうな坊やだねェ。睡蓮がそんなことを思っているなど露知らず、飛鳥はペコペコと謝り続ける。
「まぁ気になんてしなくていいよ。それより、他の奴らに見つかる前に戻らないと、今度こそ危ないからねェ。」
風が変わってる。
小さくそう呟いた睡蓮の言葉を飛鳥は聞き取ることができなかった。だから、気づけなかったのかもしれない。
「…ほら、また少し歩くから頑張りな。」
微笑んで歩きだした睡蓮を飛鳥は慌てて追いかけた。
ふわりふわりと桜の花びらが舞い落ちる。何処までも続いている桜並木は視界一面を薄桃色に染め、優しい空気で飛鳥を包みこんでいた。
睡蓮やヤマキが言う「飛鳥の世界」では決してこんなに素晴らしい光景は見れなかったことだろう。
父親と別れたあの場所もそうだが、壱だったらこの光景を見てどう思うだろうか?
(…壱……会いたい)
弱虫な自分を引っ張ってくれて、泣いている自分を慰めてくれて、いつも一緒に笑ったり怒ったりしていた大切な親友。
ずっと一緒だと思っていたのに、別れは突然にやってきてしまった。
「坊や、ついたよ」
ぼーっとしていた飛鳥は睡蓮の言葉にハッとして、顔を上げる。立ち止まりこちらを向いている睡蓮は不思議そうに飛鳥を見て首を傾げた。
「どうかしたのかい?」
なんでもない。と苦笑して飛鳥は睡蓮の横にある大きな桜の木へと視線を移す。
歩いてきた道にあった木とは比較できないくらいに大きなその木は、堂々たる様を見せつけており、その美しさは言葉で表すことなどできない。
「ここが、出入り口だよ」
滅多に使わないけどねェ。と言って木の幹を睡蓮は撫でる。
見たことがないほどの大きさと美しさ以外はとくに変わった様子のないその木が出入り口だと聞き、飛鳥は僅かに困惑した。
出入り口だとしても、どうやって元の世界に戻るのだろうか?
「坊や、迷っちまったら元には戻れやしない。――飛鳥が飛鳥らしい答えを導きだせば自ずと道は開くもんなのさ。」
訳もわからない言葉なのに、何故か体は勝手に動き出し、自然と桜の木の前に立っていた。
ザワザワと揺れ花びらが散りゆく姿に心が揺れる。
「…ねぇ、睡蓮さん」
また、会える?
「……さぁねェ」
突然吹いた風とともに、飛鳥の姿は何処にもなくなっていた。
誰もいなくなった桜の木に寄り掛かり、睡蓮は煙管をまたくわえる。
久しぶりに少し楽しかったかもしれないと思いながら、消えてしまった飛鳥のあの最後の笑顔が頭に浮かべ、ふわりと笑う。
最初に会ったときは気づけなかったが、名前を聞いて気づくことができた。
「…元気に、生きてくれてたみたいだねェ」
飛鳥、と睡蓮は小さく呟く。
睡蓮は昔、一度だけ飛鳥に会ったことがある。
きっと飛鳥は覚えてなどいないだろうが、睡蓮は飛鳥のおかげで助かった。だからこそ、気づいていなかったがあの場所で会えたことにも驚き、魔魅ノ国に来てしまったことに戸惑った。
魔魅ノ国の春は、危ない。
町外れに住んでいるヤマキならまだしも、町に住んでいる奴らや、普通のモノ達よりも危険な奴らに出会ってしまっていたら、間違いなく飛鳥は死んでいた。
魔魅ノ国の「春」には麻薬のようなものを含んだ香を漂わせる花が咲きはじめる。
それのせいで「春」になると弱い奴らや、戦いが嫌いな奴らはヒトの世界へとしばしの間逃げ「春」が終わるのを待つのだ。
「――ウヒャッヒャヒャ!」
そんな時期に誤って来てしまった飛鳥を確実に、怪我をすることなく穏便に元の世界へと戻す必要があった。
自らの恩人を見殺しにするほど睡蓮は薄情でもないし、「開いた」時に一緒にいた自分にも少なからず責任はあるのだから。
「…わっちは面倒なことが嫌いなんだがねェ」
着物の袖から扇子を取り出して、睡蓮は現れたモノへと振りかざす。
飛鳥の匂いを嗅ぎ付け、この森にまで侵入し追いかけて来たモノを飛鳥に気づかれず撒くのは多少手間取った。
「……また、会いたいねェ」
今度は春ではなく、秋や冬にでも。
扉ごしに聞こえてきた声に返事を返して、布団からはい出る。
着替えてリビングに行けばパンに目玉焼きと相変わらず変化も進歩もない朝食が準備してあった。
「おはよう父さん。」
それでも父親が作ってくれた物で、作ってもらっている立場なのだから文句など言わない。
「おはよう。準備は終わっているのか?」
引っ越してから約2年の時が流れ、不安で仕方なかった新しい学校生活は優しい友人ができて楽しい充実したものになり、たまに森で会う睡蓮にくだらない日常生活を話したりもするようになった。
そんな生活も、後少しで終わる。
2年前と同じく、父親の転勤が決まった。それも、壱のいる元の町へと。
「できてるよ」
再会できる喜びと、離れてしまう寂しさがむず痒い。
また来ればいいと思うのに、滅多に来れる場所でもないということがわかっているから、少しだけ引っ越し躊躇うような気持ちがある。
だけれど、親友の壱にいきなりいなくなってしまったことの謝罪と、今まであったことの話を沢山したい。
「…飛鳥には、迷惑ばかりだな」
もう見慣れてしまった父親のすまなそうな表情に苦笑して、パンを一口かじった。
「気にしないでよ。これも経験、でしょ?」
ありがとう、と言う父親にまた苦笑して、もう会えなくなる睡蓮を頭に思い浮かべる。
(…ありがとう、睡蓮)
気にするな、と睡蓮が言って笑った気がした。
「――飛鳥!」
久しぶりに聞く親友の声に、泣きそうになりながらも飛鳥は手を振ってかけだす。
「壱!」
記憶にある姿よりも大人っぽくなっているのにそのままな壱に、飛鳥は少しだけ嬉しくなった