その日私は神に出会った
日本人は勤勉です。黒い髪におうとつのあまりない顔立ちは、30年前はあまり見ませんでしたが、ここ10年で当たり前のように何人ものスタッフを連れて大会にくるようになりました。そのたびに、選手の状態がどうの、氷の様子がどうのとあれこれ話しています。
目の前にいる、癖の無い黒髪の彼女も、スポーツライターとして様々な試合で見かけます。顔をあわせると必ず彼女は私に話をかけてくれます。こんにちわアレーナ、おかわりないようで何よりです、と。彼女は日本にフィギュアスケートブームが来る前から、大会の取材を重ねていました。そして辛抱強くフィギュアの魅力を伝えてきていました。
「……それではチャイコフスカヤコーチ、最近の男子シングルの流れについてどう思われますか?」
イチコ・ムラカミという日本人記者からインタビューを受けるのは、これが初めてではありません。今回彼女から取材をしたいと連絡を受けたのは、二ヶ月前でした。日本人が勤勉で真面目だと思うのは、こういうところです。いきなり私の所属リンクのオフィスにやってきて「今日アレーナ・チャイコフスカヤのインタビューできる?」と訪ねる無粋さがないのです。今回のテーマは、主に、「2016−−2017シーズンの展望」と「昨今の男子シングルの四回転について」。
「イズモ・カンバラは素晴らしいですね。オリンピックチャンピオンになった選手は、だいたいそのシーズンで引退してしまいますが、彼は前に進むことを厭わない。それでいて唯一無二の表現を持っている。根っからのアスリートですが、素晴らしいアーティスト。我が国の選手も見習って欲しいですよ。皆、打倒カンバラを目指していることでしょう。その辺りは、去年とはかわりませんね」
「打倒カンバラ、というと、複数種類のクワドラプルは必須であると?」
「ええ。ですがそれだけではありません。彼の素晴らしいところは、トータルパッケージに優れているところです。ジャンプだけが優れていたら、世界最高得点なんて出ていませんよ」
「……そういったところからか、最近はあなたの教え子を含めて、複数種類のクワドを武器にする選手が増えてきましたね」
「そうですね。ルーティカは素晴らしいジャンパーです。」
私は一旦言葉を切り、ジャムを入れた紅茶に口をつけます。ジャムはアプリコット。紅茶はアールグレイ。
「チャイナのチャン・ロン。アメリカのネイトやジェイミーも素晴らしい四回転の持ち主です。それにカナダのアーサー。彼の父は私の教え子なんですよ。ペアのウラジーミル・コランスキー。まさか彼の息子がシングル選手になって、あれだけのジャンプを飛ぶとは思っていませんでした。ペア転向の噂もありますが、そうなったとしても彼は才能を発揮するでしょう。優秀なジャンパーでもうひとりあげなくてはならないのは、日本のテツヤ・アイカワです」
イチコは少し意外そうな顔をします。……たしかに彼はハードジャンパーではありません。若いのに綺麗なスケートとエッジワークの持ち主ですから、そちらの方に目がいくのでしょう。
「彼はルッツは少し苦手ですが、それ以外は癖の無い、綺麗なジャンプを飛びます。特に、テイクオフからライディングまでの流れの美しさは真似できるものではありません。今はサルコウの一種類だけですが、彼がもう1、2種類四回転を習得したら、今期の展望はだいぶ変わってくるでしょう」
「彼はあなたの弟子と、2回世界ジュニアのタイトルを争いましたね。その時から、わかっていたのですか?」
「ええ」
彼女から見て、私がどう笑ったのかはわかりません。それでも確信はありました。これはオフレコで、とイチコに伝えました。
「あの子が、私のアンドレイの最大のライバルになるでしょう」
……アンドレイが戴冠した2015年の世界ジュニア。あの時のテツヤの演技は素晴らしいものでした。ですが私の可愛い教え子は、その一年前から彼を認めていたのです。それを聞いたらテツヤは驚くでしょう。転倒が2回あれば、あまり良い思い出としては残らないでしょうからね。ーー彼は誰? あんなに失敗したのに、どうしてあんなに演技が綺麗なの? どうして優勝したのに、あんなに悔しそうにしてるの? 大会のあと、私に質問責めをしたのを忘れられません。その時のアンドレイにとって、テツヤは宇宙人に見えたことでしょう。表彰台の一番上で唇を一文字に引きむすんでいる少年。握手をした時、テツヤはたしかにアンドレイを睨んでいました。力強い光で。もう二度と負けないというように。
……彼は僕を見てくれるのかな。
その瞳が、アンドレイも忘れられなかったのでしょう。彼は珍しくそう呟いたのです。
思い出せば、アンドレイが一年雲隠れしてクワドを練習したのは、テツヤの存在が大きいのかもしれません。もっと彼に、自分を見てほしい。自分のジャンプを見てほしい。そう思ったからかもしれません。もちろん、私は彼ではないのでその辺りは想像でしかないのですが。
その後も彼女との話は続きました。その間に、私はアールグレイを、イチコはカフェオレをそれぞれ2回づつ注文しました。私も彼女も、話すと長くなるタイプでした。気がつけば、3時間を超えていたのです。今は8月。5時をすぎても、外はとても明るく活気があります。
「最後に、一つ伺ってもいいでしょうか?」
「ええ」
「あなたは今まで、様々な選手を育て上げてきました。その中には、オリンピックチャンピオンだっているはずです。そんなあなたにとって、アンドレイ・ヴォルコフはどんな存在ですか? どこで出会ったのですか?」
私は一瞬、笑顔のまま凍りつきました。この質問は初めてではありません。私はそのたびに、「視察で行った地方のリンクで見出した」とだけ答えてきました。その一言だけで済ませてきたのです。
「私にとってあの子は……。」
話したくないこともあれば、話せないこともある。そういえばイチコはわかってくれるでしょう。ですが、あまり話したくはありません。
私たちの始まりは、ドラマティックなもののようでとても普遍的でした。……ある一点を除けば。思い出されるのはシベリア。視察目的でリンクに行ったというのは本当です。隣には教会がありました。もちろん、ロシア正教です。娯楽の少ない町で、整備されていないぼこぼこのリンクは子供たちの格好の遊びの場でした。そのなかで。
誰とも話さず、誰とも交わらず、たったひとりで氷の上に座る男の子。
ーーあの子は誰ですか? その問いは無粋だと、見た瞬間にわかりました。
目を瞑って私は、頭の片隅に浮かび上がった絵を振り切りました。
「とても才能のある子です。指導できて光栄に思いますよ」
頭を下げました。
私はその日、神に出会ったのだと。
✳︎
インタビュー場所のモスクワ市内のカフェを指定したのは私でした。一度クレムリンで待ち合わせをした後、私の車でカフェに。数年前に新車として購入した日本製のヴィッツですが、少しガタがきたようでした。いろんな方からもっと高級な車にのれと言われますが、車は私にとっては足なので高かろうが安かろうが運転さえ出来ればなんでもいいのです。話を終えて、イチコをホテルまで送りました。彼女は明日、私がコーチングを務めるリンクの取材も行う予定らしいのです。本当に勤勉です。
モスクワ市内に構える庭付きの一軒家。少し瀟洒な作りにしたのは、私の趣味です。ガーデニングはあまり得意ではありませんが、花は大好きです。だから、たまに懇意にしている庭師を呼んで手入れをしてもらっています。
ガレージに車を入れて自宅に入りました。今日は練習を午前中で切り上げたので、彼は家の中にいるはずです。廊下を歩き、ダイニングに。
その姿を見て思わず目尻が垂れました。
「ルーティカ」
可愛い教え子。私の小さい皇帝陛下。
氷の神。
この子がモスクワに来て以来、私たち一緒に暮らしています。理由はいろいろとあるのです。選手と一緒に暮らすのは初めてではありません。コーチングを始めて40年は経っていますので、その間に居候していたアメリカ人や短期で泊まりにきた選手も様々いたのです。……彼よりも長く暮らした選手はおりませんが。
「何を作っているのですか?」
とても珍しいことに、彼がキッチンに立っていました。練習やトレーニング以外、彼は布団の中でぐっすり眠ることが多く、外の世界に興味がないのです。流しの中は荒れ放題でした。ガスコンロに乗る鍋には、よくわからない、緑色のマテリアルが出来上がっていました。
「……グリーンティーラテ。でも、あの時みたいに、美味しくならない」
あの時、とは、六月に日本に行った時のことを言っているのでしょう。手違いで一日早く日本に来てしまったために引き起こされた出来事。あの時のことを、彼は何度も何度も、それは楽しそうに話します。コーヒーショップ。百円ショップ。駅の改札。赤いレンガの雑貨屋に、グリーンティー。空中をぐるぐる回る器械。カモメと潮風が舞い上がるヨコハマの街。目立たないようにと彼女が買ってくれた帽子は、アンドレイのお気に入りになっていました。六月の日本。彼女のおかげで開けた世界が確実にあったのです。ニイガタでのエキシビションではさらに友達が増えたと喜んでいました。
「美味しく作りたいのですか?」
こっくりとアンドレイは頷きます。可愛いです。
「テツヤに飲んでもらいたいから」
「テツヤのことが気になるのですか?」
再び、アンドレイは頷きました。
「今年のロシア杯はテツヤも出場する。……その後に、うちに呼んで、いろいろ話をしたい。だから、その時に出したいんだ」
ミヤビがぼくにしてくれたように、と。
私は彼に、コーチとしてのスケートの技術、保護者としての変わりない愛情をあたえることはできます。ですが、私が逆立ちをしても与えることができないものもあるのです。
……私は感謝してもしきれません。日本でできた初めての友達と、アンドレイがただひとり認めた日本人の男の子。
「ルーティカ、こちらへいらっしゃい」
彼は素直に私のもとにやってきます。私を疑う、ということを彼は知らないのです。そこは少し心配になります。
私はアンドレイの、つるつるの白い頬に触れました。氷のよう、というより、雪のようだと思います。ぼんやりした美しい顔。薔薇色の唇。今は16歳。声変わりをしてもいい歳なのに、まだアルトの音域を出します。
それを私が触れたのは、本当に一瞬でした。
「愛しい私の子。もしあなたに大事だと思う人ができたら、こうしてあげるのですよ」
「どうして?」
「その時にわかります」
ハシバミ色の瞳は全く曇りがありませんでした。私たちの文化圏では本当に習慣や挨拶の一つなので、私がアンドレイにそうするのは珍しくもないからです。
ですがきっと、彼にも違った意味でそうしたいと思うひとが現れるでしょう。彼と彼女が私の小さい神に新しい世界を見せてくれたのですから。
「アレーナ」
なんですか? と目で問うと、彼はグリーンティーラテの味見をしてくれるかどうか聞いてきました。緑色の液体は少し焦げ付いていて、粉とミルクと水が全て分離していました。それでもたしかな甘さが感じられました。テツヤをうちに呼びたいというアンドレイの意思を、私はもちろん尊重します。その時には、このグリーンティーラテはもっと美味たるものになっているでしょう。