2 六蔵の使命 そして異世界へ
栗栖六蔵は、山中の林を早足で進んでいた。獣道さえ無い松林を、城の方角へ向けてただひたすら進んだ。既に息は上がり肺も苦しく、手や顔には無数の擦り傷が付いているが、そんな事には構っていられない。
(一刻も早く殿にお知らせせねば)
六蔵の胸にあるのはただそれみである。
武士である六蔵に課された使命は、手の者によってもたらされた隣の藩が協定を破ったという開戦の企み。それが明日に迫っている事を藩主に知らせる事である。
六蔵の住む藩は山に囲まれた盆地であるため、他藩の襲撃には強い。ただ一箇所、山と山の間の平地を通る街道が、川を挟んだ隣の藩と接している場所がある。
そこには藩主の家臣の城を配して守備をしており、隣の藩からしかけらた小競り合いを何度も撃退してきた。が、今回は相手方の兵の数は千、対してこちらは通常の守備の人数の2百しか居ない。
地の利はこちらにある。藩堺にある山と山の間が狭まっている場所では、大勢の兵が一度に通ることは出来ず、数人づつ相手にするのであれば相手が多勢であっても関係ない。両方の山に弓兵を配し、挟み撃ちにして勢いを削ぐことも出来る。ただ、いくら倒しても、相手が数で押してくればこちら側が疲弊するのは時間の問題だ。時間がかかる程不利になるのは目に見えている。
既に伝令の鷹に文を結わえて飛ばせてはいるが正確を期する為、馬を操ることに長けた六蔵と伊之助が選ばれた。開戦は明日の早朝、今日は既に日の出から数刻過ぎている。気が逸る六蔵は殿宛ての文を懐に入れ、糒と水の入った竹筒の包みをタスキ掛けにすると、愛馬の睦に跨がりすぐに出発した。
街道沿を馬で駆けても藩主の城まで丸一日、それから兵を集め準備をして軍行するとなれば、藩堺に到着まで早くても3日はかかるだろう。焦る六蔵はろくに休みも取らず馬を駆る。共に出立した伊之助は振り返っても姿は見えない。
日暮れ近くなり睦の疲労が激しいのにようやく気付いた六蔵は、スピードを緩めて川へと向かった。馬を降り水を飲ませる。睦の体からはもうもうと湯気が立ち上り、口から泡が出ていた。
「済まぬ睦。無理をさせてしもうたな」
ドクドクと脈打つ睦の首を撫でると、六蔵も川で顔を洗い水を飲む。石に腰掛け糒を戻す間も惜しんで水で流し込む。竹筒に水を補充すると、手ぬぐいで念入りに手を拭き、懐から伝令の文を取り出す。
真っ暗な夜道を行けば睦に怪我をさせかねない。朝まで待とうにも、疲労が濃い睦に無理をさせたら潰れかねない。草を食んでいる睦の手綱に文を結わえ付け鞍の下に入れると、六蔵は愛馬に語りかけた。
「お前は明るくなったら街道を通って城に行け。殿にこの文を届けるのだ。が、無理はするなよ」
睦は賢い馬であると同時に城生まれ。手綱を放せばきっと城に向かってくれると信じているからこその行動だった。
一方六蔵は、夜通し歩いて山を越えて城下に向かうことにした。険しい道程であったとしても、山を迂回する街道より早く到着するはずと考えたからだ。六蔵は睦をひと撫ですると、沈む日を背にして走り出した。
山に分け入り、しばらくして六蔵は自分の愚かさに気が付いた。進行方向にある大木を目印に進んでいたが、日が陰るとすぐにそれは見えなくなった。足元が悪い上、急な斜面を登る工程は思いの外難儀だった。少ししか進まない苛立ちを抑えて、仕方なく朝まで休む事にした。倒木に腰掛け、目を瞑るだけで眠れぬ夜を明かした。
夜明け前、辺りが薄っすら明るくなると六蔵はすぐに出立した。足元が見えるだけでもありがたい。急な登りは木の根をつかんで体を引き上げ、足がかりとなる物を見つけては一歩進む。
そしてようやく見晴らしの良い場所に出ると、比較的緩やかな登りの松林を見つけた。進行方向からそれ程逸れていないので、そこを進むことにした。
松林に入ってからは快調に進んだ。しかし、今度はそれが六蔵の体力を奪うことに繋がってしまった。息は切れ、口の中は鉄の味がした。昨夜眠れなかったのも疲労の原因だった。しかし、六蔵の己の胸にある熱い使命感だけは途切れることは無かった。
ふと、まぶたの裏に明るさを感じた。驚いて目を開けると、寝転んだ体勢の目に、既に真上近くに上った日の光が射し込んだ。
(迂闊にも寝てしもうたのか……)
あたりを見渡すと、そこは朝方まで居た松林ではなかった。見たことも無い広葉樹が密集して、下草は生えておらず、腐葉土が木々の間を埋めていた。
(寝ている間に斜面を滑り落ちてしもうたのか?)
刀が腰にあるのを確認すると、六蔵はとりあえず日のわずかな傾きで方角を定め進むことにした。進行方向の右手から左手にかけて下り坂になっている。本来であれば上りか下りの道行きであるはず。不安に思うも、じっとしている訳にもいかず、先に進むことにした。
どこまでも同じ様な風景が続く中、前方にチョコチョコと動く茶色の物が見えた。良く見ると、人間の子供だった。
この場所が何処なのか是非とも聞かねばと六蔵が足を速めた途端、子供が跳ねるように走り出した。あせった六蔵は全力で追った。
幸い目覚めてから体力は持ち直しており、下に位置する目標を見失うことはなかった。大声で驚かせないように距離を詰める。子供まであとわずかと迫り声を掛けようとした途端、湿った腐葉土で足を滑らせた六蔵。前のめりに転ぶ寸前、目の前に突き出た木の枝につかまった。しかし体が向きを変えただけで止まらず、若木の細い枝は折れ、勢いを殺せないまま後転しながら坂を下り落ちてしまった。
何か硬い物でしたたか背中を打ち、踏みとどまろうと踏ん張った左足首は捻り、両の手のひらは幹に摑まろうとして血まみれになった。しかし六蔵は、武士の威信にかけて無様に寝転がることは良しとしなかった。最後の回転の勢いを殺して右膝を立てると、その上に上体を預け、頭を下げて唇を噛んで痛みを耐えた。その体勢のまま六蔵はしばらく動けなくなった。