14 失敗も経験のうち
この世界の文字は、形は違うがローマ字と同じ形式である。子音の後に母音を付けたものが、ひらがな一文字に対応している。濁音や促音などの表記は日本語と同じである。
あいうえお表の書かれたページを指差しながら、キャロラインは説明した。
「一番右の縦に書いてあるのが母音。横の列が子音を取り替えて母音にくっ付けた字。例えばクリスさんの『く』なら、くーってのばすと最後は『う』になるでしょ、それが母音。『う』の前に別の子音を付けると『う』で終わる別の字が書けるよ。わかるかなぁ」
六蔵は、表をじっと眺めると法則が分かってきた。
「成る程。では『り』は『い』の前に『り』の子音が付いているという事だな」
「さすがクリスさん!理解力抜群!」
「さ程でもない」
と言いながら、六蔵はノートの文字から棒線を伸ばしてなにやらメモをしている。
「それじゃあ読み方を覚えよう」
キャロラインは一文字づつ指差しながら声を出して読んでいく。六蔵は「いろはにほへと」でかなを覚えた為順番こそ戸惑ったが、規則性が有る分覚えやすいと感じた。
「ライン殿、済まぬがもう一度ゆっくり読んで下さるか」
キャロラインが読み上げるのを聞きながら、文字の横に読みをメモする六蔵。書き終えて一息着こうとノートを閉じると、表紙に何か書かれているのが目に入った。
「これは何と書いてあるのじゃ」
「無くさないようにクリスさんの名前書いておいたよ」
「表には無い文字もあるようじゃが」
「基本を覚えたら教える予定の特殊な文字だよ」
「左様か……」
表紙に書かれた他より小さな字と漢数字の一を見て嫌な予感を覚えた六蔵は、名前だけは早く覚えようと心に誓った。
昼食後のキャロラインの足取りは軽やかだった。詰め込みで教えても、肝心の六蔵が覚えられなければ意味はない。心を落ち着けて考えてそう気が付いたのだ。
それに、常に冷静である六蔵は大抵の事に対処できるだろう。『一人前にする』などとおこがましく考えていた自分が恥ずかしくもあった。
二人は相談して、字を覚えるのは毎日少しずつにして、まずは表を読めるように歩きながら「あいうえお」を諳んじる事にした。
「あいうえお・かきくけこ。ほら、クリスさんも声に出して」
「わしは心の中で言うておるから問題ない」
「いやここは声に出そうよ」
どうやら六蔵は子供のように声に出して覚えるのが恥ずかしいらしい。
一方、平常心継続中のキャロラインは、いつもより気配に敏感なのか、読みを諳んじている最中にベリーを見つけて森に入ったり、小川の水量が多くなって小魚が増えたと喜んだりしている。六蔵には注意力散漫との違いがよく分からなかった。
そうこうしているうちに午後の休憩に入った二人。早速ノートを開いて覚えた読みと文字を付け合せて確認作業を始める六蔵。
(今のうちに気になってたあいつを仕留めてきますか)
キャロラインは、少し前から自分たちの後を付けて来る気配に気付いていた。集中している六蔵を置いて森の中に入る。
目にしたそれは、獣の熊だった。大きくはあるが、何度も倒した事がある得物だ。こちらを向いているため気付かれないように背後に回りこむことは出来ないと思ったキャロラインは、気配を消して熊に向かって走った。
目の前に迫ったキャロラインに気付いた熊は、唸り声を上げて右腕を振り下ろした。姿勢を低くして攻撃をかい潜り、熊の両膝下に切りつける。前に倒れ込む熊を避けつつ、ジャンプして近くの枝に跳びつく。起き上がろうとするその背中に跳び移り、両手を揃えて握った剣の根元を熊の首に体重を込めて圧し当てる。暴れる熊の背中を両足で蹴り、深く刺さった剣を引きながら喉を掻き切った。再び距離をとって様子を伺う。動きを止めた熊に近づこうとしたその時。
「何をしておる」
「ヒィッ!」
熊より恐ろしい声が聞こえた。
「何故わしを呼ばなかった」
低く静かな声には怒気が含まれている。
「なぜって、何度も1人で倒したことがある相手だから大丈夫だと思って」
「確かに慣れた手際であった。だが、いつもと同じだろうと思う事を油断と申すのじゃ。例えばもう一匹表れたらどうじゃ。例えばつまづいて頭を打ち、気を失のうたらどうにも出来ぬであろう」
キャロラインは考えた。確かに気を失う事までは考えなかった。しかし、1人で向かう判断をした時、自分は冷静だったはず。では何故六蔵に声を掛けなかったのか。確かに勉強の邪魔をしたくない気持ちは有ったが、それより二人で戦う事など思いもしなかったのだ。
「自分が油断してる事に気付かなかったし、二人で戦う事も思いつかなかった」
「良う分かった。そなたは経験が不足しておるのじゃ。今回は良い経験をしたな」
六蔵は穏やかな表情でそう言った。
「良くないよ。今まで散々稽古してきたのに何にも分かってなかったし、落ち着いてたのに間違ったし。失敗ばっかりだ」
「そなたは何故旅に出たのじゃ」
唐突な質問を怪訝に思いつつ答えるキャロライン。
「冒険者になって自分の力を試したかったし、知らなかった物を見たり聞いたりいろんな事を経験したかったからだよ」
「失敗も『いろんな経験』の一つじゃ。長い旅の途中で失敗があっても、それをこの先生かして行くのなら良い経験に変わるであろう」
「クリスさんは失敗しない人だからそんな風に言えるんだよ」
「アッハッハッハ……」
突然大声で笑い出した六蔵。キャロラインは、初めて聞いた六蔵の笑い声に驚いた。
「わしが失敗しない人じゃと?わしはここに来る直前に大失敗をしておるぞ」
「まさか」
「ライン殿は、夜に明かりも持たず、道無き山を越えようとする者をどう思われる」
「バカだと思う」
「その馬鹿がわしじゃ。先を急ぐ余り判断を誤り、暗さで方向を見失うて初めて失態に気が付いた。そなたに平常心が肝要と申したのも己の反省あってこそじゃ」
キャロラインは、常に冷静な六蔵が焦る様子を想像して、失礼と思いつつ笑ってしまった。
「人の失敗話を聞いて気が楽になるのは間違ってると思うけど、なんかほっとした」
「当たり前の事じゃ。ところでその熊はいかが致す」
「毛皮が敷物として売れるように殺ったから持っていくよ。」
キャロラインは、背負ったままだった背負い袋を降ろした。中の巾着袋の口を広げて触り、同時に熊の亡骸を触ると、それはスルリと巾着袋に吸い込まれた。唖然としながらその様子を見た六蔵は、気を取り直して聞いてみた。
「肉は食わぬのか」
「食べるけどあんまり好きじゃないんだよね。噛んだら獣の臭いが口に広がって」
「味噌で長い時間煮たら臭みも抑えられるが……」
「臭いよね」
「硬いのう」
熊肉は非常用に取っておく事にした舌の肥えた二人であった。