1 キャロラインの旅立ちと何か
キャロラインは、山中の森を早足で進んでいた。獣道さえ無い深い森だが、その表情はニヤニヤと締まりない。何故なら、頭の中はまだ見ぬ新天地への期待で一杯だったからだ。
幼い頃から両親に『広い世界を見て自由に生き方を選択できるように』と、キャロラインは色々な事を教わってきた。そして、ようやく13歳になった3日前に『お前に教えることはもう無い。後は好きに生きろ』と父に言われて昨日家を出たのだ。
『好きに生きろ』と言ったくせに、その後クドクドと念を押された。
「無理だと思ったらすぐに帰って来いよ」
「結婚相手が見つかったら連れてらっしゃい」
「お菓子をくれると言われても付いて行くなよ」
「この村の人は良い人ばかりだから、街で騙されないか心配だわ~」
「お母さん、この村にも悪い人は居るよ。ヨルドん所のばあちゃんは、隣の家の小麦を盗んだんだって」
「まあ、それはおばあちゃんがボケちゃってるから仕方がないのよ」
「それに、肉屋の親父は美人に色目を使うってリッキーが言ってた」
「なんだと!ロースの奴め!俺の愛するローゼを誘惑するとは、たたっ斬ってやる!」
「うふふ……あなた嬉しいわ。でもあれは商売上のお世辞よ。女性には誰にでも美人なお嬢さんって声を掛けるのよ」
「本当か?」
「ええ、本当よ」
「ローゼ……」
「あなた……」
キャロラインは、いつもの寸劇が始まるとそっと部屋を出た。
キャロラインの母は元貴族で、騎士であった父とは身分の差を理由に結婚を反対された為、王都から遠い村に駆け落ちしてきたそうだ。何年経っても熱々の二人を見てきた一人娘が、冷めた視線になるのは無理もないと言えよう。
それから、村人に別れの挨拶をしたり、旅に必要な物を揃えたり、涙目で縋りつく父を引っぺがしたりして、ようやく昨日の早朝に旅立ったのだ。
旅は順調だった。今日の夕方前に到着する予定の湖までは父と何度も来ていて、どんな天候でも見分けられる目印を覚えこんでいる。近くに強い獣の気配もなく、目に付いたキノコなどを採取する余裕さえある。
そろそろ昼食にするかという頃、急にゾワリと悪寒がした。数十メートル背後に強者が居るのを感じる。それは、熊のように腕力で相手を圧倒する強さではない。例えば、極薄い刃の腹を首筋に当てられているような、冷やりとした恐怖を感じさせる強さだ。
心臓の鼓動が早くなり、背中に冷や汗が伝う。まだ見つかっていない可能性に賭けて、キャロラインは走り出した。そこは右手から左手に向けて急な斜面になっている場所だが、密集した木々の間を、木の根を踏み台に跳ねるように逃げる。
(ヤバイヤバイヤバイ!アレ人間だよね?うっへー追っかけてくるよ!刺客か?山賊か?私高貴な者じゃないし、高価な物なんて持ってないってば!!)
心拍数が上がったせいか高速で思考が巡る。が、巡るだけで妙案は浮かばない。
(いざとなったらバリアは張るけど、怖いもんは怖いんだってー!うぉーーめっちゃ近づいてるしー!)
キャロラインは時間を惜しんで一度も振り返ってはいない。魔法の『探査』にバシバシ引っ掛かるヤツは、右上後方約10mまで迫っていた。対峙して迎え撃つか、それとも……どうしようか。訓練以外、対人戦の経験のないキャロラインは迷っていた。
ドサッ バキッ ゴロゴロ
「ひっ!」
背後から聞こえた音に、思わず足を止めて振り返ってしまった。ヤツの姿は見えない。『探査』によると、キャロラインの立つ場所より数m先のわずか下方で止まっている。
こうなっては仕方がないと腹をくくり、自身に防御の魔法を掛け、来た道をゆっくり引き返す。木の陰から顔を出し、ヤツが居なければ次の木へ隠れるを繰り返す。3mほど先に人がうずくまっているのを発見したので様子を伺う事にした。
それが何か判断出来るまでしばらくかかった。キャロラインが知っているものと比べて余りにかけ離れているので、脳が判断するのに時間が必要だったのだ。
うずくまり下を向いたヤツの頭は、キャロラインの真正面に向いている。額から頭頂部に真っ直ぐに広がる地肌。その上に、一度結ばれた長髪が折りたたまれてさらに結ばれて乗っかっている。
(ハゲ……)
キャロラインは木の陰でまだ心臓をバクバクさせていたが、その言葉を声に出してはいけないと判断できる程には冷静であった。