第二章 幽霊のゴースト・ライター
第二章 幽霊のゴースト・ライター
1
楠木は小堺の「学校を休んでも出席日数をどうにかする」発言を疑問に思ったので、翌日は学校に普通に登校した。
ホーム・ルームのあと、授業が始まる前に、美術部顧問であり担任教師の尾崎先生に呼ばれた。
尾崎先生は四十代の男性の美術教師で、眼鏡に口鬚がトレード・マークの先生だった。
どこか楠木を気遣ったように、尾崎先生が声を掛けてきた。
「楠木、今日から学校をしばらく休むと、校長から連絡が俺にあった。あれは、何かの間違いか?」
楠木は尾崎先生の言葉に戸惑った。
本当に小堺が裏から学校に手を回していたとは、思わなかった。
「でも、長期間、学校を休んで、出席日数が足りなくて留年になったりしたら、困るじゃないですか」
楠木は小堺が学校になんと理由を付けて、長期の休めるように計らったのかわからなかったので、どう話していいのか戸惑った。
ただ、担任の先生なので、学校を長期期間に亘って休む行為には反対されると思った。
けれども、尾崎先生の言葉は、違った。尾崎先生は、悪事の片棒を担ぐ人間がするような、ひそひそ声で忠告した。
「それなら、心配するな。俺も校長も、すでに貰う物を貰っているんだ。裏切るような真似はしない。出席日数やテストの成績は、心配しなくていいぞ。現場の担任と校長がグルなんだから、問題ないって」
楠木はまさか、昨日今日で担任と校長が買収されているとは思わなかったので、かなり驚いた。
公務員が物を貰えば賄賂となり、法に触れる。
校長も尾崎先生もわかっていて、受け取ったのなら、きっと半端な贈り物、ないし金額ではないだろう。
(小堺さん、貴女、いったい裏で何をしたんですか! そこまでして本を早く出したいのですか)
なんだか、軽い気持ちでゴースト・ライターを引き受けたのはいいが、楠木自身が踏み込んではいけない場所に足を踏み込んだ気がしてきた。
(まずい。これ、どんどん危険な方向に進んでいるよ)
楠木はとりあえず、学校側が小堺により篭絡された事実を知ったが、それでもすぐに作業に取り掛かる気には全然なれなかった。
「急に休むのは気が引けるので、休むのは明日からにします」
尾崎先生が真剣な顔になり、小声で怒った。
「いいから、今日この場から学校を休みなさい。楠木には、楠木にしかできない仕事があるんだろう」
前の言葉だけ聞けば、なんかヒーローを励ますような言葉だ。
小堺がなんと校長や尾崎先生に吹き込んだか知らないが、聞かないでおこう。
後で辻褄が合わなくなったら問題だし、ゴースト・ライターの仕事なんて、人に言えるものではない。もう引き返せない地点まで来たと思った。
楠木は登校後、最初の科目が始まる前に早退する羽目になった。
だが、ここで困った事態になった。版画の道具はまだ、美術部を辞めたばかりなので、美術室の中に置いてある。
美術室に向かう途中、美術室に向かう他のクラスの生徒が見えた。今、美術室の中にある版画の道具を取りに行くのは、まずい気がした。
しかも、運が悪い状況に、他のクラスが受ける美術の授業は、尾崎先生ではない、違う先生だった。違う先生に、版画の道具を取りに美術室に現れた現場を見られ、理由を聞かれると、超まずい。
かといって、授業がもうすぐ始まるのに学校内を何もしないでウロウロしているのを見つかるのも、まずい。
楠木は迷ったが、取りあえず、学校から出た。
2
学校を出たが、道具ないと作業ができない。学生服姿なので、授業がある時間帯に馴染みの画材屋で、新たに必要な道具を買えない。
家に帰れば母親がいるので、早退の理由を聞かれるので帰れない。
どうしようかと、思っていると、横に見覚えのある車がスーッとやって来た。
車の窓が開くと、案の定というか、小堺が乗っていた。
小堺が、なんでもお見通しといった表情で、優しく声を掛けてきた。
「アトリエに来ないと思ったら、楠木君やっぱり、登校していたわね。だめよー、お仕事を優先させなきゃ」
「小堺さん、学校に何をしたんですか? なんか、犯罪の臭いがするんですけど」
小堺がにやにやしながら冗談めかしく発言した。
「嫌だわぁ、犯罪だなんて。ちょっとした魔法を使ったのよ。ほら、うち、魔道書の出版社でしょ」
嘘だ。魔法なんて、あるわけない。何か、人に言えないような悪事をしたに違いない。
とはいえ、どんな悪事を働いたのかは、聞かないほうが身のための気がした。
楠木がまだ躊躇っていると、小堺が急がせる。
「さあ、早く、後ろに自転車を積んで。仕事場に向かうわよ」
半ば強引な誘いにより、楠木は小堺の車に乗った。
「すいません、小堺さん。事態が急だったので、版画を作成する道具が、まだ美術室の中にあるんです。二時間ほどしたら、一度、学校に戻ってくれませんか」
小堺はメモ帳とペンを渡した。
「その必要はないわ。道具は全部、一から私が買ってあげるから、必要な道具を、メモに書いて。下手に道具を持ち出して、楠木君のアルバイトの内容が担任の先生に勘ぐられたら、まずいでしょう」
やっぱり、小堺は校長や担任には、正直な内容を言っていなかった。
小堺なら、出版社の編集者より、詐欺師になったほうがよっぽど稼げるのではと思った。でも、余計な言葉は慎もう。
楠木は言いたい言葉を飲み込み、当面の問題を告げた。
「そんな、道具を持ち出したくらいで、アルバイトの内容は、バレたりしませんよ。それに、使い慣れた道具が、一番仕事をしやすいんですけど」
小堺は車を走らせながら楠木に注意した。
「ダメよ。ゴースト・ライターの仕事はね、一%でも露見する確率を下げるように、気をつけないと、思いがけずに発覚するのよ。道具を取りに行きたいのなら、今回の仕事が終ってからよ」
楠木が「そういうものか」と思っていると、小堺の車がまっすぐローゼンベルクのアトリエに向かった。
「小堺さん、画材屋とは方向が違いますよ」
「まずは、アトリエに行くのが先よ。画材屋の主人に、私と楠木君が一緒にいるところを見られたくないわ。画用紙、トレース用紙、カーボン用紙、それに、版木は昨日、東京まで行って購入しておいたから。他の道具は、あとで出版社としてネットで購入するわ」
北海道にいるのに、版木を買うためだけに東京まで行くなんて、なんだか偽札の原版作りをさせるような用心深さだ。
小堺は運転しながらも、尾行を警戒する犯罪者のように時折、背後を気にしながら運転していた。
アトリエに着くと版木を二人で下ろした。
多色刷りなので版木は一色に一枚を使う。十二枚で八色を使うとなると、百枚近くの版木が必要だった。
百枚もの版木を見ると、小堺は気が滅入った。
「これに全部、僕一人で画を書き写して彫るのか」
小堺さんが楠木の肩を叩いて、陽気に発言する。
「当たり前でしょ、アシスタントを雇うゴースト・ライターが、どこにいるのよ」
「はあー、せめて、ローゼンベルク先生が生きていたら」
小堺はどこか強張った笑みを浮かべて発言した。
「楠木君、何度も言わせないでね。ローゼンベルク先生は、不死なのよ」
「すいません。そうでした。先生は、ちょっと席を外しているだけなんですよね」
小堺が笑顔に戻って励ました。
「わかればよろしい。じゃあ、お昼まで頑張ってね。お昼は差し入れを持ってくるから、アトリエから出なくいいわよ」
(俺、今日、家に帰してもらえるんだろうか)
3
楠木はローゼンベルクの描いたスケッチを参考に下絵を起こし、どの部分をカラーにするかを決める作業を開始した。
作業を始めると、没頭した。版画作りが好きなので、作業自体は、苦にならなかった。
昼になり、アトリエの扉が開いて小堺が入って来るまで十二時を過ぎたのに、気が付かなかった。
小堺は弁当屋の幕の内弁当とお茶を持って、軽く掲げた。
「どう、作業は進んでいる?」
楠木は気の早い小堺に言って聞かせた。
「小堺さん、そんなに早く、版画はできませんよ。まだ一枚目の下絵すらできていませんよ。ローゼンベルク先生の味を残したまま、画用紙に書き写すだけでも、苦労しているんです。それに、ローゼンベルク先生ならどう色を載せるかまで考えると中々奥が深くて、難航中です」
小堺は、いたって気軽に発言した。
「いいのよ。そんな難しく考えなくて。ローゼンベルクがどう思おうが、もう絶対に文句は言わないんですもの。楠木君がこうだと思ったものでいいから、迷わず、どんどん描いて行きなさいよ」
いい加減すぎる。そんな手抜きしたら、絶対に作風が違ったものができる。
「お言葉を返すようですが、どんな作品にも、根底に流れる精神があります。作品の根底に流れる精神を理解しないと、作品に宿る魂まで変わってきます。僕はまだ、先生の作品と心で対話する段階なんです。作品との対話を誤ると先生の作品に宿る魂が変質します。そんな作品、読者が望んでいると思いません」
小堺が楠木の言葉に露骨にげんなりした表情をした。「待ってなさい」と発言して、アトリエの本棚を探し始めた。
そのうち「ああ、これよ、これ」と『ローゼンベルク虚無の魔道書』と題された一冊の本を取り出した。
「楠木君、これを見てくれる?」
楠木は『ローゼンベルク虚無の魔道書』を見て驚いた。
『ローゼンベルク虚無の魔道書』はカラーで描かれた、抽象的な水彩画が載っていた。
けれども、今まで見ていた作品とまるで作風が違い、楠木がローゼンベルク先生なら、こう色を使うだろうと思っていた色使いとも、まるで違った。
楠木はローゼンベルクが描いていたスケッチと見比べた。やはり、大きく異なっていた。
「エッ、これ本当にローゼンベルク先生が昔に描いた物ですか! 作風がまるで違う。なんか若い女性が描いた――」
楠木は途中まで言葉が出たが、小堺が険しい顔で睨んでいるのに気が付いて、すぐに言葉を引っ込めた。
途中で言葉を止めると、小堺の顔がにこやかに戻った。
「どう、わかったでしょ。先生は一世紀に渡り、魔道書を書いているのよ。だから、作風も大きく変化する過去が、度々あるわけよ。時に若い女性のようなタッチになる作品があるんですもの。高校生が描いたような作風に変わっても、問題ないわけよ」
楠木は、ローゼンベルクを人の良いお爺さんと思っていたが、違ったと思い知った。ローゼンベルクは、もっと昔から、描けない時にゴースト・ライターを使っていたのだ。
しかも、あからさまに別人が描いたと思われるような作品を、堂々と採用していた。
ある意味、ローゼンベルクは勇気のある人だと思った。
「小堺さん、先生が魔道書を描いた時に、ローゼンベルク先生の作品って本当に本人が描いているのかって問い合わせ、過去になかったんですか」
「あるわよ。そういう時は編集部で『先生は不死の魔法使いで複数の魂を持っていて、今回はこれこれ、こんな魂が発現されました』って説明すると、納得してくれるのよ」
なんて、不死の魔道書作家の肩書きって便利なんだろう。もし、ローゼンベルク先生の肩書きが画家なら、絶対に美術界を追放されているよ。
小堺が平然とダメ押した。
「これでわかったでしょう。楠木君は、ローゼンベルクの作品の根底にある精神だの、魂だの理解しなくていいのよ。バンバン思い通り描いて、とにかく、早く仕上げてちょうだい」
4
楠木はもうローゼンベルクの作品を理解する努力を止めた。作品の根底に流れる魂との対話なんて、馬鹿らしい。
第一、こうなってくると、ローゼンベルク先生が描いたとされるスケッチだって、本人の物かどうか、わかりゃしない。
案外、参考にしているスケッチだって、どこか別の美大生が描いた物を先生が買ってきた作品かもしれない。
「もういいよ。とにかく早くっていうなら、早く仕上げよう。こんな仕事、早く片付けて、おさらばだ」
楠木は持っていた美術に対する良識と迷いを捨てた。
スケッチを真似ながら、どんどん、下絵を作成していった。気が付くと、午後七時になっていた。画を描くのに夢中になりすぎて、時間を忘れてしまった。
急いで帰宅しようとすると、アトリエから玄関に続く廊下の窓に人影が見えた。人影は、ドアの前で黙って立っている。
楠木は玄関ドアから外を覗く小さなレンズを通して外を見ると、一人の制服姿の女子高生が立っていた。
見覚えのない制服なので、楠木と同じ高校の生徒ではない。
女子高生はショート・カットで眼鏡を掛けていた。女子高生は鞄の代わりに、小ぶりな杖のような物体を持っていた。
楠木が見ていると、女子高生はドアのインターホンを押すわけではなく、ただ黙って玄関前に立っている。
何か念を送っているようで、楠木は気味が悪かった。とにかく、困った事態になった。
楠木は身を屈めるようにしてアトリエに戻ると、小堺に電話した。
「小堺さん、ローゼンベルク先生の家の前に変な女子高生が立っていて、外に出られないんです。しかも、ドアのインターホンも押さず、ずっと立っていて、怖いんですけど」
小堺がすぐに反応した。
「まずいわね。きっと、ローゼンベルクのファンよ。先生の家は秘密にしてあるんだけど。時折、どこで知ったのか、弟子入りに来る子がいるのよ。でも、私も今、ちょっと手が離せないのよね」
「じゃあ、僕が出て行って。『先生は留守ですって』言って帰ってもらって、いいですか」
電話の向こうから、怒ったような小堺の声が聞こえた。
「馬鹿を言わないでよ。ローゼンベルクなら慣れているから、適当にあしらって追い帰すんだけど。楠木君には、その手の思い込みの激しい魔女っ子志願者の対応は、無理よ。ああ、もう、忙しい時に限ってトラブルばかり。もう、楠木君、今日は泊まり込みで仕事なさいよ」
楠木はすかさず不満を漏らした。
「そんな、家に帰してくださいよ。あんまり遅くなると、家族が心配するじゃないですか」
「いっそ、今日は友達の家に泊まるって状況にしなさいよ」
「今日は木曜日ですよ。明日も学校があるのに、不自然じゃないですか。両親には、出版社でアルバイトをしているって架空の話をしていても、学校に行ってない事実は、話していないんですよ」
小堺があまり時間がないのか、急かすように話した。
「とりあえず、ご両親には作家先生の所に原稿を取りに行ったら、できていなくて、原稿を受け取るまで帰れないって、言い訳して時間を稼いで。私も今の用事が済み次第、アトリエに行くから。いい? 絶対ドアを開けちゃダメよ。外に出てもダメだからね」
「わかりました。でも、なるべく早く来てください」
楠木はとりあえずの対応策として、家に小堺の言われた通りに遅くなる旨を両親に伝えた。
お腹が空いてきたが、アトリエにはコーヒーと紅茶しかない。
玄関にある左側の扉を開ければ、ローゼンベルクが暮らして部屋がある。キッチンまで行けば、食べ物があるかもしれない。
とはいえ、居間の灯りが点けば、魔女っ子の志願者とやらが仕事を終ったと思って、インターホンを鳴らすかもしれない。
5
女子高生を発見してから、一時間が過ぎたので、さすがに女子高生が帰ったかと思った。
確認のために、アトリエから玄関へと続く廊下の窓からそっと覗いた。ところが、まだ女子高生は玄関前にいた。
いい加減、帰って欲しい。お腹が空いたよ、と思ったが、女子高生がいつまで待ち続けるかわからない。
空腹を紛らわすために、紅茶に砂糖を多めに入れて飲んだ。とはいえ、空腹は消えなかった。さすがに朝からずっと画を描いていたので、もう下絵を描く気もしなかった。
さらに、一時間が経ったが、女子高生はまだ玄関前に立っていた。完全に不審者の域だが、ゴースト・ライターの楠木が警察に通報するわけに行かない。
もう一時間が経過して確認すると、やっと姿が消えていた。
姿が見えなくなったので、帰ろうかと思った。けれども、小堺から外に出るなと言われている。相手が隠れている可能性があるため、小堺を待っていた。
携帯が鳴った。母親からだった。
母親が心配そうな声で尋ねてきた。
「ねえ、法冶。まだ、掛かりそうなの?」
「御免、よくわからないよ。先生が急に原稿用紙の前で固まっちゃって、動かないんだよ。出版社の人に連絡したから、他の編集者が交代に来てくれるらしいんだけど。なんか、別のトラブルがあって、すぐに来られないんだよ」
携帯の向こうの母親から疑問に思う声がした。
「今時、手書きの原稿用紙なんて使う作家さんなんて、いるの? パソコンで原稿を打って、メールで送ればいいでしょう」
母親の言っている言葉は、もっともだと思う。だからといって、存在しない作家の、進みもしない原稿を待っているとは、さすがに言えない。
楠木は咄嗟に出任せを口にした。
「先生は昔から、万年筆と原稿用紙を使って書いている大家なんだよ」
母親から次の疑問が飛び出す。
「そんな、大先生の所に大事な原稿を取りに行くのに、アルバイトを行かせるかしら? 先生の名前ってなんていうの」
「ふ、不自然な点なんか、全くないよ。原稿を取りに行くのは、誰でもできるからアルバイトの仕事だよ。先生の新作はシークレットだから、家族にも教えちゃいけないって言われているんだ。だから、本が出るまでは、先生の名前は言えないよ」
あまり話すとボロが出るかもしれないので、電話を切って逃げようと決めた。
楠木はわざと電話から離れて、大先生が咳払いをしたような音を出した。
すぐに、忍び足で携帯電話を持つとアトリエの中を少し歩いてから、口小声で話した。
「ごめん、母さん。僕が携帯で話しているのを大先生が気に入らないようだから、電話を切るね」
無理矢理どうにか電話を切って、母親からの追及を逃れた。
楠木は空腹に耐えながら、小堺の到着を待った。
「早く戻ってきてよ。小堺さん」
結局、小堺がアトリエに現れたのは、午後十時半を過ぎていた。
「遅いよ。小堺さん。もっと早く戻ってきてくださいよ」
小堺は素直に謝り、説明した。
「ごめん、ごめん。色々こっちにも都合があってね。それと、よく我慢して一人で勝手に帰ろうとしなかったわね。女子高生、庭の隅に隠れていたわよ。とりあえず、今日のところは帰ってもらったわ」
外に出なくて正解だったが「今日のところは」との発言が、引っかかった。
「エッ、また来るんですか」
小堺が顔を顰めて発言した。
「来るわね。話してみたけど、あの手のタイプは、断っても、断っても、弟子にしてくれってやって来るわ。今の状況だと、ある意味、訪問販売より性質が悪いわ。こっちは消費者センターにも警察にも連絡するわけにもいかないから、根比べになるのは間違いないわよ」
「こうなったら、腹を括って、ローゼンベルク先生が亡くなった事実を世間に公表しましょうよ」
途端に、小堺の眉間に皺が寄った。
「だから、それは断固できないって言っているでしょう! とりあえず、新刊本が出るまでは絶対にローゼンベルクは生きていてもらわなきゃ困るのよ」
納得いかなかったが、空腹だったので、その場は議論する気にもなれなかった。楠木は、取りあえず家に帰る行為を優先した。
6
翌朝、家を出ると、夜遅くなった時のために、空腹時に食べるお菓子をコンビニで買ってから、真っ直ぐにアトリエに向かって作業を開始した。
午後五時まで作業をして、疲れて帰ろうとしたら、昨日の女子高生が玄関ドアの外に立って待っていた。
またかと思い小堺に連絡した。
「小堺さん、昨日の子がまた玄関の外に佇んでいて、帰れないんです。もう、無理な課題を出して、ここにしばらく来られないように、できませんかねー」
小堺がすぐに反対した。
「課題を出すのは、止めたほうがいいわよ。こっちが無理と思っても、思いもかけずやり遂げちゃったら、会わせないわけにはいかなくなるわ。今の状況だと根気よく断るしかないのよ。それに、まだ、午後五時でしょう。今日も迎えに行くから、仕事をして待ってないさいよ」
楠木は、いささか、げんなりした。
「また、十時半になるんですか」
「今日は、そこまで遅くならないから、大丈夫よ」
楠木は渋々仕事をしながら、小堺が来るのを待っていた。すると、午後八時半を過ぎた辺りで、母親から電話があった。
母親はどこか非難がましい口調だった。
「法冶、今日も遅いの」
嘘を吐くのは心苦しいが、正直には言えないので、思いついたままに嘘を話した。
「今日も遅くなるかもしれない。先生が昨日中に原稿を完成できなくて、担当編集者が翌朝、原稿を取りに来ます、って事態になったんだよ。けれども、朝に担当編集者が来たら、先生が逃げちゃって。それで、今、皆で先生を探しているところ。僕は先生が万が一、先生が家に帰ってきたら担当編集者に知らせるために、先生の家に待機中なんだ」
「本当に困った先生ねー。それで先生、帰ってきそうなの」
もう、ローゼンベルクが帰ってくる展開は、永久にない。死んだ人間の帰りを待つなんて、犬なら銅像でも建つが、生憎、僕は人間だ。
「それは、わからないよ。でも、あんまり遅くなりそうなら、他の人と替わってもらうから、じゃあ、連絡があったら困るから、切るよ」
楠木は半ば強引に電話を切った。嘘は吐きたくなかったが、真実はよけいに言えない。
下絵を作成しながら小堺の迎えを待つ。だが、小堺は一向に迎えに来なかった。
廊下の窓から覗くと、女子高生はずっと玄関の前に立って念を送っているように見える。
楠木はそこで思った。
(ひょっとして、魔女っ子志願者の女子高生というのは、嘘なのではないだろうか。あれは、小堺さんが雇ったアルバイトで、僕に仕事を長時間やらせるための、トラップだとしたら)
ゴースト・ライターの仕事は時給いくらでやっているわけではない。
一冊完成させて、いくらの仕事だ。
早く本を完成させたい小堺にしてみれば、楠木を連日、長時間に亘って働かせたいと当然に思う。だけど、長時間ずっと働かせるには、理由が必要だ。
長時間ひたすら働かせるために、魔女っ子志願者なる、実際には存在しない人間を雇って、玄関前に置いているのではないだろうか。
「ま、まさかね。そこまで阿漕にするとは……」
普通は、ありえない。だが、あの小堺なら、本を早く完成させるために、玄関前に立つアルバイトくらい、雇う気がする。
「いっそ、声を掛けようか、でも、本物だったら、まずいしなー。でも、この確かめられない感じが、いかにも小堺さんの使いそうな手段な気がする」
7
楠木がしばらくして帰ったかと思い、もう一度そーっと外を確認すると、人影が二つになっていた。
「人が増えている!」
アトリエからでは、よく見えない。でも、大柄の人物なので、小堺ではない。
楠木は塹壕に立てこもった兵隊のように身を低くして、そーっと玄関へと続く廊下を進んで行った。
玄関から外を覗くためのレンズから見ると、山伏の格好をした鬚面の中年男が、女子高生となにやら話している。
玄関のドアは厚く、防音もしっかりしているので話し声は聞こえない。だが、どうやら山伏が説教して、女子高生が言い返しているようだった。
なんか、また事態がややこしくなって来た気がする。
楠木はアトリエから出てきた姿勢で廊下を戻ると、小堺に電話した。
小堺が電話に出て、すぐに謝った。
「ごめんね、楠木君。迎えに行くの、もう少し掛かりそうだわ。それまで作業を進めていてちょうだい」
「小堺さん、それより、また問題が起きた。今度は、山伏が来た。何を話しているかわからないけど、魔女っ子志願者と口論しているよ」
小堺が露骨に嫌そうな声を出した。
「また、厄介なのが来たわね。きっと、その山伏、ローゼンベルクに挑戦しに来たのよ。どっちが強いかはっきりさせようとか、ローゼンベルクが本物の魔法使いか確かめようとか考える輩よ。もう、どうして、こんな時に来るのかしら」
「それ、僕に言わないでくださいよ。僕には何もできないじゃないですか。やっぱり、ローゼンベルク先生の死を明らかにしたほうが――」
小堺が即座に反論した。
「それは、絶対ダメ。真実でもない情報を流すわけにはいかないわ」
どうやら、小堺の中では、ローゼンベルクが死んだ事実が虚構となっているらしい。
楠木は段々不安になってきた。
今は、まだ押しかけ弟子や、怪しげな霊能者の腕比べくらいのトラブルで済んでいるが、このまま行くと、もっと大きな問題が持ち上がってくるような気がしてならなった。