9-6 ニスケス侯爵再び
大人と子供の、大人の取引です。
「アンリくん、ちょっと時間をもらえるかな?」
寮に戻るために拠点を出たところに、声の主は立っていた。
「ニ、ニスケス侯爵?」
建物を出てすぐに、そこにだれか立っているのも、それが気配を消すすべを持っているひとではないのもわかっていた。しかし、一人でぽつんと立っているのが侯爵位にいる、ドルニエ貴族社会で一、二を争う実力者その人だとは想像しなかった。
「先日は大変失礼したね」
近くに停めてあった馬車の中にぼくを招き入れたニスケス侯爵は、飲み物を用意した執事が外に出るのを待ってそう切り出した。
「とんでもないです。こちらこそ、侯爵みずからぼくの相手をしてくださって」
じっさい、侯爵が何を念頭に置いてそう言っているのか判断に苦しむほど、いろいろカマかけられたり余分な荒事をさせられたりしたわけだが、もちろんそれを口に出すわけにはいかない。侯爵というのは、それが許される立場だ。
「念のために言っておくと、今日こうしてきみと会って話していることは、ベアトは知らない。純粋にわたしの意思で来ていると思ってくれ」
「承知しました」
うん、この人は親バカだけど、娘に言われてぼくのことを探るような節操なく甘い人じゃないよね。
「そう、そのきみの受け答えだよ。娘の同級生と話している気がまったくしない。王宮で政敵とハラの探り合いをしているときが、ちょうどこんな気分だよ」
侯爵は深くため息をついて、ぼくに苦笑いをして見せた。ぼくはそれには答えず、肩をすくめてみせる。あ、また子供らしくない対応をしちまった。だが、今さらという気もする。
「きみがなにをしようとしているのか、わたしには想像もつかないが、そこにわたしが首を突っこむことはしない。ひとつ確認させてくれないか。きみは、きみの能力や人脈を、できるだけ他人に知られないようにしたいと思っているかい?」
「能力や人脈と言っても、それほど大したものは持ち合わせていませんよ?」
「この馬車の中では、とぼけるのはナシにしよう。わたしもこの半年、おとなしくドルニエの金庫番だけをしていたわけではない。きみはわたしに、この家に出入りしている人物の名前を全部あげさせるかい?」
カマの掛け合いはやめよう、ということか。なんの保証もないけど、ここは侯爵の合理的なものの考え方に賭けるしかないな。
「ぼくは、できればだれの記憶にも残らない存在でいたいと思っています」
「なるほど。では、もうひとつきかせてくれ。きみは、自分がドルニエに敵対することがあると考えるかい?」
「わかりません。ですが、ドルニエがド・リヴィエール伯爵家に牙をむくようなことがあれば、そうすることにはためらいはないですね」
「敵対することはないということだな。ド・リヴィエール伯爵家抜きに、いまのドルニエは軍事的に立ちゆかん」
子供にする話じゃねえよ! それに、ロベールに頼りすぎじゃね? そして、この言いかただと、近衛の中でもフェリペ兄様が着実に地歩を固めているということかな。
「いや、それだけがそうする理由だと言ってるわけでは……」
「わたしには、きみはきみの力を伯爵家を守るために使う、と言っているように聞こえたがね」
この人はやはり合理性の塊だ。しかも、手持ちの情報を総合した上で、直観的な結論を出すことをためらわない。少なくとも、敵にしたい人物ではない。
「『守るため』だけかどうかはわかりませんが、そこは否定しませんよ」
「うんうん。そう言ってくれるとありがたい。そこでひとつ相談があるんだ」
な、なんだ? 急にニコニコして、何が出てくるというのだ? これは油断ができない。こないだの侍従長の件みたいなことを、これからもやらせようとでも言うのか?
「きみ、ベアトと結婚してくれ」
あまりのことに、頭が一瞬真っ白になって思考が停止した。侯爵が、ベアトリーチェがぼくに近づくことを見て見ぬふりをするかもしれない、とは思っていた。だが、侯爵の方からこんなことを言い出すのはさすがに予想外で、まさにブラインドからの一撃だったと言ってよい。
「な、何がどうなると、そのお申し出になってしまうんでしょうか?」
「いや、考えたら、それがいいことづくめの結論だったんだよ。わたしはベアトに嫌われずにすんで、ベアトも近くにいてくれる。毎度毎度というわけにはいかないだろうが、どうしても困ったときに想定外の非合法手段に訴えるアテができる。そして、きみとド・リヴィエール伯爵家を敵に回さずにすむ」
待て待て! いろいろ突っこみどころが満載だ! 二番目の非合法云々のところがいちばん頭にスッキリはいってくるというのが、すでに言っていることがメチャクチャであることを証明している。
「えーと、まず伺いたいんですけど、ベアトリーチェさんは、ぼくと結婚することを前向きに考えるんでしょうか?」
「とぼけるのはやめたまえ。あの子はきみに、ベアトと呼ばせているそうじゃないか。半年前にそれを聞いたときには、私の持てる力をすべて使ってきみを抹殺しようかとも思った」
怖いよ! そして目がマジだよ!
「じゃ、じゃあそこは少し置いておくとして、侯爵は半年前のようなことを、またぼくにさせようとお考えですか?」
「厳密に言えば違う。この先そういうことがあるとしたら、わたしときみに都合の悪い状況ができて、わたしが表でそれを潰しきれないとき、と考えていい」
う、それだと断り切れないかも。けっこうフェアだ。
「じゃあ……ぼくと伯爵家を敵に回さない、というのは? さきほど、守るためだけかどうかはともかく、と申しあげたはずですが?」
「きみは合理的な人間だ。だが、その根っこにあるものが近しいものへの情、という矛盾を抱えている。きみの合理的な判断は、きみの根幹に近い部分であればあるほど、情の影響を受ける。だから、きみに敵対されないためには、きみの身内になってしまうのがいいんじゃないかと思ったのだよ。そして、きみがどういう立場に立とうが、ド・リヴィエール伯爵家は最後まできみを守る。それを考えても、やはりきみの身内になることは悪い選択肢じゃない」
すげえよ。なにがすげえって、子供相手にここまでぶっちゃけられる肝の据わり方がすげえ。この人こそ、敵に回すとやっかいなことになる人だよね。
「おっしゃりたいことはわかりました。ただ、いままで伺ったことは、侯爵の利益になることばかりです。ぼくにはどのような利益があるのでしょう?」
「きみもまっすぐに食いこんでくるね。ベアトでは不満かな?」
どうみても本気では言ってないよね、この人も。ぼくのメリットには、わざと触れないようにしているみたいだ。まだ試されているってワケか。よほどその奥に、おもしろいものがあるのかな?
「侯爵がおっしゃったことをそのまま受けとれば、ベアトリーチェさんは侯爵がぼくの身内になるための道具です。道具は取引の秤には乗りませんよ?」
侯爵は心からおかしそうに笑った。
「ハハハ、すごいね、きみは。あの子にはすでにいくつもの結婚の申し込みが来ているんだよ。王家もその中に入っている。そのベアトを道具と言いきるとは!」
だから、道具にしたのはあなたですって。
「侯爵の許しを得ずにベアトリーチェさんをさらっていって侯爵とは敵対する、という選択肢もありますよ? たぶん、彼女は乗ってくれると思うんですが……」
「待て待て待て。それはやめてくれ。それでは話が逆だ。わたしはベアトの身内を敵にはできん」
「では、お聞かせ願います」
「ちょっと待っていてくれたまえ」
侯爵が馬車の扉を開けてなにやら合図をした。ほどなく、二人の若い男女が乗りこんできた。この期に及んで、他人を同席させるのはどういうことだ?
「きみは年齢にそぐわない人材を抱えているようだ。だが、活動の幅をひろげようとすると、手が足りなくなるのを感じてはいないか?」
このふたりを仲間に推薦する、とでも言うのだろうか? ここまでぼくの感性をけっこうくすぐってきた侯爵にしては凡庸な手だ。推薦があろうが、そう簡単に見知らぬ人間を受け入れられるはずがない。
「ぼくは自分の目で見きわめた人間としか行動をともにしないんですが?」
「それは当然だ。背中を見知らぬ人間に任せるとしたら、そいつは自殺志願者だよ」
「じゃあ、なにを?」
「すでに気づいていると思うが、わたしは比較的情報に強いと言われている」
比較的、じゃねーし。圧倒的な情報力だと思うぞ。
「このふたり、名をカデル・フォーレとシンシア・ザベルという。いま、わたしがあぶない橋を渡っても欲しいと思う情報を取るときに使っている」
二人は無言でぼくに頭を下げた。特段の強い印象を与えない二人だが、その任務を考えると、逆に凄みが感じられてくる。それに、この様子ではここに自分たちがいる理由がわかっているようだ。わかっていないのはぼくだけだ。
「ここにいるのは二人だが、それぞれが部下を使って仕事をしている。どんな部下が何人いるのか、どのように仕事をしているのか、それはわたしも知らん。結果を出せばやり方は問わないし、これまではその結果を出してきている。王宮の情報局よりはよっぽど役に立つこのふたりを、きみに任せるよ。基本の報酬はいままでどおりわたしが出す。仕事ごとの経費はそちらで出してくれ。それも引き受けてもいいんだが、請求のたびにわたしと接触するのも面倒だろうし、目端の利くヤツに疑いをもたれてもつまらん」
激しく心が動いた。情報収集はいまのぼくたちのネックだ。情報集めに人を出すと、本隊がスカスカになるのだ。それに、全部丸抱え、というよりも信頼は置ける話だ。
「報酬が侯爵から、ということは、最後の最後で侯爵の都合が優先しませんか?」
「このふたりは身分は奴隷でね。そのあたりは契約で縛ることができる。彼らの力がどうしても欲しいときは、きみを通じることにするよ」
それなら、侯爵の欲しい情報を通じて弱みを握ることも可能だ。というか、それを言いたいのだろう。
「それに、わたしが信用できないと感じたら、ベアトにすべて話すといい。ふたりの仕事のしかたをベアトが知ったら、一生口をきいてくれないかもしれないからね」
こ、この親バカが……。どこまで話をまともに受けとっていいのかわからなくなるじゃないか!
お読みいただいた方へ。心からの感謝を!
さて、ベアトリーチェの運命やいかに。




