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8-11 ニスケス侯爵

ベアトリーチェのおうちに乗りこみます。さて何が飛び出してくるでしょうか?

「アンリ様にこのような用事でお供させていただく日が来るとは、このジョフレ、これでなにも思い残すことはございません」


 ニスケス侯爵の屋敷に向かう馬車の中で、ジョフレは目に手布を当て、涙ぐみながらそう言った。


「このような用事って、同級生の父親に呼ばれただけだよ! 明日にも死にそうなことをいわないでよ!」




 ジョフレは歳は六十を少し越えたところだろうか、たしかにこの世界では比較的長く生きているほうではある。祖父の代からうちの王都屋敷の執事として仕えてくれているが、ロベールも「カルターナは万事ばんじジョフレにまかせておけば心配ない」と折に触れて言っているし、実質上いまの屋敷のトップであるフェリペ兄様も、心から彼を頼りにしている。そう簡単に死なれては困る。


 ジョフレは、ジルのところのセバスチャンとはタイプが違うが、気配りは完璧でやり過ぎない、という執事の鏡のような男である。その有能この上ない男の唯一の欠点が、この芝居がかった物言いと涙もろいところだ。


「さすがにこの老体、アンリ様が御結婚されるまではつまいと思っておりました。それがフェリペ様やジョルジュ様よりも先に……」


 また手布を目に当てる。たしかに、孫のフリッツがぼくとおない歳ということもあってか、ジョフレは昔からぼくを可愛がってくれた。フリッツとも仲はいい。


「いや、だから結婚とかそういう話じゃないんだってば」


「いえいえ、なんでもお嬢様の話を耳にされたニスケス侯爵が、必死に止めるお嬢様を振り切って、自らアンリ様を招待することにされたとか」


 へえ、ベアトリーチェは止めてくれたのか……って、なに、いまの超コンフィデンシャル情報?!


「ジョ……ジョフレ、どこからそんな話を?」


「アンリ様、執事には執事の世界がございます。そこには、当主同士の話には決して出てこないような情報もあるのですよ。よく覚えておいてください」


 たぶん、この情報は聞こえてきた情報ではない。聞きこんできてくれたのだ。ほんの二日足らずのあいだに、ぼくが頭に入れておいたほうがよい情報を入手し、提供してくれるジョフレは、やはり超一流だ。


 ベアトリーチェが、ぼくの都合もかまわず父親にぼくを招待させたのであれば、彼女に対するぼくの警戒心は上がる。だがいまのひと言で、こういう招待をぼくが歓迎するかどうかを、彼女が理解していることがわかった。そして、ただの親バカでなく父親自身がなぜかぼくに関心を持ったという事実もだ。いや、娘に甘いのもきっと事実なんだろうけどね。


「いま、わたしはアンリ様に自分が得た情報をお教えしました。それは、そうすることがアンリ様だけでなく、伯爵家にとって良いことだと考えたからです。執事が、執事の世界で得た情報をすべて主人に教えるとは限らないということも、よく覚えておいてくださいませ」


 そう言ってジョフレは片目をつぶってみせた。本当にすごい人だよ、あなた。




 昨日、ぼくはジルの小屋を訪ねてみた。ひさしぶりに一人でのんびりしていたジルは、ぼくを甘いお菓子で歓待した。ホントに甘いものが好きだね、この人。


「ニスケスがおまえさんを屋敷に招待したと?」


「うん。ベアトリーチェから『家に来て欲しい』とは言われてたんだけど、まさかこんな大事おおごとになるとは思わなかったよ。侯爵が十三歳の子供を正式に招待するとか、いじめだよね?」


「あやつらしくないことをするの。こりゃ『これ以上娘に近づくな』か『娘に不満があるとは言わんだろうな』のどっちかじゃな」


「どっちにしても詰んでるよ!」


「ニスケスは気配りの行き届いた人間じゃ。いきなり人を正式招待という形で呼びつけるなんてことはしそうにないんじゃがな。気づかないうちに恨みを買ったおぼえとかないかの?」


「あるはずないよ!」


「まあええ。ニスケスのことを訊きにきたんじゃろ? できる範囲で教えてやるわい」




 ジルからきいた話によると、ニスケス侯爵はロベールより二つ歳下で、学舎は総合課程を修了している。数少ない男生徒の代表だったそうだ。代々財務畑を牛耳っている家柄で、彼が学舎卒業後に財務局に入ったときのトップが、彼の父親だったそうだ。ちなみに、いまはニスケス侯爵がトップだが、長男のエミリオがやはり財務局にいる。こちらはジョルジュ兄様と同い年だ。


 夫人は二人。第一夫人のパウラ様がフェーブル公爵家の次女で、エミリオとベアトリーチェの実母、第二夫人のルシエラ様がロンゴ伯爵家の長女で、ベアトリーチェの姉、エミリオの妹であるシルビアと、弟のエリアスの母だ。二人の関係は良い。シルビアはつい最近モーリア侯爵の長男レイモンと婚約したばかり。エリアスは来年学舎に入学する。




「気楽に行ってこい、といってもムリじゃろうな」


「あたりまえだよ! もう昨日から胃が痛くて……」


「ニスケスのところの料理人は腕がええぞ? せめて堪能してくるんじゃな」


「胃が痛いって言ってるじゃん! 料理どころじゃないよ!」


「それぐらいのつもりでいけ、ということじゃ。どういう料理でもてなすかでも、ニスケスの真意がわかるかもしれんからな」


 貴族の探りあいというのは、そういうところから始まるのか。まだまだ勉強しなきゃいけないことが多いな。



 ニスケス侯爵の屋敷の前では、侯爵家の執事が僕たちを待っていた。遠目で馬車についている伯爵家の紋章を確認すると、頭を下げて馬車が止まるのを待った。


 先に降りたジョフレと一言二言かわすと、少し遅れて馬車から降りたぼくに一礼し、先導して屋敷の中に案内した。


 案内された部屋に入ると、そこではベアトリーチェの兄のエミリオ様と姉のシルビア様が迎えてくれた。ぼくはシルビア様に婚約のお祝いの言葉を言い、持たされていたお祝いの品を控えていたメイドに手渡す。しばらく雑談をした後、エミリオ様の案内で応接間に向かう。そこで、ニスケス侯爵とベアトリーチェが待っていた。




 そろそろ勘弁してほしい。こういったまわりくどいプロセスを経ながら、貴族は腹の探り合いをしていくわけだが、ニスケス侯爵に興味があるわけではないぼくは、一方的に探られるばっかりだ。十三歳の子供にこれは拷問に近い。


 侯爵がにこやかに笑いを浮かべてぼくを迎える。その笑顔は邪気のない気持ちのいい笑顔であり、好感の持てるものだったが、気の毒なのは侯爵のうしろにいるベアトリーチェだ。


 今日のベアトリーチェは学舎での制服姿とは違う、素材の上質さがわかるサラリとした濃いブルーのドレスに身を包んでいる。ゆったりとした作りのように見えて、微妙に身体にドレスがまとわりつき、体形をくっきりと浮かび上がらせる、非常に優秀なデザインである。彼女の端正な美貌がよく映える。


 だが、そのベアトリーチェはかわいそうなくらいに萎縮している。おそらく、こういう状況を作ってしまったすべての責任を、ひとりで背負いこんでしまっているつもりなのだろう。おい親父! 娘にこんな表情をさせちゃダメだろうが!


 言えないけどね。




 テーブルにぼくがつき、続いてベアトリーチェ、シルビオ様、エミリア様、ニスケス侯爵と着席して食事が始まった。学舎のこと、父様や兄様たちのこと、伯爵領のこと、王宮でのちょっとした事件など、あれこれ話題を移しながら食事は進んでいく。ちなみに料理は本当に美味しい。味わう余裕があろうがなかろうがわかるおいしさだ。


 侯爵はイネスとアウグスト殿下が婚約したことも聞き込んでいて、お祝いをいただきつつそのいきさつも訊かれたりした。ごく当たり前の貴族の会食だ。主賓が十三歳の子供であることと、ベアトリーチェが硬い笑顔を浮かべつつ、ほとんど泣きそうだったことを覗けば。




 デザートが終わると、場が動き始めた。シルビオ様とエミリア様は、それぞれに侯爵に何ごとか耳打ちすると、非礼を詫びつつ退出した。食事を最後までともにしたんだから、非礼でも何でもないけどね。なにか芝居がかっている。


 侯爵がベアトリーチェに応接でコーヒーを用意させるように言うと、彼女は頷いて大食堂を出る。これで、ここにはぼくと侯爵の二人だけだ。


「すこし話がしたいんだが、いいかね?」


 そう来るとは思った。侯爵の話し方は先ほどまでと変わらないが、幾分口調が硬い。ここから本題、ということだろう。


「もちろんです」


 勧められるままに、食卓の横にあるソファに腰を下ろす。


「すまなかったね、いろいろ試すような目にあわせて。不快だったろう。この通り、謝罪するよ」


「とんでもありません。楽しい時間をいただきました」


 予想した話の内容が内容だったので、今日はマナー的に一切文句が出ないようにふるまうことは決めていた。だから、侯爵がくださった時間はすべて楽しい時間だ。そうでなければならない。


「そう言ってもらえると助かるよ」


 言葉を切った侯爵の柔和な目が、幾分厳しい光を帯びた気がした。


「きみは一回生の時に、ギエルダニアの騎士養成学校との交流行事に補助として参加していたね? そのとき、むこうにローリエという生徒がいたのを覚えているかい?」


 なぜこの話題が出てくる?


「はい。二回生でありながらみなを救った英雄でしたから」


「彼はそのあと、二回飛び級をして十三歳で近衛騎士団に任官されたそうだけどね、病気で騎士団を退いたそうだ」


「そうだったんですか。やっぱりすごい人だったんですね」


 いま、ぼくの頭にはものすごいボリュームで警鐘が鳴っている。まずい。何がまずいかはわからないが、かなり危険なところにぼくは足を突っこんでいる気がする。


「このカルターナで似たひとを見かけた、という話があるんだが、きみはなにか知らないかい? 女性の姿だったそうだから、他人の空似だろうとは思うけどね」


「いえ、本当であれば、すごく会いたいですけど」


 ヤバいヤバいヤバいヤバい。きっとこの人はまだタマを隠し持ってる。


「そうだろうね。ところで話は変わるが、きみはこの街にいるリアンという冒険者について聞いたことはないかい?」


 ちがう。この人はただの財務畑の有能な官僚じゃない。たしかに金も握っているかもしれないが、きっと、この人が本当に握っているのは情報だ。この人はドルニエでもっとも危険な人のひとりだ。ベアトリーチェ、とんでもないところにぼくを連れてきてくれちゃったね!


お読みいただいた方へ。心からの感謝を!


とんでもない方向に話が行ってしまいました。アンリくんはどう切り抜けるでしょうか?

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