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8-4  殿下の金星

前回書く予定だったイネスと殿下の勝負、堂々決着

 アウグスト殿下は正面から全力でイネスに打ちこんだ。イネスにとっては、なんの問題もなく防げる一撃だが、単純な力だけなら殿下の方が上だ。はじき返すのは困難で、一度動きが止まる。そこからが勝負だと、ぼくは殿下に何度か言っていた。




「イネス姉様が強いのは、流れの中で、相手の意表を突く一手を出せるからです。あの夜の襲撃のとき、とどめの直前に彼女が相手に剣を深く突き刺したのをおぼえていますか?」


「ああ、あの斬り合いはすべておぼえている」


「イネス姉様の剣をよく知ってるぼくですら、あの瞬間は『マズい!』と思いました。だけど、彼女は自分の頼る剣をあっさり手放して、短剣でとどめを刺した。柔軟な発想が彼女の強みなんです」


「そうだったな。あのまま剣を抜くのに手間取っていたら、危なかったはずだ」


「とにかく動きながら勝負しようとしないこと。とにかく流れを切り続けて、イネス姉様の次の手を読みやすい状況に自分を置いてください。次の手が読めれば、防ぐだけならなんとでもなります」


「うむ、わかる。わかるが、どうもすっきりしない。最初から引き分けに持ちこむことだけを考えていて、イネスさんは評価してくれるのだろうか?」


「じゃあ、男らしく勝負を挑んで負けますか? ぼくはそれでもいいんですけど」


「アンリくん、そんなことを言わないでくれ給え! わかった。わたしのプライドはドブに捨ててしまおう」


「それでこそアウグスト様です」


「どういう意味かな!?」




 ぶち当たって、離れて、イネスが突いて、アウグスト殿下がそれを払い、あるいはいなしてぶち当たる。離れて、イネスが横腹を狙い、アウグスト様が防ぎ、またぶち当たる。そんな無骨なやりとりが何度も繰り返され、ぼくはついにイネスの目に苛立ちが浮かぶのを見た。アウグスト殿下、次、来ますよ。


 イネスが出した何度目かの突きをアウグスト殿下は払ってみせ、またぶち当たりに行く。イネスはそこまでと同じく当たりに行くとみせて、右に少しずれて姿勢を下げ、下からアウグスト殿下の体勢を崩しに来た。


 アウグスト殿下は、ぶち当たりに行った勢いのまま、強引に身体を左にひねり、斜め下から迫るイネスの顔に向けて肘を打ち下ろす。マリエールとシャルロット様が短い悲鳴を上げた。女の子にとって顔は命だもんな。


 イネスはアウグスト様の横を抜けるように身体を倒し、一回転して立ち上がって構え直す。二人の距離は開始時と同じくらいに開いている。しばらく見合ったあと、イネスがぼくを見た。


「そこまで。引き分けです」


 イネスは大きく息を吐き、アウグスト殿下は糸が切れたようにしりもちをついた。マリエールとシャルロット様はキャッキャとはしゃぎながら拍手している。ぼくはぼくでホッとしている。アウグスト様に指南役を買って出ておいて、引き分けさせることができなかったら、面目が立たないもん。


 イネスと目が合った。ぼくは肩をすくめてみせたのだが、ちょっと睨まれた。これはあとでちょっと文句を言われるな。




あとではなかった。部屋に戻ると、着替えをすませたイネスが速攻でやってきた。そして、文句を言う前に、いきなり一発グーで殴ってきた。けっこう痛い。


「よくも余計なことをしてくれたわね。一撃一撃にあんたの影がちらついてたわ」


「練習相手になっただけだよ。どう戦うかを決めたのはアウグスト様だし」


「なに言ってんの。アウグスト様が自分の頭で、あんな姑息な戦い方を思いつくわけないでしょ?」


 ほめてるんだか、けなしてるんだか。


「でも、イネス姉も勉強になったろ? 負けないための剣もあるんだよ」


 これは実際、ビットーリオが来てから学んだことでもある。一度立ち会ってみて、シルドラが「フェリペ兄様でも勝ちきれるか」といったのがよくわかった。発想が根本から違うんだよね。


 イネスが拗ねたような表情になった。


「勉強になったって、結婚しちゃったら役に立たないじゃない」


「大丈夫だよ。アウグスト様なら、イネス姉から剣を取り上げるようなことはしないって。そんなことをしようとしたら、ぼくがアウグスト様からイネス姉を取り返してあげるからさ」


「絶対よ?」


 上目遣いでぼくを見るイネスは、これまで見たことがないくらい弱々しくて、女の顔をしていた。ぼくはイネスを抱きしめて髪を撫でた。イネスの匂いと汗の匂いが入り交じった不思議な香りがした。




「アンリくん、きみのおかげだよ。ぼくはどれだけ感謝しても足りない」


 かねてからの約束どおり、イネスはアウグスト殿下との結婚を前向きに考えることを、マリエールの前で宣言した。いますぐ、という話ではないし、そもそも正式な婚約にすら至っていない。それに、考えなければならないことはたくさんある


 なにしろアウグスト殿下は他国の皇族である。殿下自身はあのとおりユルいひとで、うちの領地に居を構えてもいいとか言っているが、そう簡単に決められることではない。殿下自身は皇位に色気はないにしても、上の二人に男児が生まれずにイネスが男児を産んでしまったりすると、途端にややこしい話に巻きこまれる。


 だが、船が進み始めたことは間違いない。


「アウグスト様が頑張られた結果ですよ。ぼくこそ、いろいろ失礼なことを言ったりして申し訳ありませんでした」


「気にしないでくれ。きみの叱咤しったがあったからここまで来られたんだ。それに、きみはいずれわたしの義弟になるんだ。あまり堅苦しいことをを考えないでほしい」


「フェリペ兄様も驚くでしょうね」


「ああ、応援はしてくれていたが、今回決着がつくとは思っていないようだったからな」


 アウグスト殿下はぼくと目を合わせ、盛大に笑いはじめた。


「アウグスト様、ひとつだけお願いがあります。イネス姉様から剣を取り上げることだけはしないでくださいね」


「当然だ。彼女は剣とともにあってこそ輝くのだからな」


 うん、大丈夫そうだね。




 マリエール、そしてシャルロット様のまわりも上を下への大騒ぎになった。もちろん、アウグスト殿下がイネスにご執心であることは二人とも知っていた。しかし、ぼくが思っていたとおり、二人の勝負に結婚などという大それたものがかかっていたとは、想像もしていなかったのだ。


 最終的には応援団であればいいシャルロット様と違い、マリエールは他国の皇族に実の娘を嫁がせるわけである。さすがに目の色が違っていた。すぐにどうこういうわけではないが、それでもやることはヤマほどある。そしてマリエールが忙しくなればなるほど、タニアも忙しくなる。トレーニングのメニューは渡されているとはいえ、そばで監視されているのとないのではプレッシャーが違う。風はぼく向きだ。




アウグスト殿下の件がぶじに一件落着して、ようやくぼくに本当の長期休暇がやってきた。実家にはあと二十日ほど滞在する。いろんなことに挑戦できそうな気がするね。


「アンリ様、おりいってご相談があります」


 リュミエラが深刻な表情でそう言った。


「どうしたの? 殿下の問題は片付いたし、マルコは放っておけばいいし、あとは気楽にすごせるんじゃない?」


「お金が足りません」


 衝撃のひとことだった。




 今回リュミエラが持参したのは、三人分の往復の馬車代、宿泊費、食費プラスアルファだ。無駄づかいをするメンツではないし、充分なはずだった。


 誤算だったのは、こちらに来て早々にニケが仲間入りしてしまったことだ。一人分の帰りの馬車代、宿泊費、食費が余分にかかる。そしてこの食費が実はシャレにならないそうなのだ。


 たしかに猫耳少女ニケはリュミエラとほとんど変わらないサイズだが、彼女の本当の姿はあくまで猫魔のそれ。つまりグリズリー級の大きさの肉食獣である。すでに一人分の食費とプラスアルファの分を食い尽くしてしまい、今後は赤字が広がる一方だという。


「ニケさんには自給自足をお願いしましょうか?」


 それであれば、いま決断すればなんとかなる。しかし、それは自分の矜持きょうじが許さない。


「ごはんはめんどうみるって言っちゃったし、それをもう反故にするっていうのもみっともないと思わない?」


「心情的には異論はないのですが、現実の問題が……」


 その通り、ぼくは現実を見なければならない。なにしろ、ぼくは実家だからどうにでもなるのだ。現実に宿代が払えなくなって悲惨な目にあうのは彼女たちだ。仲間にそんな思いをさせて平気な顔をしているのでは、誰もついてこない。


 だからといって、実家に泣きつくのも違う。泣きつけば問題なく出してくれるだろうが、それは必ずタニアの知るところとなる。同じ理由で、タニアにゲートを使わせてもらうのもダメだ。そっちが本当の理由だろう、とか聞こえてきそうだが、そんなことは決してない。


「稼ぎに行くにしても、人数的に少し不安だよね」


 リュミエラとローラはともかく、テルマとニケは戦い方がわからない。相手によっては不安が残る。


「ギルドにも行ってみましたが、このあたりの仕事だとちょっと地味という感じです」


「近くに遺跡がある。まだほとんど未踏」


 テルマだ。だんだんこのパターンにも慣れてきた。


「なんでほとんど踏破されていないのですか?」


「たぶん厳しい罠がある。女王国のギルドから何人か行った。誰も帰ってこない」


「それ、シャレにならない厳しさ、ってことじゃない? 慣れてない五人で行くのは、ちょっと苦しいんじゃないかな? せめてシルドラがいれば……」


 凶悪な罠が予想されるなら、腕のいい斥候は必須だ。それはオンゲの鉄則。死んでもペナ払うだけのあの世界でもそうなのだ。死んだら終わりのここでは、見切り発車は地獄への片道切符だ。


「なら呼んでくる」


 え? いまなんて?


「一日待つ」


「ちょ、ちょいテルマ!」


 すでにどこかに転移したあとだった。


「女王国のどこにいるか、わからないはずなんだけど。ホントに連れてきちゃうと思う?」


 リュミエラは曖昧な笑みを浮かべた。


「テルマさんですから」

お読みいただいた方へ。心からの感謝を!


こう決着させてなお、イネスが結婚する実感が出てこない作者です。

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