8-2 タニアとテルマ
のんびり実家に帰るはずだったのに……なんて思ってるひとは誰もいませんよね。アンリ本人がおもってないんですから。
二日後には夏期休暇に入るというある四の日の午後、図書館に行くとベアトリーチェがこちらに向かって手を振っていた。逆はよくあるのだが、このパターンは珍しい。
閲覧室で話しこむのもなんなので、二人で外に出た。
「どうしたの?」
「あのね、改めてお礼を言おうと思ったの。今期はほんとうにいろいろありがとう」
「ぼくは何もしてないよ。ジルとセバスチャンさんに丸投げしちゃったし、ベアトに才能があるから、ジルたちも気合いが入ったんだろうしね」
「アンリくんがザカリアス様たちにお願いしてくれてなかったら、わたしはたぶん身体をこわしちゃってたと思う。時間に余裕が出来て、初めてそれに気づいたの。だから、やっぱりアンリくんのおかげ」
「じゃあ、その気持ちは受け取っておくよ。で、どういたしまして、かな?」
「受け取ってくれるのね? それじゃ、来期が始まる前に一度、わたしの家に来てくれる?」
「え?」
「言葉だけじゃ、わたしの気が済まないの。だめかしら?」
ベアトリーチェは、手を胸の前で組んで上目遣いで見上げる、という反則ワザを使いながら言った。
貴族にとって、自分の住居に他人を迎え入れるというのは、日本で考えるよりもはるかに重い意味を持つ。相手を懐に入れて、無防備な状態をさらさなければならないからだ。そうでなければ、逆に失礼にあたる。
いかに学友といえど、これはベアトリーチェの一存で決められることではない。すでにニスケス侯爵まで話はとおっているはずだ。つまり、ニスケス侯爵家からの招待として考えなければならない。受けるにしても断るにしても、あとあとに影響が残る。ぼく自身のことを考えても、実家のことを考えても、財務に大きな力を持つニスケス侯爵の招待を断ったという事実が良い方向に働くことはありえない。
加えて、ぼくは感謝の気持ちを受け取ると言ってしまった。とどめがこの反則ワザのポーズだ。断れるはずがない。
「ありがとう。喜んでご招待にあずかるよ。六の日から領地に帰るから、その後でお願いできる?」
「わかった。来期が始まる、少し前にしておくね。楽しみにしてるから」
彼女は極上の笑顔を浮かべ、手を振って図書館に戻っていった
ぼくは、学舎に入って以来、たぶん初めての完敗を喫した。ベアトリーチェはおそらく無意識で、自分の持つすべてを使ってぼくを動かしたのだ。ないとは思うが、意識してやっていたとすれば、それこそ末恐ろしい。きみは思っていた以上にすごい子だよ。
「アンリくーん、淋しかったよぉ!」
領地の本邸ではシャルロット様とマリエールが出迎えてくれたが、シャルロット様に挨拶をしようと思った矢先、アウグスト殿下とマルコがいる前でマリエールが思いっきり抱きついてきた。二人とも口をあんぐりと開けて固まっている。ちなみにぼくもだ。
「シャルロット様、どうぞ!」
ひとしきりぼくをカイグリカイグリしたマリエールは、固まったままのぼくをシャルロット様の方に押しやった。すると、こんどはシャルロット様がぼくを抱き寄せて、ボリュームたっぷりの胸に押しつける。
「アンリくん、お帰りなさい。ここにいる間は、こちらにも遊びに来てね」
「シャルロット様にアンリくんを少し貸してさしあげることになってるから、頑張って親孝行してね、二人分」
なんと、勝手に人身貸借が行われることになっていた。
本邸の方で、シャルロット様も交えて軽い夕食をとった後、ぼくはマリエールとマルコといっしょに別邸に引き上げた。アウグスト殿下は、ああいう人ではあるが皇家の人であることには違いないので、儀礼上最大級のもてなしが必要だ。よって本邸の方に滞在する。
別邸の方ではタニアが出迎えてくれた。こちらの方は、うかつに抱きついたりすると、予告なしで消滅させられそうな雰囲気だ。つまり平常運転である。
「すげえな、おまえんちのメイドの迫力」
マルコも、なにかが違うことを感じとったらしい。
ぼくが久しぶりの自分の部屋に落ちつくと、タニアがお茶を持ってきてくれた。
「アンリ様、お疲れさまでした。今回はわたしの訓練を受けるためにお戻りになったと考えてよろしいですか?」
「いやいやいや、マルコの付き添いとアウグスト殿下の補助だから! 最初は帰ってくる予定もなかったから!」
「そのふたつの件では、アンリ様がなさることはほとんどないかと存じます。空き時間を無駄にされるおつもりだとおっしゃいますか?」
「……わかりました」
そう答える以外に、ぼくにどういう選択肢があるだろうか?
「それから、昨日から街の『三匹の豹邸』に若い娘が三人滞在している、という噂が伝わって参りましたが、まさか、また?」
「三匹の豹邸」は、このあたりでいちばん大きな宿だ。たしかに、しょせんは地方都市のここに若い女性だけの三人組があらわれれば、非常に目立つだろう。たとえそのうちの一人が実は三百歳前後であってもだ。
タニアの問いには違うと答えたいが、ローラがいる以上、そうとも言い切れないのがつらい。
「それなんだけど、ちょっといまから外出できない? そのうちの一人はリュミエラで、残りの二人のうちの一人はタニアを知っている人なんだ」
「なるほど。なにやらあまり良い予感はいたしませんが、おつきあいいたしましょう」
タニアはぼくをともなって、屋敷の外に転移した。
「三匹の豹邸」に向かう途中、タニアがふと立ち止まった。
「アンリ様、わたしを知っている人というのが誰なのか、屋敷を出る前に教えてくださらなかったのは、なにかのお考えがあってのことでしょうか?」
「え、そ、そんなことはないよ?」
言ったら絶対来ないような気がしたなんてことは絶対ない。返事が疑問系になってしまっているのも気のせいだ。
「そうですか。教えない方がよいと思ったからではないかという気がしたのですが、その辺は後でじっくり話し合いましょう。とりあえず、わたしのうしろにお回りください」
すごく背筋がゾクゾクしたが、言われたとおりタニアの背中の方に移動した。それと同時にタニアがありえないくらいの分厚さの魔力のシールドを展開し、そこにありえないくらいの大きさの魔力の塊が激突した。腹の底に響くぐらいの激突音がとどろき、閃光が薄暗くなっていた周辺を一瞬だけ昼よりも明るくした。
眩んだ目が落ちついたと思ったら、そこにはテルマが、無表情ではあるが険のない雰囲気で立っていた。あの魔力の激突の後、普通に向かい合っているのが信じられない。
「ノスフィリアリ、久しぶり」
おまけに普通に話まではじめたぞ。ひょっとして、さっきのは日本でもやるハイタッチの挨拶のようなものだったりするのか? 命がけのハイタッチだな。
タニアは深々とため息をついたあと、ぼくをにらみつけた。
「おわかりでしょうが、よろしいですね?」
うん、これは本当にヤバいね。何回くらい死ねるかな。
「で、テルマはいままでどこをほっつき歩いていたんですか? 五十年ほど前にあなたのお父上から、見かけたら知らせてほしい、お灸を据えてやると言われていたのですが」
「放っておいていい。どうせわたしに勝てない。最後に負けたのは百五十年前」
五十年とか百五十年とか、この二人はどういうタイムスパンで話をしているのだろうか。
「で、なにをしていたのです?」
「シルドラを探しながら冒険者を鍛えてた。シルドラに似てておもしろい子だった」
ジュゼッペとテルマさんの関係はそういうことだったのか。だが、シルドラを発見したいま、どうなるのだろう? 予定変更でシュルツクに行った、と言ってたけど、ひょっとしたらこのままジュゼッペさん用済み?
「あなたは昔からシルドラにべったりでしたからね。あなたが過保護だから、シルドラのちょっと抜けたところがなくならないのですよ」
「ノスフィリアリもおもしろいことをしている。アンリはよい生徒」
「七年間鍛えましたからね。これ以上は伸びないのがなんとも情けないですが」
「リュミエラとローラも面白い。あれもあなた?」
あ、ちょっとテルマさん、その話題はいまは勘弁!
「リュミエラは少し鍛えましたが……アンリ様、ローラとは誰でしょう?」
「えーとですね、ちょっと前にベアトリーチェの件でタニアにキツく指導してもらったけど、そのときに話に出たローリエが……」
「ローラとなって、正真正銘の女として戻ってきたとでも?」
エスパーですか、タニアさん?
「はい」
「最悪ではないですか。いったいどう収拾をつけるおつもりですか?」
「ごめんなさい。もう少し時間をください。うまく調整すべく鋭意努力中です」
「何を政務貴族が国王に問い詰められた時のようなことを言っているのですか、まったく。しかたがありません。とりあえず『三匹の豹邸』に行きますよ。テルマもいいですか?」
「問題ない」
スタスタとタニアとテルマは歩き始めた。ぼくはそのうしろを白砂に引き出される罪人のように背を丸めてトボトボとついていった。
「ご無沙汰しております、タニア様」
タニアとテルマが部屋に入ると、リュミエラはすぐに立ち上がって頭を下げた。
「久しぶりですね。教えたことは続けていますか?」
リュミエラはなにやらタニアから、秘密のトレーニングを指示されているらしいぞ。少なくともぼくは、彼女がなにかを欠かさずやっている、というところに出くわしていない。
「もちろんです、タニア様」
「けっこうです。で、ローラというのはあなたですか?」
「は、はい!」
タニアとテルマは、先ほど魔力をぶつけ合った余波か、この部屋の中で圧倒的な強者のオーラを放っている。あれはこの二人にとっては、挨拶と言うより準備運動のようなものなのかもしれない。だが、そんなことはあずかり知らないローラが気圧されているとしても、しかたがないことだろう。
「少し話をしましょう。一緒に来てください」
「はい!」
ローラは少し表情をこわばらせながら、タニアについて部屋を出て行った。願わくば、カルチャーショックで壊れないでいてほしい。
「テルマはタニア……ノスフィリアリと知り合って長いの?」
「アンリたちはタニアでいい。二百年くらい。シルドラが生まれたすぐ後」
二世紀にわたるおつきあいだそうだ。
「シルドラは、どうしてタニアの眷属に?」
「シルドラはノスフィリアリを尊敬してた。あと、強くなるためにわたしから離れると言ってた」
そこまでお姉さんから離れたかったのか。
「わたしに気を使ってる。かわいい子」
テルマさん、残念ながらそれは少し違うと思います。
しばらくしてタニアがローラを連れて戻ってきた。ローラはこころなしかグッタリしている。
「剣はまあまあですが、魔法がからっきしですね。素地がないわけでもないので、鍛えれば少しは使えるようになるでしょう。テルマ、アンリ様のところにいるのであれば、あなたこの子を少しお願いできますか?」
話って、そっちの物理的な話だったの? そして、タニアに初回で「まあまあ」といわせるローラの剣って、どんだけだよ。
「問題ない」
「ローラ、あなたはよいものを持っていますが、気持ちが少しあやふやです。いままであなたを育ててきた価値観から離れる覚悟を決めてください」
「はい」
「ではアンリ様、屋敷に戻りますよ。今晩はいろいろ聞かせていただかねばならないことがありますから」
ぼくは返事をする気持ちの余裕もなく、ただタニアの後ろについて「三匹の豹邸」を出た。その夜が、ぼくにとってこれまでで最も長い夜になったことは言うまでもない。
後刻、ローラにその夜の話を聞いてみた。やはり、話は物理のみだったらしい。初めて人を斬ったあのときにすら感じなかった生命の危機を、はっきりと感じたそうだ。おまけに、覚悟の甘さも見抜かれたとか。ごくろうさま。
お読みいただいた方へ。心からの感謝を!
やはり、ゴジラ対キングギドラになってしまいました。




