⑥
日下部の出て行った店内で泉水は一人、彼を待ち続けた。すぐに店を出てもよかったし、誰かに連絡をして来てもらってもよかったのだ。でも彼女は誕生日の夜を一人で過ごすことを選んだ。時間が経つに連れ、彼のことが好きなのだと泉水は確信を得ていった。それはじわじわと、でもはっきりとわかる類の感情だった。
日付が変わり、さみしさが満たされた後、彼女は店を後にした。
結局、来なかった。身震いする寒さをしみこませながら、彼女はそう思う。同時に、もしかしたら今もなお事態の収束に動いているのかもしれない彼を想像し苦く微笑んだ。
チョコレートも渡せなかった。彼女は鞄の中にしまってあった小さな小包を手に取り、冬の空にかざしてみた。渡されなかったチョコレート。その上品で慎ましくも美しい包み紙がお気に入りだった。何となく彼女はこの小さな包みにも申し訳ない気持ちになり、もうすべてのことが申し訳なく感じてきたのだった。
―――とその時、泉水の携帯電話が鳴った―――日下部だ。
彼女はディスプレイを睨みながらもどういうわけか取るのをためらった。今はしゃんと話せる自信がない。泉水は鼻をすすりながらそう思う。
《ごめんおそくなった》
着信が途絶えた直後にメッセージが送られてくる。
《いまからむかう》
《まってて》
そんな短い言葉が矢継ぎ早に送られてくる。
でも彼女はどういうわけか、速足で店から遠ざかる。
歓楽街を抜け、踏切を渡り、街灯もない、人けの少ないほう少ないほうへと闇雲に歩を進めた。今、泉水は彼に会えなかった。会ったらきっと泣いてしまう。
《目の前、見て》
大きな交差点にたどり着いたとき、そんなメッセージが。
顔を上げると、交差点を挟んだ赤信号の下に彼の姿があった。
「―――好きです、好きになっちゃいました」
泉水は聞こえるはずのない声で彼に告白した。
間も無く信号は青に変わる。
なんて言ったの、と駆け寄ってきた日下部の胸に泉水は飛び込んだ。
「顔、ぐちゃぐちゃなんで見ないでください」
どうしようもなく涙が止まらない。
「もう日付変わっちゃいましたよ」
ごめんとだけ言い彼は力強く彼女を抱き絞める。
「く、苦しい」
本当はちっとも苦しくないのにそう言うと、優しい彼は腕の力を緩めてくれる。
「へへへ、参りました。降参です」
なんだか可笑しくなって泉水は鼻をすすりながら笑う。
「好きなんです。好きになっちゃいました。どうしようもなく」
言うだけ言って泉水は再び日下部の胸に頬を付けた。
彼が戸惑う姿を見たくなかったから。
でも彼女は自分の気持ちを告白できて、涙と一緒に募りに募った想いが一気に吐き出された気がして、清々しい気持ちになっていた。
「これ、遅くなっちゃったけど受け取ってくれますか」
泉水はそう言ってコートのポケットに入れておいた小包を取り出した。今日は素直な自分になれた。自分の気持ちを告白できた。泉水は嬉しくて、でも恥ずかしくて、彼に身を預けたままチョコレートを翳して見せたのだった。