⑤
予定がないのなら。
日下部はいつになく真剣な表情で泉水を誘った。彼女としても彼がやましいことをしているわけはないと知りつつ、弁明の一つでもしてほしいと願ってその誘いを受けたのだった。
―――今度のことはどうか内密にしてくれないか。でも同僚は、まずそう口火を切った。
「今度のことってコンドームを持っていたことですか。それとも、それを生徒に与えたこと?」
どっちも。真摯にそう答える日下部の表情には一つもやましい感情が窺えない。自分以外の誰かを守りたい意思が見て取れた。
泉水は知っていた。この同僚が生徒にコンドームを配っているという噂があることを。
「どうして」
しかしその現場を目の当たりにすると、こう訊かずにはいられなかった。
後悔していることがあるんだ。同僚は彼女の質問を見越していたようにそう告げる。
生徒が事故的に妊娠、出産してその後の人生を狂わせていく様を何度か見てきた。そして大好きなはずの酒を一口、苦そうに啜る。
もう自分の教え子が不幸になるのをみたくないんだよ。
「だからってゴムを渡すなんて…かえって恋愛を助長するかもしれないじゃないですか」
恋愛が悪いとは思ってないんだよ。恋愛はやめろと言ってやめられるものでもないし。
「じゃあ何であの子に? せがまれたら誰彼構わずあげていたら、傷つく女の子が増えるだけじゃないですか」
あいつは今、ドラフトに引っ掛かってモテモテだからな。寄ってくる女子も多い。でもだからこそ節度を持てと言って聞かせた。
「今が大切な時期だからこそ自制してもらわなくちゃいけないんじゃないですか」
恋愛禁止だと言って素直に聞き分けてくれるならそれに越したことはないんだけどね。日下部の苦笑いを見て、泉水も自分でも説得は難しいだろうと思いなおした。
人は恋することをやめられない。
不意にそんな言葉が届いて泉水は思わずドキリとしてしまう。
教師にできることなんて本当に些細なことだけなんだ。男は苦い過去を思い出したのか、歯を食いしばりながらそう言う。
「だから、最低限、重大な間違いが起きるのだけは防ぎたいと・・・」
泉水は言葉少なに語る同僚から十分すぎるほどの説得力を感じ、自ら補足することで納得した。
なんて、お誕生日にするような話じゃないわな。そう言って日下部はおどけて見せる。そして、巻き込んじゃってすまないね。と優しくグラスを彼女のグラスにぶつけてきた。
「いえいえ、もうちょっとで私も罠にかかるところだったので・・・」
なんだ、案外その気だったのか。
「そんなつもりじゃなかったですよ。でも、一方的に誘っておいてそれを反故にするなんて、なんだか振り回されるだけ振り回されてちょっと悔しいじゃなですか」
たしかに、今日は泉水ちゃん誕生日なんだもんね。日下部は申し訳なさそうに、ほんとに用事なかったの、と訊いてきた。
「誕生日だからってわけでもないんですが・・・用事もなったし、でもやっぱりそれも効いてますよね」
酔いも回り始めた泉水は、男の前で普段より少しだけ正直に弱い自分を見せられた。
「でも、今日、日下部さんが一緒にいてくれて良かった」
そして素直にそんな気持ちを零した。
オレで良かったら今日はとことん付き合うよ。
日下部にそう言われ、泉水は一瞬、背筋を伸ばし、ビールジョッキ越しに彼のことを窺った。―――思わず言っちゃったけど、今の言葉、どう受け止められたんだろう。泉水は考えれば考えるほど彼を正面から見られなくなる。
―――あ、ちょっとごめん。
そうこうしている間に携帯電話が鳴り、彼は店の外へ出て行った。
「もしかして呼び出しですか?」
戻ってくるなりそう訊いてしまう自分が泉水は嫌いだった。
ああ、でも今日は一緒にいるって言ったからさ。彼がどこまでも優しい声でそう言うから、彼女は一瞬、それに甘えたくなる―――が、再び電話がなる。
「出なくていいんですか」
想いとは裏腹にした質問に彼は、ああ、とだけ答えるが、着信はいつまでたっても鳴りやまない。
「出てください」
でもな、と困り声を出す彼は、でも電話を握りしめていた。
「私が気になるんで」
そういうと彼は気が引けながらも席を外した。
泉水は自分の中にある日下部と一緒にいたい気持ちと彼を引き留めたくない気持ちで葛藤していた。個人としては一緒にいてほしい。でも、教師としては仕事を優先してほしい。彼女はそんな彼を尊敬し、惹かれているのだから。
いやまいったな。戻ってくるなり日下部は頭を掻きながらそう言った。
「なにがあったんです?」
実はあいつがやらかしてるらしいんだ。そう言って日下部は苦笑いする。
「あいつってまさか・・・」
泉水の言葉に頷き、彼は事のあらましを説明した。電話の向こうでは泉水を口説いていた生徒がダブルブッキングを起こして修羅場になっているとのことだった。
「行ってやってください」
一緒にいたい気持ちを抑えて泉水は言ったが、同時にさみしさが沸き上がるのを感じる。
今日は一緒にいるって決めたから行かないよ。日下部は言いながら、生徒のことを心配している表情は隠しきれていなかった。
「行かないなんて日下部さんじゃないですよ」
行かないなんて、私の好きになった人のすることじゃない、と彼女は心の中で繰り返す。
彼女の言葉にもなお席を立たない男に、泉水はさみしさを募らせていく。日下部が自分のことを思ってくれればくれるほど、泉水の中のさみしさは膨れていった。
「行かないと怒ります」
切なさに押しつぶされそうになりながら、俯いた彼女は裏腹な言葉を零す。
わかった。彼は漸く腰を上げ、すぐ戻ってくるからまっててね、と言い、去り際に、必ずだよ、念を押してから店を出て行った。