②
教師になってから初めて告白された。というか、人生の中でもそんな経験は数えるほどしかなかった。だから、その現場を好きかもしれない男に見られてしまったとしても、戸惑いの中にあるうれしさを否定できない自分がいた。
泉水は正直に事の顛末を日下部に話し、相談に乗ってもらう体で新年会シーズンで賑わう飲み屋街に誘い出していた。
嬉しかった?
「そんなこと・・・」
あるわなー、と言って同僚は笑う。
泉水は釈然としない気持ちをビールで流し込んだ。
人に好きって言ってもらうのは、素直にうれしいことだと思うよ。
そんなことを平気で言ってキザに聞こえないのはきっとこの人くらいだろう。そう泉水は思い、少しこの男に見惚れてしまう。
「で、でも、私は教師ですし・・・」
本当に好きならそんなこと関係ないよ。
本当に私が好きなのは・・・誰だろう―――彼女は大根おでんをつつく日下部を一瞥して、慌てて卵を頬張る。煮締まった卵の黄身が彼女の胸を詰まらせた。
こらこら、慌てなさんな。そう言って日下部は泉水の背中を擦る―――彼女は照れを隠すようにビールをまた煽る。
「そもそも私、もう三十ですよ?」
年の差なんて、と言って彼は笑う。
「日下部さんは、年の差は気にならないんですか?」
気にならないね。好きになっちまったらもう降参するしかないでしょ。満面の笑みを浮かべる男性に、泉水は思わず告白されたことに感謝した。
自分の気になっている人の恋愛観について当人からこんなに自然に答えを引き出せるシチュエーションなど他にあるだろうか。それでも一方で彼女はむなしさを抱かざるを得なかった。好きかもしれない人が既婚者で、大きな子供までいるのだから。仄かな想いを泉水は絶対に悟られたくなかった。それは彼女自身の意地のようなものもあるが、第一、妻子のある人の家庭を乱す行為など、到底許せなかったから―――。
「―――日下部さんって指輪してないんですね」
ビールを煽る左手を何の気なしに眺めながら彼女は訊いた。改めて見ると、彼のしなやかな手には何も嵌っていない。
指輪かー、別れた時に外したんだよ、けじめで。
「別れた!? 日下部さんって離婚されてたんですか?」
あれ、言ってなかったっけ? って言っても泉水ちゃんがこの学校に来たときにはもう別れてたから言ってなかったかも。
日下部は豪快に枝豆を咀嚼しながら言い放つ。
「でも、お子さんいるって言ってたじゃないですか」
いるよ? 月1で会わせてもらってる。
子供がいるから結婚していると今の今まで思い込んでいた自分を彼女は責めた。
「元の奥様とも会われるんですか」
いや、元の女房とは子供が大きくなってからは会ってないな。日下部は固いアタリメを噛みながらそう言う。
若いころは家に戻らない日が多くてね、女房には苦労かけたから、愛想を尽かされちゃったんだよ―――そして全くの他人ごとのようにそう加えた。
ずっと心の足かせとなっていた問題が、泉水の中で音を立てて崩れ落ちた。彼女は美味しそうにビールを飲む日下部のことを改めて見る。私たちは今、二人きりなのだと考えると急にどこか恥ずかしくなり、泉水はその顔を直視できなくなった。
泉水ちゃんはカタいから、家庭を省みないような男なんて許せないだろ~。日下部はゑびす顔でビールに向かって言う。その横顔には今までの人生の中で刻まれてきた哀愁が漂っていた。彼女は多くを語らないこの男の横顔に、当時の苦労が見えたようで何も言い返せなかった。
あなたはいい子なんだから、きっといい人、見つかるからね。親のような口調で言われ、泉水は少しムッとする。
「大きなお世話です」
もう少し自分に積極的になってもいいんじゃない?
そしてこちらの気持ちなど気取らず、平気で見当ちがいの言葉を加えるものだから、泉水はこの男に憤りを感じ、憤ったまま素直な気持ちを打ち明けてやろうかという気持ちになった。
でも、まあでも、それがあなたのいいところだからね、とすかさずフォローを入れる男に、彼女は言葉を返すタイミングを逃したのだった。
―――あ、ちょっと失礼ね。
日下部は言いながら携帯電話をとり、席を立つ。
今日、席を外したのはこれで三回目だ。
ベテラン教諭にも関わらず出世を固辞して現場にこだわる姿勢や、一見チャラい外見だが面倒見がよく誰にでも分け隔てなく接する性格からか、彼にはあちこちから相談事が舞い込んできた。この日も学校から居酒屋に入るまでに一度、入ってからも二度、携帯電話が鳴った。彼はその都度、ちょっとね、と言って軽やかに電話をとり、天を仰ぎながら誰かと話した。
ごめん、呼び出しなんだわ。彼は胸ポケットに携帯電話をしまうなり、本当に申し訳なさそうにそう告げた。泉水は少なからず残念な気持ちになったがそんなところは微塵も見せず、行き先を聞くこともせずに快く同僚を送りだした。
カウンターの隣の席はまだ日下部の温もりが残っているようで、でも、次第に失われていくそれに縋ることすらできない女は、一人、舞い上がった気持ちのまま言いようのない孤独をつまみに酒をすするのだった。