B・S『イジメとイジり』(ベタ・シリアスギャグ)
「それじゃ授業を始めるぞ」
「起立、礼」
おねがいしま~す。という生徒のきれいにそろった掛け声、授業が始まる。同じ文句の掛け声でもイントネーションひとつでこうも違った言葉に聞こえて印象するものだろうか、春。新学期が始まり2週間が経つというのにいまだに何度も同じ疑問を胸に感じてぐるぐる考え込んでしまう。
関西の言葉……先生の表面上は僕にとって馴染みの多い標準語だって同じこと、イントネーションはどう考えても関西のソレ、担任の先生が受け持つ他の授業ではバリバリの関西弁が次々発せられていても気にならないというのに、下手に標準語を使って放たれていく関西のイントネーションはどうも現時点の僕には合わないらしい。そもそもそうじゃなくたって僕は社会の授業が嫌いだ、そうだ、悪いのは先生じゃなく、僕の社会嫌いにあるのかもしれない……
元々の小学校では例え英語の授業だって担任の先生がすべて受け持っていたというのに、この新しい学校では、どういう訳か社会だけ専門の志田先生が教えに来る、モデル体型のイケメン志田先生は女子だけでなく男子にも一様に好かれているようだった、しかし、僕だけはどうも好きになれないらしくて……
先生の授業は無意味な言葉としてただ僕の耳を素通りしていき何一つ内容を捉えていくことはできない、ごちゃごちゃ余計なことばかり考え続けていてそれが自分でもとても不快で仕方がないのだ……胸に黒く渦巻いているストレスがだんだん濃く大きくなって轟いていくのをひしひしと感じてしまう、教室が白く明るさを増して、靄がかかったような気配に迫られた僕は気を遠くしていく……いけない……アレが来る……大人はお酒を飲むけれど、酔っ払った人はもしかしたらこのような感覚になるのかもしれない……インフルエンザのような悪寒がゾクゾクと僕の体を占領していくのを感じて……眩しい、先生の声すら遠のいて聞こえなくなってしまったようだ。いけない。無音の世界に取り込まれている……まばゆさも目をつぶりたくなるほどに強力になっていって……だめだよ、もう限界だ。
何故!
よりによって僕はヤカンになってしまったらしい、脈絡もなくほんとに意味不明だったけど、それだけは本当らしいのだ。
ああこれまで2週間で痛感した関西っ子たちのど派手に、執拗に重箱の隅をつつくようなイジりの様が、その過程がイチイチ想起され迫り来る、どうやらヤカンという視覚も聴覚もない世界には、振動だけはしっかり知覚されるようだ、それがイメージと結びついて僕は一切の視覚情報なしに情景を正確に汲み取ってしまっているらしい。それは妄想であるのか? 恐らくその両方が混濁して出来上がったものらしいが、とても沈黙の、暗黒世界から明視した情景とは思えないほどにリアルな鮮明さを持ちえているのだ。
「おい、見てみい! 西村、急に煙吹いてヤカンになってもうたで」
「ホンマや、ヤカン、ぽつんとイスに乗っかってんで」
「なんでよりによってヤカンやねんな、なに考えててそうなったんやろ? 不思議やわ~」
「静かに、騒いだらダメだよ」
「いくらなんでもこれ見て騒がんやつおらんて先生、先生やってなんでヤカンやねんって疑問に思てるんとちゃうの?」
「ホンマやで、なあ先生? なしてコイツヤカンなんかに変身したんやろか」
「あんなん部活んときのでっかいヤカンやで、のど渇いてたんかな、まだそんなん暑ないはずやのによっぽど塩っ辛いもんでも喰うてきたんやろか」
「朝食の干物に醤油ようさん掛けすぎたんやないの」
「なあ先生、教えてや、なんでなん?」
「まあ、先生に解ることじゃないが西村には西村の事情があってのことだろう」
「事情ってなによ先生? ヤカンにならなあかん事情とかよう知らんわ」
「静かに! 授業を続けるからな」
「先生もう少しまってえや、今なに云われてもヤカンの映像しか頭に浮かばんいうねん」
あはははは~。
ホンマやホンマや……
転勤族の父を持つ僕は○○県から○○府へと越して来た、よりによって関西か、とネガティブになった。銀行員の父の前回の異動がちょうど僕が小学校に上がる年で、見栄っ張りの看護師の母が、職場の立場を優先させるせいもあって名門メタモルフォセス小学校に通うこととなった。それは今振り返ってみれば身に余る光栄だったとも思えることだしさほど後悔もなく感謝もしている。だけど悪い噂も耳にしていた、名門だけあってお金持ちの家の集まりみたいなもので、ウチなんて下っ端もいいところだった。大手企業に親が勤めているということは付随して転勤族も多いということだった。
メタモルフォセス小から関西に転校するのはハイリスクなのだ。あるひとりの生徒はメンタルも弱くストレスに打ち勝つことができずに結局父を単身赴任にさせたまま舞い戻ってきたのだ。メタモルフォセス小は確かに奇特だった。この国で『変身の術』を教育している学校は三か所しかなかった、それゆえ転校先では物珍しさから生徒たちには例外なく好奇の目に晒されるということは分かりきったことだった。しかし心折れたその生徒が云うには、他の転校先ではあり得なかったほどのリアクションがあって、そのイジり加減といったらとても抱えることのできない甚大なストレスのキャパ越えであったらしい。その生徒は幾度か他県へと移り、メタモルフォセス小へと出戻りしていたのだ。それでも単身赴任を選ばずに名門を去るという選択をするのは、メタモルフォセス小に所属していた、という事実が親たちにとっては多大な勲章だったからである。結局他の家族もウチと大差はないのだ。子は親の自尊心を満たすため身を削らねばならない、そういうことだった。
「お前メタ小出身らしいな?」
案の定、新学期初日からグイグイと迫る関西っ子たちからの質問攻めとイジり地獄の日々は始まっていった。
「すまんがウチは余所と違って単身赴任をするほど余裕もないんだ、母さんのこともあるから」
すまなそうな父の顔だった。中途採用の父は他の職員よりも稼ぎは少なかった、母の収入が高かったおかげで名門私立へと通うことはできたが、母は妊娠しているため産休を取っている状況だった。メタモルフォセス小から関西へという悪い噂は耳にしていることだと思う。親どうし話し合って決めたことらしいが、僕はそもそも家族が離れて暮らすよりは多少の困難を抱えるほうがマシだと考えていた。ただ、母にとって本心は見栄を張るための周囲がいなくなっただけで、むしろ新たなコミューンの自慢の種になるくらいだから、糸が切れたように僕の名門通いは用済みになってしまったのに違いなくて、それをまともに考えると空しくて腹立たしくもなる、だから極力考えないよう胸に誓っていた。
「なあ、変身してや、頼む、一回だけでええから」
僕は新天地でどう振る舞っていこうかと思案するばかりだった、答えのでないまま新生活は幕を開けていったのだ。
「でも」
「でもなんやねん」
声を掛けた少年とは違う、見るからに番長っぽい大柄な少年が僕を囲んだ輪の後ろから近づいて鋭い口調を僕に浴びせた。ダメ元で事情を話してみることに決める。
「変身の術はまだ未完成なんだよね」
「なんやメタ小通っててできへんのかいな」
「いや、その……変身はできるんだよ」
「それやったらええやないか、今やってみいや」
「ただしね、一度変身してみても元の姿に戻すための術をまだ習っていないんだよね」
「なんやねんそれ、変わりっぱなしいうことかいな」
「そう……なんだ」
「でも一回見してえや、みんなそう思てるからこんなようさん集まってお前を囲んでるんや」
僕は周りをゆったりと見渡す、値踏みするような冷たい視線だと思いこんでいたために、意外と純粋なキラキラとした視線を僕に向けているのだから、未熟な術のリスクも引き受けて了承することに決めた。
「わかったよ、見せてあげるから、でも放課後にしてほしいんだ、戻れないまま学校で晒されるなんて恥ずかしいし困っちゃうからさ」
放課後、部活が始まる前にギャラリーが邪魔をしないようにと校庭の隅に集められた。他の学年の子たちも噂を聞きつけ集まっているらしく優に学年の数を超す群れとなり様々なユニフォーム姿を見せていた。
「何に変身してほしいのか決めた?」
「決めたで。もうすぐオリンピックやろ、ホンモンの金メダルになってほしいねん、見てみたいんや」
「ごめん、それはできないよ」
そんなものになってみなにベタベタ触られ回されるなんて考えたらゾッとする、それに動くことができず、置き去りにされてしまうなんて悲しすぎる。
「物になる術は戻る術と同じく高度なんだよ、だから未熟な僕には滅多に成功できない術なんだ、それにうまくいっても動けなくなるから勘弁してほしいよ」
少し嘘をつきイチかバチかの賭けにでる。変身を解く術は確かに5年生からの高度な術になる、だからメタモルフォセス小を途中で去るのはかなりのリスクがあるのだ。物に変わる術は習ったばかりなのでむしろ簡単だった。嘘が通用するよう願う。
「しゃあないな、動けへんかったら帰られへんわ」
よかった、いい方に受け取ってくれた。
「じゃあ白いカラスで決定やな」
もう代案は練られてきたらしい。別の生徒が合いの手のように云ったのだ。
後に知ったが白いカラスが校庭に降りた、と一度噂になったらしく、僕の変身はうってつけだったのだ。
「白いカラス? なにそれ、悪いけど見たこともない動物には完全に成れない可能性があるよ、それでもいいの?」
「完全にいうことは逆に成れるいうことでもあるんか、白いカラスホンマに見れるんやったら少しくらい灰色や黒が混じっていても構わへんで」
「灰色や黒ってまるで鳩やんけ!」
あはははは。
一斉に爆笑した。
変身には二通りの現れ方があった。一つはこうして成りたいものへと能動的に願うもの。もう一つは成りたい訳でもないのに制御が効かずに偶然成ってしまうものだ。
いずれも変身のためにイメージを体内に溜めこんでいく過程があって特異点を越えることで変身はなされていく。 給食を食べているから大丈夫であるが、一食につき二度以上してしまえば卒倒するほど大きなエネルギーを使うのだった。いずれにしても僕は元に戻れないのだから同じ位のサイクルで次の変身の術へは移行できなかったが。変身の術からは一旦元に戻さなければ別の変身にはいけない仕組みだった。
「じゃあ、やってみるよ」
見たこともない白いカラスをイメージしていく。頭の中に映像が現れる、あの生徒の云うように実際白鳩を参考にすると案外簡単にカラスのフォルムへと融合された。
それから徐々に胸の辺りへとイメージを呼び寄せていく……胸に渦巻いていく映像がだんだん濃く大きくなって徐々に轟いていく、辺りが白く明るさを増して、靄がかかって僕は気を遠くしていく……アレが来る……
僕の体は煙を吹いて立ち消えたようだった、濃い煙が霧散して視界が急激に聳え立った、僕はカラスに成りおおせたのだと確信した。ギャラリーの脚が巨大な樹木のように僕の小さくなったカラスの体を取り囲んでいた。
「スゴイで、白いカラスや、ホンマモンやで」
ホンマやホンマや。
皆が巨大な岩の顔面で満面の笑みをこぼしている。カラスはどうやら聴覚も視覚も大丈夫なようだ。ただでさえオーバーな関西っ子のリアクションがさらにオーバーになって確認できた。
カラスの僕は調子づいてしまい得意げになって両手を掲げてみた。
「白いカラスが手え振ってるで、なんや外国の大使みたいで可愛いやんけ」
そうだった、僕はもう人間の体じゃないんだった。カラスの僕は人間とハーフハーフの意識を混濁させているのだ。
「見てみいあれ! 翼の裏に隠れてたけど、隠れた部分みな真っ黒や」
あははははは。
爆笑。ウケて嬉しいのか、笑われて哀しいのか。見えない部分を白くしそびるなんてとんだ手違いもいいとこだ、我ながら滑稽だった。
「あれやん、日焼けと真逆やで」
あははははは。
しばし僕は人気者だった。
部活の時間が来たので一様に去っていった。
飛び立って帰ろうか……アレ? 飛べないぞ。
見たこともない動物への変化の不手際は黒い部分のようなマイナーなものではなかった。飛べない、という最も重大な欠陥を僕は抱えてしまっていたのだ。
家までの道のりをぴょんぴょんと跳ねながら、ちまちま帰宅してとても空しい放課後になってしまった。
それから放課後の恒例行事となってしまった、人気者、というか人目を引くだけの見世物だった、というか。満足と不満が僕の中に混濁して渦巻いている日々だった。
幸か不幸か教師にまでその噂は広まって恒例行事は以降取りやめとなった。その前日、ギャラリーと囲んだ生徒に交じって教師が密かに中屈みの体勢でばっちりこちらへ好奇な視線を向けているのは気づいてはいたのだが……
学校で変身する機会はほとんどなくなって平和な日々の訪れとともに、皆からの関心の喪失を僕は抱えてなんだか寂しい日々でもある。人と極端に違うというのも苦しい人生だと思う。
ヤカンの一件などのように、変身はふいに宿ることがある。能動的な術でない場合、いつも悪寒がしてしまうから嫌いだった。そう成ろうと思って始まる変身ではないために、発端はストレスが多かった、それは本当に嫌だと思うこともあったが、お腹が空いたから食べ盛りの青年に変化する、など欲望に由来することも多くて、皆はその事故的変身の発生の仕組みを理解しているのだった。
しかしそれにしてもヤカンになった理由は未だに解明できなかった。何なんだあれは、一体。
雨が2週続いて4月の遠足は下旬に延期されていた。皆はウキウキ顔で快晴の青空の下、集められた校庭にリュックを抱えてそわそわしていた。
僕も当初の懸念をどうにか通過させて、案外早く手にすることのできた平和な日常から、遠足の興奮を静かに噛みしめていた。
「なあ、久しぶりにアレ、やってくれへん?」
不意打ちだった。恐らく遠足という興奮状態から発生した狂気だろう。発端は番長からの一声。しかし薄々感づいていたことでみなは密かにアレ、への欲求を募らせていたに違いなかった、僕はふいに訪れた試練の予兆に不覚にも酔いしれてしまう、それがイジメであることに無意識のうちに目をふさぎつつ……
列をなし山道へ、麓にある自然公園は施設も整い他県から観光に訪れる人々も多いという。地の利を生かした行楽にテンションがあがっているのは子供だけではないようだ。列の最後尾にいる僕と番長の取り巻きに担任は目もくれる様子もなくワクワクを抑えきれないようだ、皆がぜえぜえ息を切らすほどに大股開けっぴろげてズンズン進んでいく、先生は女性なのに少しガサツだった。
そのせいかどんどん差が開いていくのが目に見えて分かる。しかも後方の6年1組の列は上品といえばいいのか、先頭を行く担任がおっとりしていてみなもそれにうまく巻き込まれているらしい、ボクたちのグループより歩みは遅いくらいでいちいち感動しながら景色を鑑賞してゆっくり進んでいるようだ、それにもかかわらず生徒の安全を配慮して前後を行き戻りしながら声を掛けている、僕たちの担任とは大違いだと思う。それでもさすがに下級生のクラスまではフォローしきれてはいない、これから大変なことになろうとしているのに、それを知っているのは子供ばかり。
そもそも番長にして担任から絶大な信頼を寄せられているからもうどこにも救いはないだろう、内にどれだけ狂気の可能性を秘めていようともそれを見抜く大人はいない。スポーツは断トツである番長は勉強のほうも優秀で、しかも大人には猫を被っているのだ、担任にそこを見抜ける訳がなかった、僕は運命に身を任せようと決心するしかなかった。
「ほな何に化けてもらおうか……」
番長は取り巻きをぐるっと見回した。
「あっ、アレや!」
取り巻きの一人が指差したのはガードレールに設置された『熊出没注意!』の看板、山道に時々出るらしくニュースでも注意を呼びかけているのを見たことが一度あった。小学校の遠足ということもあってマタギさんがきちんと対処してくれているという話ではあったが、余所者としては少し怖い気持ちもある。
「ええやん熊、オモロいで、どうせお前やから襲われることもあらへんやんか」
別の取り巻きが謎の同調。
「ええやんか、ええやんか、オモロいで」
謎の盛り上がりが生まれていく。僕は所詮彼ら人間にも逆らえない熊なのだ、もし熊になれ、と云われたら従うまでである。しかし、そんなことをして本当にいいのだろうか……
「いや、待て」
と番長。まさか彼が救ってくれようとは! 理性を持つ人間が狂気の中心にいるなんて思いもしなかった!
「そんなんやったらあかんで、危ないわ」
いよっ、アンタが番長、サスガの人徳だ!
「下手にそんなんやって仲間やと勘違いしてホンモンの熊が寄ってきでもしたらどうすんねん、死者がでんで、そんなんアカンアカン」
ざわつく取り巻き達……見たか! これが君たちの知らざる番長の理性、本来の姿だよ、とくと痛感するがよい、そして心で泣くがよい……君たちの番長はもはや僕ひとりの番長へと変貌したのである。うぁっはっは……!
「熊はアカンで」
番長あなたは人類の叡智です!
「化けるんは熊やのうてグレズリーや」
えっ……
「どうせ人類再弱のケモノと化すんやったらせめて見た目だけでも熊を上回らなあかん、サスガに中身が人間や解かっとっても地上最強のグレズリーの巨体には熊も手え出せへんはずや、なあ、それで決まりやで、あとは頼んだで」
「……」
僕は到着後の集会の時間に「トイレに行きたくなった」と嘘をついて取り巻きのひとりとペアで抜け出したあとグレズリーに変身するという流れを了承することとなった。
グレズリーを正確に知るものはいなかった、皆の情報を寄せ集めて僕なりのグレズリー像を作りあげそれを基に皆へ御披露目するという流れだった。
意識をグレズリー像へと集中させていく……だんだんと頭の中でカタチを成していき、やがて灰色の毛並みをした巨大な熊が出来上がる……イメージは胸の奥へと急降してやがて胸中で激しく轟いた……これまで経験した変身とは比べもののならないような畏れが近づいた……掴みどころのないようなどろどろした灰褐色の粘液が肺の内部から生み出されていき僕の内面を圧迫しているのだ……これが……野生の……驚異なのか……逆流して食道から喉元にかけてべっとりと張りついてしまっている……激しい揺れと眩暈が始まっていく……僕はもう意識を失ってしまったようだ……ボクはすでに猛スピードで体中を巡り広がっている灰色のドロドロ、そう、ソノモノとなってしまった……僕の全身の体積いっぱいの……蠢く沼、腐臭に満ちた不快な粘性のカタマリ……灰褐色の僕は醜いアメーバだった……ああ……厭な……とても厭な気分だ……精神は不快なべとべとに結ばれていき……ああああああああああああああああああああああ!
ぼわん。
煙……濃い煙だった、まるで奇抜な蛇かおぞましい毒虫かを受胎したような気味の悪い子宮のような気配だったが煙と消えやがて霧散し晴れ渡っていった……
「く、熊なのがぁ~」
え……
灰色の体毛にもっさり覆われた躰を確かめ、僕はグレズリーになれたらしい、と感じる。しかし。「熊なのがぁ」という謎の言葉を残し逃げ去っていった取巻きに引っかかるものがあった。
しかし最早僕はグレズリーと少年の意識のハーフハーフだ、細かい分析などすぐに消え本能が意欲する、早く皆の前に登場して驚かせたいんだ……
グレズリーになった半意識はズシンズシンと踏みしめながら小走りになり目的地にいそいだ。
一歩遅かった……広場に集まっているはずの全校生徒はすでに散らばってスカスカになっていた。仕方ない、クラスの面々だけでもせめて驚かす!
見つけた、並木道の周辺は木陰も多く過ごしやすい、皆はグループを作り到着しようとしていた。可愛い色彩の花弁が隈なく植えられていてメルヘンチックな休憩所。
ヴォォォォォォォウ!
我ながら迫力のある咆哮だった。皆は腰を抜かすだろう。驚いてたくさんの少年少女の顔が一斉にこちらへ。
……え?
きょとん。誰ひとり絶叫するような生徒はいない、どういう訳か……驚き過ぎて言葉を失っているのだろうか。
「熊やん、ホンモンなん?」
驚き、とは違った問いかけるような少女の声。
直後やっとざわつき始めた。ようやく周りを見渡す余裕がでてきた、番長たちグループを探す……
「ていうか何なん? アレ」
え? 熊でしょ、グレズリーでしょどう見ても。
「熊が出たいうことやで」
みんなさ、もっと驚いてもいいんじゃない……?
「アレ熊ちゃうで、グレズリーや」
「なんやねんグレズリーて」
「アレやで、灰色の毛えやねん」
「お前詳しいな」
「ていうかよう出来てんな」
リアルだし、てか驚いてよね!
「熊いうより熊のキグルミやん」
アレ?
「先生はいってんのか? でもあのグレズリー小学生より小さいで」
「ホンマやで、保育園児が入ってんのとちゃうん」
あははははー。
一同爆笑。しまった! 見たこともないグレズリーに変身したせいでサイズ間違えちゃった。でも場が混乱するよりはマシだったかな?
その時番長グループを見つけた。表情は……嘲るような、笑いをこらえるような顔つきで皆こちらを見すえていた。悲しかったが別の意味でいい見世物になれたのかもしれない。
「ゆるキャラちゃうん」
「ほんまやで、でもまったく知らんかったわ」
「名前なんていうんやろ」
ぐれズリー。ふいに思いついたのだ。ぐれたグレズリーで、ぐれズリー。皆に自己紹介しよう。
「ヴォォォォォォォウ!」
そうだった、今喋れないんだった。
「何か喋ってるやん」
「結構リアルな鳴き声してるやんけ、ホンマ囁くような声しか出えへんのよね」
アハハハハ。
え、そんなに迫力なかった?
「熊だー、熊が出たぞーー!」
あー、急にでっかい声で心臓が止まるかと思ったよ。誰かと思えば僕の苦手な社会の志田先生……アレ? 右手に鎌、持ってませんか……
「先生、大げさやで、あれホンモンちゃうし」
「そうやで、どうみてもキグルミやん」
「ゆるキャラやで、ゆるキャラやで」
「……しかし、あんな小さくて誰が一体入れるというんだ、それにリアルな毛並じゃないか、あれは熊に違いないぞ! 本物の熊の子供だ!」
志田先生は草刈鎌をこちらに向けて腰を低く構えた。半意識のグレズリーにしてみても結構な迫力だった。
「先生、あれは熊やあらへん」
「いや、熊だ!」
「ホンマに熊ちゃうって、グレズリーやし」
アハハハハハ~。
また爆笑。まったく緊張感がなかった、サイズの問題だろうか。迫力があるのは志田先生ただひとりかもしれない。
「ちゃうちゃう、アイツが化けてんねんて」
「ホンマや、西村や。そういえばおらへんなあ思てたわ」
「トイレに行ったまま帰ってけえへん思てたらこんなんやってたんか。ホンマアホやな~」
バレたなら仕方ない、本物の熊ができないような曲芸でもして皆を楽しませてみよう。
まずは両手を大げさに開いて。
ヴォォォォォォォウ!
「ぎゃああああああ、熊やああああ」
何を今さら……しかも今のは驚かせてないからね。
「ホンマや、皆逃げようや~」
ええ~。だから驚かせてないのに……
「ぎゃあああああああ」
え? 志田先生まで! 鎌も投げ捨てて向こうに走って行っちゃったよ。
「近づいて来るで、やばいもう逃げようや、おい、言うとくけどグレズリーに化けた西村、お前も逃げたほうがええで、命は大事にせえよ、じゃあ逃げるわ、みんな行くでえええええ」
きゃああああああああああ。
グレズリーの僕は振り向いた。2m級の本物のヒグマが1m級のグレズリーの僕を見下ろしていた。