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金曜日

 金曜日の午後七時。動物園や美術館から出て来る人の波に逆らって修は歩いていた。夕暮れ時にもなると気温は一気に下がり、過ごしやすくなる。湿度は相変わらず高かったが、涼しさが何よりも嬉しかった。

 空はこちら側が深みのある青で、夕日の沈む向こう側がオレンジがかった紅だった。その間の雲の漂う空は薄めたような紫のグラデーションになっている。


 美術館の正面入り口は地下にある。屋外にあるエスカレーターを使うと、すでに着いていた遥が軽く手を振った。もっと混雑しているかとも思ったが、平日の閉館間際はやはり空いているようだった。


「久しぶり。髪、切ったんだな」

「うん。邪魔だったから」


 セミロングほどあった遥の髪は肩の少し上で切りそろえられていた。修と付き合う前ぐらいまでは、遥の髪はこれぐらいの長さだったと修は記憶している。修は小柄な遥を見下ろしながら、遥の周りの時間だけが巻き戻ったような錯覚を覚える。


 遥と美術館の中に入ると空調が効いていて、薄くかいていた汗が引いていくのがわかった。遥はパンフレットで出品作品をチェックしながら、待ちきれないというように一歩先を歩いていく。館内は薄暗く、一人で見に来ている客ばかりだった。


 今回の企画展は出品作品をテーマ別に全六章に分けている。一足先に入った遥は、第一章の最後の絵の前で立ち止まっている。そういえば遥は昔から美術館なんかは一人で行くことが多かった。

 学生時代に修がデートに誘えば何度かに一回は、企画展に行くからと断られている。修はなんとなく一緒に行きたいと言わないままだったので、こうして美術館に一緒に来たのは部活以外で初めてのことだった。ましてそれが遥からの誘いだ。修は得体のしれない予感めいたものを覚えていた。


 修が追いつくと遥は次の部屋に向かう。誘ったのは遥のほうなので、待つぐらいの心遣いは必要だと遥は思いなおしたのだ。今回修を誘ったのは、遥に渡された券が二枚だったからだ。なかなか会えないが誰かとどこかに行くのなら修なのだろうと遥は思ったし、券をくれた彼だってそんなことを言って渡してくれた。


 次の部屋で立ち止まったのは修のほうだった。ライスダール作、漂白場のあるハールレムの風景という絵の前だった。それは絵の三分の二が雲の渦巻く空という絵で、立ち止まった修はその絵の前で奇妙な解放感と閉塞感を覚えていた。

 遥はじっと絵を眺める修の横顔を見上げる。修のそれなりに整った顔に、美術館特有の独特な明度のライトが、彫刻じみた陰影を付ける。


「ああ、ごめん。行こうか」


 別にいいのにと思いながら、遥は修の隣を歩く。メインの真珠の耳飾りの少女が近づいてきて、遥は楽しみになって来る。修はそれを見透かしたようで、低い声で楽しそうだなと言って来た。


「もう一度見られると思わなかったの」

「好きなんだな」


 修の言葉に頷きながら、遥は旧友達がそれほどあの絵を好きではない、それどころかある種の嫌悪感のようなものを持っていたことを思い出していた。

 マウリッツハイスで梨香が居心地悪そうにあの絵の前から立ち去ったのを遥は知っているし、透なんかは部室に誰かが持ってきたマウリッツハイスの目録に映るサンプルの時点で、胸糞が悪いと睨みつけていた。

 あの絵に宿る怪しい魅力を、絵画を学ぶものとして遥は理解しているつもりだった。ただ、あれほどはっきりとそれを態度で示したのは、遥の知り合いの中でもあの二人だけだ。修を誘ったのは、修の反応も見たかったという思惑がある。


 そして二人は第三章の部屋に入る。この部屋を抜ければ、真珠の耳飾りの少女が鎮座する部屋だ。ここにはかの有名なルーベンスの聖母被昇天の下絵や、フェルメールのディアナとニンフたちがある。

 あまり熱心な美術部員ではなかった修でも、これらの絵は知っている。遥のペースに合わせながら、修は絵を眺める。


 あまり無言なのもどうかと思い、モチーフとして取り上げられているあれこれについて遥に聞いてみる。

 すると驚くほど饒舌な解説が返って来た。絵を前にする遥は美術館の暗い照明の下でも、頬が紅色に紅潮し瞳が潤んでいるのが分かる程だった。

 少ない会話の中で動く唇は暗い艶を帯び、怪しい色香を放っていた。修は絵画の中の美女よりよほどこちらのほうに気を取られる。


 二人はいよいよメインの部屋に入る。たった一つの絵のために広い部屋が大きく一部屋取られている。真珠の耳飾りの少女はけして大型の絵ではない。ただ昼間や休日の込み合う時間帯の順番待ちの列のために広い部屋を取っているようだった。

 今は誰も並んでいないその列はつづら折りになっていて、優に百人は並べそうだ。部屋に常駐している学芸員が、ごゆっくりどうぞと修達に声をかけてくる。おそらく混雑時には列に沿って進むように促しているのだろう。


 この部屋には修達の他にも何人か人がいた。くたびれたようなサラリーマンや、学生風の女。皆取り憑かれたように絵の前で少し離れて立ち止まっている。修達も彼らに習うことにした。


 最初に修の目に飛び込んできたのは、鮮烈な青だった。ラピスラズリを顔料に使ったというその青は、脳天の奥を直接貫くような激しさを持って修の前に現れた。

 黄色の衣装を着て佇む少女の背後には、ひたすらの黒が広がる。よく見るとわずかにセピアのような色も見え、引きこまれるような質感を感じる。艶めく唇は官能的で、遥の唇とはまた違う印象を修に与えた。

 そして目だ。修は恐る恐る少女の目を覗きこむ。透明な光を受けた瞳が、微かに揺らいでこちらを静かに冷やかに射抜く。


 私知っているの。本当はあなた。聞いたことのない、あるはずのない少女の声で、唐突にそれが再生される。ただのひび割れた絵が、物言わぬ冷たい少女の瞳が、静かに暴力的に修を追い詰めていく。

 あなた本当はあんなこともしたでしょう。知っているわ。祭りの鈴鳴りのようにしゃんしゃんと、少女が笑っている。少なくとも修にはそう見えた。あの目は全てを知っている透や、硝子越しにこちらを窺って笑う梨香、そして遥の澄んだ瞳であった。


 私知っているわ。淋しいのよ、誰でもよかったのよ。なのにあんなに巻き込んで。どうするの、どうするのねえ。愛しているなんて思いこんで。考えないふりをしてどうするのねえ。


「修」


 遥に手を引かれて修は我にかえる。修は静かに微笑んで、行こうかと遥と部屋を後にする。恐る恐る修が振り返ると、少女は蔑んだ目でこちらを見ている気がした。


 その後しばらく修は絵を見るどころではなかった。第四章が肖像画というジャンルだったこともあり、見る絵全てに蔑まれているような気分に陥るのだ。

 遥はそんな修の表向きは微細な変化に留めているが確かな内面の変化に、なんとなく感づいていた。こうしてあの絵に揺さぶられている人を見るのは初めてではないのだ。そうしてあっさり肖像画の部屋を出て、静物画の部屋で修は立ち止まる。


「骸骨なんて、なんだか珍しい絵だな」


 そうして遥に向けられる笑みはいつもと変わらない。捉えどころのない修の笑みであった。だから遥も絵の解説をすることにする。修の止まった絵は、クラースゾーン作ヴァニタスの静物で、絵の右側に鎮座する骸骨が印象に残る。


「ヴァニタスっていうのは、そうね。儚さや虚栄なんかを意味するんだけど、オランダが豊かな時代に描かれているの。簡単に言うと、豊かさに奢るべからずって戒めの意味があるのよ」

「……そうか。でも俺は、あの絵のほうが好きだな」


 そういって修が指したのはベイエレン作の豪華な食卓で、題名通りテーブルいっぱいの果実や食物がこぼれるほど並んだ絵だった。

 修はポストカードか何かが欲しいと言ったが、日本ではマイナーな部類に入る画家の作品なので、それは難しいかもしれないと遥は思った。


 そうして最後の部屋に入る。そこは風俗画の部屋で、当時のオランダの姿が描かれた作品が並んでいた。ここにはもう一つの目玉とも言えるステーンの大作、親に倣って子も歌うもあった。

 修は牡蠣を食べる娘に、なんだかセクシーだなと意外に鋭いコメントをする。修本人は自分のことを不真面目な美術部員だったと言うが、当時の顧問や先輩たちは修の感受性を褒めていたと遥は思い出した。

 そういえば梨香や透も時折鋭い感想を言っては、先輩達の度肝を抜いていた。その三人が真珠の耳飾りの少女をああも気にするのは、どういうことだろう。三者三様の反応であったが、皆考えていることはどうも似ている気がしていた。


 チケットをくれたのは透であった。透は卒業後も定期的に大学に聴講に来ていたので、遥と透が会うのはそれほど珍しくない。どうしてこのチケットをくれたのかはよくわからなかったが、せっかくの申し出だったので行くことにしたのだ。一緒にどうかと誘ったら、修と行くといいと言ったのも透である。


「そろそろ二人は、ゴールインか?」

「わからない。私はまだ学生だし、そんな話をしたことも」


 チケットをもらった昼下がり。学内のオープンカフェで透と少し話をした。透は長い脚をテーブルの下で窮屈そうに組む。

 梨香と透は美術部の中でもとりわけ華やかな容姿をしていたが、歳を重ねるごとに透は渋さも加わりますます人目を惹く容姿になった。その時も何人かの学部生が透を見ていた。


「じゃあ、してみるといい。あいつは少し考えればいいさ」




 美術館を出て、二人は修のボルドーのシトロエンに乗る。夕食にちょうどいい時間であったが、修は申し訳なさそうに用事があるのだと言った。遥は家までの道のりを黙って過ごす。修は黙ってシトロエンを運転する。

 すんなりした腕がカーブに合わせてハンドルを繰る。またしばらく会わないのだろうなと思いながら口を開いた。


「私達、これからどうするの」


 赤信号にシトロエンは停止する。遥としては別段返事を期待していたわけではなかった。続けるならば続ければいいのだし、そうでなければ別れればいい。普段もそれほど接触があるという間柄ではなかったので、これ以上距離が置けるとも思えなかった。

 停止したシトロエンは、発信と共に微かに左に曲がる。それに伴い修の吐息も左に曲がった。


「遥、どうしたい」

「どうでも」


 修は困ったという風に少し笑って運転を続けて、首都高のちょっとした帰宅ラッシュを抜ける。首都高を抜けてしまえば遥のアパートはすぐだった。


「今日は誘ってくれてありがとう」

「こっちこそ。付き合ってくれてありがとう」


 お互い礼儀正しく挨拶をする。ここでだらだらするのは遥の性に合わないので、さよならと手を振る。修は少しの間を置いて、いつものデートのように片手を上げた。

 遥は修が車で走り去った後、外付けのアパートの階段を登って部屋に入った。学生である遥の部屋は必要最低限の家具と参考書のみが置いてある、質素な部屋だ。遥は荷物を置いて着替える。

 修と食事をしてもしなくてもどちらでもよかった。そして今回はしなかったのだから自炊をする。遥は、今日自炊するのならビーフシチューを作ろうと決めていた。本格派ではなく、市販のルーに野菜と牛肉を入れるだけの簡単でオーソドックスなものだ。


 玉葱と人参、じゃがいもを小さめに切って軽く火を通す。肉も同様にして、ルーの容器に書いてある手順通りに調理を進める。アレンジも何もしない。煮込んでいる間に、近所のパン屋から買ってきた一斤のパンを切って、数枚トーストする。

 本当は遥は濃い味付けの洋風のものはあまり好んでいなかったが、最近そういう傾向の料理もするようになった。そういう料理だと、水がいっそう美味しく飲めることに気がついたからだ。

 

 遥は水が好きであった。理由もそう気がついたきっかけもとっくの昔に忘れてしまったが、とにかく水が好きであった。透明で冷たく、鋭く柔らかい。理由を挙げるとすればこの辺だろうか。

 そうして遥は出来上がった食事を並べて手を合わせる。そして最初に水を飲む。水はするりと、遥の身体に自然に馴染む。


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