木曜日
木曜日、目覚めた梨香は裸の背中で修の声を聞いていた。修は電話で誰かと話している。梨香の頭が冴えて来ると、電話の向こうの声が聞き覚えのある女の声だということがわかった。
そして修は名前を呼ぶ。梨香は身動きもせず、背中を向けてじっとしている。そして電話が終わり、修がベッドに腰掛けて、梨香の裸の背をそっと撫でた。
「今日、早番だから行くな。夕方工房で」
梨香はまるで今起きたかのように薄眼でゆっくり頷いて、行ってらっしゃいと手を振る。修の手は熱く、背中に烙印を押されたかのようだった。梨香は小さく身震いをしてベッドから出る。簡単に身支度をしてから、冷蔵庫を開く。
修の家であったが、自分が先に出る時は好きなものを食べて行っていいと梨香は昔から言われていた。そして梨香は無性に肉が食べたい気分であった。修に合わせて起きたため出勤時間にはまだまだ余裕があるが、しかし朝からあまり重いものを食べるのも気が引けた。
アスパラを数本、そして生ハムを残っている分だけ。卵を一つ。野菜のサラダが欲しいところだが、修の冷蔵庫には野菜が入っていない。ミネラルウォーターの類も入っていないが、修は乾かないのだろうかと、梨香は取り出した卵を割ってかき混ぜながら思った。そしてスクランブルエッグを作りながらアスパラも切って炒める。
修の冷蔵庫はいつも空に近い。一人暮らしにしては割と大きな部類に入るのに、梨香が見ている限り、満たされているということは一回もなかった。普段自分がいない時は、修はこの部屋でどう過ごして、何を食べているのだろう。
梨香はそんなことを考えながら出来上がったスクランブルエッグを皿に盛る。バターの匂いが部屋に漂った。
例えば遥が来た時、修はどうもてなすのだろうか。遥に何か料理を作るのだろうか。それとも遥が修に何かを作るのだろうか。そのどちらの光景も梨香には想像出来なかった。
そういえば修が料理を食べるところはよく見ているが、大学在学中に遥が何かを食べているというところを梨香は見たことがなかった。付き合っているグループが違うということもあったが、それにしたって一度くらいは見たことがあるはずである。それなのにどうしてこうも遥の食事風景は梨香の記憶に残っていないのだろう。
そういえば、遥はよく水を飲んでいた気がする。梨香はよく焼けたアスパラに生ハムを巻いて食べながらそう思った。コンパでも何かのちょっとした集まりの中でも、遥は酒でもジュースでもなく水を飲んでいた。少なくとも梨香の記憶の中ではそうだった。
誰かがそのことを話題にしたことはなかったから、きっと気がついたのは梨香だけか、あるいは修もかもしれない。ふと思い出す程度には、遥の飲む水が、梨香の記憶の隅に残っていた。
遥の飲む水は、美味しいのだろうか。遥は今でも水を飲むのだろうか。梨香は無性に水が飲みたくなる。しかし修の家にはミネラルウォーターどころか、ジュースの類もない。
梨香のために用意された辛口の白ワインはあるのだが、梨香とて出勤前に飲酒をする気はなかった。そして臭い水道水なんて飲む気も起きない。梨香は立ち上がって、コーヒーを淹れることにする。何もないような修の台所だが、コーヒーだけはいつも切らさずに置いてあるのだ。
その日の昼、給食の匂いの漂う校舎を歩きながら、梨香はすっかり先生の顔をしている透をからかった。一方の透は受け答えをしながら、梨香の服からほんの僅かに香るセブンスターに複雑な思いを抱いた。
課外授業の話し合いも済んで思い出話に花を咲かせながら、二人は校舎を歩いていた。透の勤める学校は市内のマンモス校で、応接室から駐車場に出るのも長い距離を歩くのだ。
「そういえば、修がフェルメールを見るんだって」
和やかな会話に静かに終わりを告げたのは、梨香のほうであった。
「じゃあきっと、遥だろうなあ」
梨香が切り出したのだから遠慮をする気はないと、透はさっさと確信に触れる。子供じみたやり取りだと両者はそれぞれ自覚していた。そして梨香は普段は聞くことのない子供たちのはしゃぐ声を聞く。梨香は小さく笑い声を立てて、元気ね、と言った。
「課外授業はみんなはしゃぐから、きっともっとうるさい」
透は困ったようにそう笑う。透の表情は慈愛に満ちている、しかしとても悲しい表情なのだと、梨香は薄々気づいていた。
「修のもう一人の相手って、透君でしょう」
「そういうのって、あり得ると思う? 俺男だよ」
梨香はそこで初めて心底面白そうに笑い声を立てた。梨香にとってそれは今更であった。一方の透は、梨香の女性らしい身体を噛み砕いて切り刻んでやりたいと、夏の正午の光の中で思った。
乾いていて似ている彼女だからこそ、透が決して持てない、最終的には受け入れることが出来る身体が、恨めしかった。
透がどれほど時間をかけて修を楽にさせようと慣らそうが、高い潤滑油を試そうが、痛みを緩和すべく温めようが、透は修に苦痛を与えることしかできない。彼の細い体を抱いて堅い身体を割り開く度、透は苦痛に呻く修を見ることになるのだ。
なのに修は決して逃げない。そして透は幾夜も幾夜も受け入れられる。結婚も出来ず子供も出来ない、先のない関係であっても。だから透は歯を立てる。ずっと、最初の夜からわかっていたことであっても。
「いつから知ってた」
「きっと始めから。ちょうど今ぐらいの、夏の、朝だったかしら」
「そうか」
「けもののようだったわ。あなたもわたしも」
梨香はそう言って、昇降口から外に出る。来客用の駐車場にはボルドーのシトロエンが駐車されていた。透にはすぐにそれが修の車だとわかった。そして堂々とそれに乗ってきた梨香に、女の生臭くほの甘い、あの匂いを感じた。
思えば梨香は学生時代から、一歩も引かない。二股かけられているなんて知らないわとでもいうように、何食わぬ綺麗な顔をして修の横を歩いていた。気づいてしまえばそれはとても恐ろしいことであった。いや、緩慢に修の首を絞めているような透自身とさして変わらない心づもりなのかもしれないが。
透は見送るべく梨香の後に続いて外に出た。照りつける日差しに、透はいささか眩暈を覚えて額に手をやる。梨香はそれを見て無理をしないでと労わった。透は出来るだけ気丈に微笑んで見せた。
「暑いな、今日も」
「わたしは慣れているわ。これぐらい、平気よ」
透は澄ました顔をした梨香に、労わりを込めて手を振った。
学校から工房に戻った梨香は、作業着に着替えて硝子の融解窯の前に立つ。熱のこもる室内では、梨香はたちまち汗だくになる。しかし梨香は一度作業に入ってしまえば、汗を拭くようなことをしない。なにせ作業中は両手が塞がるのだ。汗は滴るに任せる他ない。
そうして作業をしていると首の後ろにわずかな風を感じて、梨香は修が部屋に入って来たことを知った。だが修の方向を向くことも声をかけることもしない。今が一番大切な時なのだ。
一晩かけて白熱した硝子は生きている。この瞬間硝子から目を逸らしたら、それは一瞬で硝子を殺すことになる。梨香は修にそう教えたことはなかったが、修は初めから不思議とその辺を心得ていて、梨香の作業中には決して自分から声をかけることはなかった。
梨香は慎重に作業を進める。巻きとった硝子に息をゆっくりゆっくり吹きこんで。息継ぎで吸い込む空気は肺には焼けつくようだ。重い吹き竿を回しながら、ゆっくりゆっくり。屈むような抱きしめるような体勢になりながら。
震える手を押さえながら、仕上げに飲み口を冷やし切る。梨香が注意深く軽く叩くと、球体の上部がカンと涼しい音を立てて外れ、ほぼグラスの形になる。あとはもう一度軽く温めてから飲み口をきちんと成形し、冷却窯に入れればひと段落する。
「飽きないの? 見ててもつまらないでしょう」
「そんなことはない。梨香の仕事姿好きだけど?」
修は梨香が硝子を吹く後ろ姿を眺めるのを気に入っていた。どうしてかと梨香に聞かれても上手く答えることは出来ないのだが、強いていうのなら、梨香の項から滴る汗と白熱してとろけた硝子の取り合わせが好きなのかもしれないと思っていた。
「なにか心配ごとでもあるの、修」
「そんな顔している?」
「……ううん。いつもそんな顔よね。いや、なんとなくよ」
梨香は汗を拭きながら、修が土産だと持参したオレンジジュースを飲んだ。それはまだ冷えていて、梨香は一気に半分飲んだ。
「青い透明なワイングラスを作っていたの。試作なんだけれどね、色硝子の配合を少し変えて。出来たらあげる。使って」
「ありがとう」
梨香は修の返事に微笑む。修は窯の熱のせいで汗が吹き出るほど暑い室内でも、スマートに微笑み返した。
「透君と会った夜にでも使って。あの青いグラスにはきっと辛口のワインか、それか水が似合うわ。でも遥と会った日は、使わないで。悔しいから」
分かったと、顔色一つ変えずに修はそう言った。梨香も取り乱すことなく、ありがとうと微笑んで見せる。
「俺はなんとなく、梨香は口にしないと思っていたんだけれど、遥のこととか」
「修があの絵を見に行くって言ったから。もういいかな、なんて」
あの絵と修が聞くと、梨香は、真珠の耳飾りの少女と淀みなく答えた。修は肩をすくめて梨香の言葉を待った。
「マウリッツハイスで私は遥と見たの。でも私は恐ろしくて、見ていられなかったわ。でも遥はいつまでも見ていた」
梨香は残りのオレンジジュースを飲みながら、黙って椅子に座っている修を見下ろした。すると修の項を汗が薄く流れているのが見えた。しかし梨香は暑いのに慣れている。だから、大丈夫だ。
「俺はどっちだろう」
「そこは修しだいよね」
しかし梨香には確信があった。しかしその確信を口にすることは興醒めであると思い、笑うだけにしておく。そしてオレンジジュースを空にした。それから笑いだしたら、なんだか本当に面白くなってしまって止まらなくなってしまった。