水曜日
「フェルメール、見に行くの?」
水曜日、修は自宅で梨香の作った冷製パスタを食べていた。梨香はチェストの上に置きっぱなしにしていたチケットを見たようだった。修は冷えたビールを飲みながら、ああと答えた。
「梨香も行くか?」
梨香は笑って首を振る。梨香が飲んでいるのは、修がビールの飲めない梨香のために用意している辛口の白ワインだった。梨香は少しずつそれを飲んで、目を細めた。
「マウリッツハイスで、もう見たことがあるわ」
「ああ、卒業旅行、オランダだったな」
梨香は卒業旅行を遥と行った。二人きりというわけではなく、遥達のグループと梨香達のグループの大人数で行ったのだ。
マウリッツハイスに行ったのは旅行の最終日で、所蔵されてい作品の希少さに比べて、美術館そのものは非常に小さかった。今回修が見に行くという真珠の耳飾りの少女も、梨香は既に遥と共にそこで観ている。
梨香は絵画の少女の眼差しを思い出す。そして正面に立ち真っすぐ少女を見つめている遥のことも忘れられなかった。梨香はとてもその少女を凝視出来なかった。しかし遥はいつまでも少女を凝視していた。それが遥と梨香の違いであった。
梨香はそこで考えることを止める。もう一度ワインを飲む。修によって磨かれたグラスの中で、ワインは緑と金色の光を帯びてとろりと揺れた。
「それにしても、本当に殺風景な部屋ね」
キッチンには最低限の調理器具のみ、ベッドに、テーブルに、テレビに本棚が一つ。カーペットの類はなく、フローリングはむき出しだ。修は困ったように笑うと、掃除がしやすいんだと言った。
そして二人で後片付けをして先に修が風呂に入る。ソファの類がない部屋なので、梨香はベッドに腰掛ける。そして思いを馳せるのだ。このベッドで一体何人が彼に抱かれたのだろうかと。
しかし彼は驚くほどそういった痕跡を残さない。しかし修は人の影を隠すということには無頓着であった。さっきのチケットだってそうだ。人の影を隠すこともなく、しかも彼は無駄な言い訳を重ねるなんてこともしない。
もしも先程梨香が誰と行くのかと聞いたら、あっさり修の口から遥の名前も出るような気がした。梨香は修の口から一度も、遥を始めとする関係を持つ人物の名を聞いたことがない。
しかし梨香には確信があった。ただし明確な証拠は遥以外ないので、女の勘と言ってしまえばそれまでだ。
梨香と修が付き合いだしたのは夏だった。当時修と遥は既に付き合っていて、告白したのは修からだということまで知っていた。しかしそれでもと素知らぬ顔で告白をしたら、修も素知らぬ顔で交際を受け入れたのだ。そして今ではきっと遥といる時間以上に、梨香といる時間のほうが長いだろう。
しかしどうしても、満たされない。梨香は穴のあいたグラスの思いであった。甘苦くすえた渋い味の飢餓感を、一人の時より修といる時により強く感じていた。
しかし梨香は、何も言わないということを、あの絵の前で決めたのだ。そう。その絵を修本人が見に行くというのは、運命じみた何かを感じる。
梨香が修と入れ替わりで風呂に入り戻って来ると、修はベッドに横になって梨香を待っていた。
「なあ、梨香、明日工房に行っていいか」
「いいわよ」
「ありがとう、梨香、早くこっちにおいで」
修が梨香の工房に来ることはたまにある。そういう日には決まってこうして前日の夜に梨香に聞いてくるのだ。工房に来ると修は邪魔にならないように部屋の隅に座って、汗にまみれた梨香の作業を観察する。
梨香が立ちつくしていると、修は焦れたのか手を引いて一気に梨香をベッドに沈めた。スプリングは二人分の重みを支えてぎしりと唸る。梨香は抵抗もせず修はゆっくりと服を脱がせる。
電気を消すかと聞いた修の吐息が耳朶にかかり、梨香は薄眼を開けて震えた。修は少し笑って、リモコンで部屋の電気を消す。カーテンを閉めていても外からの光が少しだけ入って来るのは、二人とも知っている。そしてそれきり修は言葉を発さない。それはいつだって変わらないことだった。
梨香も梨香でわざとらしく喘ぐこともしないので、まさぐられる時も身体を割り開かれる時も、お互い無言のままだった。
修が割り開く時、どれだけ慣らそうが梨香には痛みが伴う。快楽のための行為なのか、痛みのための行為なのか、いつもこの瞬間梨香は混乱する。愛しているのに、そうであるはずなのに。いいや、そんな殊勝なものではなかったろう。
湧きあがるのは愛ではなく得体の知れないおぞましさである。どうしてどうして。それは梨香にとって寒気にも似た痛みだ。
そしていつもそのタイミングで修は梨香の背中を擦る。だから梨香は痛みから洩れる悲鳴を噛み殺す。