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火曜日

 火曜日、修は五階のオフィスと自社製品を陳列する一階のディスプレイを行ったり来たりしていた。修の職場は筆記具の開発と販売を手掛ける商社であり、修はそこの販売部門に勤めている。

 修はディスプレイの磨かれた硝子を眺めて途方に暮れていた。来週に出る万年筆のディスプレイ担当を引き受けているが、一向にアイデアが浮かばないのだ。黒字に金の高級万年筆。生半可なディスプレイでは印象に欠けるだろう。


 根を詰めても良い結果が出ないことは、経験から知っている。修は休憩がてら遥が誘ってくれた特別展について調べることにした。今東京都美術館ではフェルメールの絵を展示しているらしい。遥はそれが見たいと言ってきた。

 遥から誘ってくることは滅多にないことで、修は遥がどんな顔をしてその絵を見るのか興味があったのだ。


 フェルメール、東京で調べると、ベルリン美術館展とマウリッツハイス美術館展がヒットした。どちらも夏から秋にかけての似たような期間に開催されるらしい。だから遥は場所を強調したのだ。

 東京都美術館で開催されるのは後者で、目玉はフェルメールの『真珠の耳飾りの少女』という、修でも知っている有名な絵画だった。青いターバンを被った少女が振り返っているような絵だ。

 マウリッツハイス美術館はオランダにあるらしく、現在大規模な改修工事を行っているために、特別に貸し出し許可が降りたのだという。


 遥と修が付き合い始めて三年が経とうとしているが、遥は大学院生、修は新入社員としてそれぞれ忙しく、とくに遥は熱心な学生であったので滅多に会える時間が取れない。

 修は修なりに遥を愛していたのだが、遥はもともと大人しく感情表現が希薄ということもあり、修は遥の気持ちを計りかねていた。どうにも安定性に欠ける関係で、修の抱える自分でも不思議になるほどの形のない不安さに拍車をかけていた。




 その夜、湯豆腐が食べたいと、透が湯豆腐の材料と土鍋を持参して修の家にやってきた。修の家に土鍋がないのを把握している程度には透は修の住まいを知っている。

 その夜はいつもと同じ熱帯夜で、湿気も高く、修は透が台所で二人分きちんと用意しているのを見て顔をしかめる。修はどっしりとした大きな土鍋を覗きこみながらぼやいた。


「こんな日に湯豆腐なんてどうかしている」

「いいじゃないか、たまには。お前は少し野菜を食べたほうがいい」


 透の手の中で大根が素早く桂剥きにされて鍋に入れられる。木綿豆腐と絹豆腐は大きめに十二分割されて皿に盛られた。以前修が絹豆腐のほうが好きだと言っていたのを、透は几帳面に覚えていたのだ。

 もっと詳しく言うと、湯豆腐の会話は大学時代の冬のコンパのときに修と遥の間でなされたものである。透はそれを少し離れたテーブルで聞いていたに過ぎない。ただそれを何年もこうして覚えていただけだ。


 木綿豆腐が好きなのよ。そうか、俺は絹がいいなあ。二人が静かな声でそういいながら鍋をつつきあっているのを、透はコンパで賑わう店の喧騒の中で聞いた。冬の寒い日であったが、鍋を出す店であったので暑いぐらいでさえあった。

 とても静かに豆腐を食べる二人の姿は自然で、修と身体を重ねる関係になって半年が経った透でも、いや、だからこそ透はその傍に近寄ることが出来なかった。だから透は耳をすまして酒を飲んでいた。その店はよく冷えてとろりとした酒を出してくれて、歯に染みるほどでさえあった。透はその日のことをいつまでも忘れないでいるだろう。


 ささやかな感傷を振り払って、透は切り込みを入れた昆布も静かに鍋に入れて火に掛けた。

 大根が透明に色を失ったところで、透は鍋を持参したバスタオルに包み、テーブルに乗せる。豆腐も投入して、味噌にみりんや鰹節を入れて味を調える。食べる時はそれぞれの好みで伸ばして食べるようにした。

 豆腐が煮えるころにはぼやいていた修も食卓に着いていた。二人はじゃあと言って、箸を持つ。


「なんだ。結構いけるじゃあないか」

「おう。もっと食えよ」


 修は腹が減っていたのか、黙々と食べる。湯豆腐で汗をかいて、そして二人はしきりに汗を拭いて、お互いこんな真夏に何をやっているのだろうなと笑いあった。

 そして修が唐突に酒を飲みに行きたいと言った。透ならよくあることだが、修が酒を飲みに行きたいというのは珍しいことであった。透は鍋を片づけながら聞いてみた。


「どこの店がいいんだ。何か飲みたいのがあるとか?」

「どこでも。なんでもいい」

「なんだよ、それ」


 透は鍋の水気を拭いて、元通り持って帰れるようにする。そしてどこでもいいならいつものバーで、といって修と出かける準備をした。




「お前がわからないなら、俺は知らないよ」


 修の隣で透はギムレットを呷りながら、そう言い放った。修はほんの少し顔を歪めたが、本当にそういう表情をしたかったのは透のほうで、しかし明確に口には出さずに苦いギムレットを黙って飲み下す。

 バーに着いて修はカクテルを舐めながら、今後二人をどうしたらいいか。そんな質問をした。無論二人というのは梨香と遥のことであり、そこに透は含まれていない。全く厄介な話であったが、しかし透は逃げ出さないで修の話を聞くことに決めていた。


 透から見れば、梨香も遥もどこか修に似ていた。だから透は結局三人とも嫌いになれない。女であるというだけで二人は大きく透から隔たり届かない場所にいた。透はギムレットを飲み干して、大きく溜息を吐く。修の所にまでギムレットの薬草じみた香りが漂って来た。


「遥は、絵画のモチーフじみてる」


 透はそう言ってカウンターに肘をつく。行儀のいい行為とは言えなかったが、酔いが回るのは存外早かった。大学時代から、透は遥のことをそう評価している。

 特別美人でもなく、人形のようにただそこにいるだけ。感情表現は希薄で、付き合うグループも違ったため透の印象にもあまり残っていない。しかし他ならぬ修は彼女に価値を見出していた。


 彼らは似ているのかもしれない。透はアルコールの回った頭でそう考える。しかしよくよく考えてみると、修は梨香にも、そして透自身にさえも似ている気がした。遥と透の共通項など見当もつかないが、しかしそれでもやはり修は誰とも似ていると透は考えていた。


「そういえば、近々梨香に会うんだ」

「ああ、梨香も言ってたな。学校の課外授業か」


 透は市立中学校の教師で、梨香は小さな硝子工房のスタッフであった。修は何も言わないが、透はなんとなく自分同様に梨香は全てを知っているのではないのだろうかと思っている。

 知っていても梨香なら何も言わない、正しくは何も言えないだろう。梨香が透と同じ乾く側なら、きっとそうだ。


「それにしても、四年か。続くものだな」


 修はしみじみとそう呟いて、自分の分のブルームーンを傾ける。セピアがかったバーの光を受けて、ブルームーンは月を沈めたように鈍い紫に底光りした。透は笑おうとしたが、笑い損ねて歪んだ表情を浮かべてしまう。

 大学三年生の初夏、透は修と関係を持った。その頃修はちょうど遥と付き合い始めたばかりで、言ってしまえば勝ち目のない透の片思いであった。


「俺が拒んだら、変質者だったな、透」


 その軽い言葉が修なりの気遣いであることを、透は透なりに知っているつもりだった。しかし当時の自分がとても感覚的ではあったが、ある種の確信を持って修に誘いをかけたのも確かだった。

 誰もいない夜の部室で、油絵を乾かす薬品のきつい匂いを感じながら、酒の力も多少借りて。透は修が飲まずにいる一口分のブルームーンを奪って、優しく首を振った。


「お前からは匂いがした。俺にはわかる」

「嗅覚か?」

「ああ」


 透は不思議そうな顔をする修を見ながら、ブルームーンを飲み干した。修のそんな顔は最高の酒の肴で、多少溜飲も下がる思いだった。


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