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月曜日

「金曜日、美術館の前で」


 遥からの電話を切り、修は詰めていた息をゆるゆると吐いた。そこで修は自分が息を詰めていたことを初めて知り、その事実に気が重くなった。そこで再び遥からの着信がある。


「東京都美術館だからね」


 再び電話を切り、もう一度修は息を吐く。そして梨香が待つ寝室に戻る前に一服しようとセブンスターに着火した。すぐに戻る気にはなれなかったし、戻らなくても梨香は咎めるような女ではない。修はそう判断して、煙を肺まで巡らせた。吐き出された煙は、修の周りを漂って薄まる。そして修の梨香に対する判断は正しかったが、全く間違いのないわけではなかった。


 遥と修が付き合いだして四年がたとうとしていた。関係の始まった当時、遥と修そして梨香はまだ大学三年だったというのだから、時間というものは恐ろしいものだと修は身震いした。しかし震えという行動は、この暑い熱帯夜には似合わない。短い一服の時間も終わり、修は吸い殻を流しの三角コーナーに捨てて扉を開ける。


「終わったの」

「ああ。済まないな」

「気にしないで」


 修がベッドに腰掛けると、シーツの白に梨香の赤味がかった髪が広がっていた。修が戯れに一房手に取ると、先のほうが少しばかり傷んでいる。見られることが嫌だったらしく、梨香はわずかに身をよじる。するとシーツの隙間から白い背中が現れた。室内の照明は薄暗く絞ってある。

 ほの暗いオレンジの明かりの元、内側から鈍く光る陶器のような背中は、修の目にはいっそ生々しく映った。修はそっと手の甲でその背中をなぞる。梨香の背中はしっとりと濡れていて、ひんやりと冷たい。


「手、熱いのね、やっぱり」


 梨香は寝返りを打ち、修に顔を向ける。重力に従って何も着けていない梨香の豊満な肉体が揺れた。梨香の印象は一言で言ってしまえばまさしく官能的であった。学生の頃からそうであり、三人が所属していた美術部の中でも人気があった。梨香は修の先程まで背中をなぞっていた手に擦り寄る。その仕草は行儀のよい猫のようであった。修は梨香のしたいようにさせている。


「今日は帰るんでしょう」

「そうだな」

「もう一度シャワー使う?」

「ああ……いや、いい。家で浴びるよ」


 修はするりと梨香の顎の下を人差し指の側面でなでると、あっさりベッドから立って身支度をした。時計を見ると丁度八時を過ぎるところだった。


「じゃあ梨香、また」

「ええ」


 修が出て行くのを、梨香はベッドから見送る。梨香にはベッドから廊下と玄関までが一直線に見えた。修が後ろ手で閉めるドアの隙間から、空も見える。濁った紫の色をした都会の明るい夜空だ。そして修がドアを完全に締め切って歩き出す音を聞いてから、梨香も動き出して、室内着の簡単な服に着替える。夏の暑い部屋だったが、寒さを覚えてサマーカーディガンも一枚羽織った。しかし風邪ではないと梨香は知っている。修と身体を重ねてしばらくは、身体の底から冷えたままなのだ。


 梨香は冷蔵庫を開けて、野菜室からありったけの野菜を出す。キャベツ、ルッコラ、サニーレタス、そして林檎。台所をいっぱいにして、梨香はそれらを切り刻む。ふと葉物野菜が食べたい気分になったのだ。ルッコラとサニーレタスは大きめに千切った。大雑把と言われてもいい大きさでさえあった。

 しかし梨香はそれでよかった。しっかりと咀嚼したい気分であったのだ。ひんやりとして張りのある葉っぱは、梨香の指先に心地よい感触を残して千切れていく。


 そして梨香はそれを浅い銀のボールに盛って、市販のオニオンドレッシングをかけた。かけてから梨香は、別のドレッシングにすべきだったか、それとも簡単にでも自分で作るべきだったかと考え込む。しかし自分で食べるのだと思い出し、食卓に着く。元から修の分なんて用意していなかった。修が来ることはわかっていたが、修が帰ることもわかっていたのだ。

 梨香は重いグラスに良く冷えた檸檬水を注ぐ。檸檬水は一から梨香が作り置きしているものだ。修は檸檬水がお気に召さないようで、もっぱらこの檸檬水を飲むのは梨香であった。


「いただきます」


 口にしたサラダは、ルッコラの苦みと辛さが押し出されていた。辛くて香ばしく歯ごたえのあるサラダを、梨香は黙々と食べていく。歯に当たった林檎を噛み砕き、大きなサニーレタスも咀嚼して青臭さと共に飲み込む。唇に残ったドレッシングまで綺麗に舐め取った。


「ごちそうさまでした」


 梨香は冷えた野菜を口いっぱいに頬張って、気分が晴れていくような、沈み込むような微妙な気分になっていた。しかしそれを口にする相手は、とうの昔にドアから出て行っている。だから梨香はグラス一杯の檸檬水を音を立てて一気に飲む。砂糖も何も入れない、本当に透明の爽やかな檸檬水だ。




修が部屋に戻ると、ベッドの上には既に先客がいた。それは遥でももちろん梨香でもなく、そして女ですらなかった。しかし修は驚くこともなく、ネクタイを緩めて上着をかけながら男に声をかけた。


「何を読んでいるんだ」

「……伊藤整」


 男は修の本棚から本を抜き取っていて、ベッドで寝ながらそれを読んでいた。読み進めるのかと思って修は男を放ってテレビを付けるが、男はあっさり本を元の位置に戻した。そして男はぐいと修の手を引いた。


「読むんじゃないのか、透」

「もういい」


 透は修にそう答えて、ベッドに腰掛けた修をさらにベッドに引きこんだ。シャワーぐらい浴びさせてくれと頼む修の言葉を聞き流して、透は修のシャツをしわにならないように脱がせた。修はゆっくり息を吐く。

 若いなと唇を動かそうとしたが、近づいて来た透の顔にそれを阻まれた。透の滑った舌を感じながら、修は諦めて透のしたいようにさせることにした。修はいつだって透に抵抗らしい抵抗をしたことがなかった。


「今日は梨香か」

「嫌ならシャワーを浴びさせてくれ」


 梨香の残り香が鼻についたらしく、透が低く唸る。しかし修の言葉には聞く耳を持たない。修も修で言うことを聞かせる気は希薄だった。

 遥も梨香も透も、修とは大学の美術部で知り合った。修と身体の関係を持ったり付き合ったりしたのは、皆同じ時期の大学三年生の初夏だ。遥も梨香もそれぞれが浮気されているということを、もちろん修は伝えていない。透とは身体の関係きりで、全てを知っているのは透だけである。少なくとも透はそう思っている。


「俺以外の男に目覚めたりしないの?」

「今後あるかもしれないな」


 透が修の男の割に薄い肩に歯を立てると、修はうめき声を上げた。修は最初から従順であった。透が抵抗を承知で酒の力も借りて、修を押し倒したのは大学の三年生の時であったが、その時からすでに修は無抵抗で、ただ一言、そういうのもいいのかもしれないと言ったきりだった。

 修という人間は、そういう男である。こちらが両手で緩く捕えたつもりでいても、その実本当は触れてもいない。透はそう思っている。きっと修は煙かなにかと同じものなのだ。修は自分達三人それぞれと同じように関係を結んでいるが、しかし決して修は明確に、透のものだけにはならない。身体だけでいいと最初に言ったのは透であり、修は承諾したのだ。


「透」


 低い声で修が呼び、色素の薄い目でこちらをすいと真っすぐ見て来る。透は、濃い紫にくっきりついた歯型に唇を寄せた。そして透は修の目を見返す。瞳の中に浮かぶ筋の一本までが見てとれるまで。そして修はいつもそこで道具を持ってバスルームに入る。しばらく戻って来ないということも透は知っている。しかし興醒めと軽く言うことも出来ないのだ。簡単に言ってしまえば、同性同士の行為に事前の準備は欠かせない。


 透が修に準備の仕方を教えたのは、あの初めての夜であった。透は同性同士の行為が初めてではなかったし、透自身受け入れる側を経験している。そして何より透は決して修のことを傷めつけたいわけではなかった。だから修から了承が得られた後、透は彼を自分の家に連れて行き、間違えのないように修に教えた。

 そんな、修にとって日常とはあまりにもかけ離れているであろう行為の事前準備の説明でも、修は恐ろしい程従順に受け入れた。見慣れないだろう器具にも感触にも、淡々と。当時そんな修の様子に、透は酔いも一気に覚めたものだ。そして何度も大丈夫かと修に確認を取り、修本人にまで笑われる始末だった。


 そうして口頭での説明も済み、透は無言で爪を深爪になるほど切る。念には念を入れてやすりもかけた。直腸に触れる行為には、どれほど念を入れても足りない気がして落ち着かなかった。そしてゴム手袋を付ける。腸内洗浄の初めの何回かは透が行った。

 後にも先にも透がやったのはその一回きりで、その後すぐから今までもずっと、行為前の準備に修は透を立ち入らせない。


 透は修がバスルームに籠っている間に爪を切りやすりをかけ、そして自分で用意した葡萄のチューハイを半分だけ飲む。チューハイは日によって梅酒やハーフボトルのワインになったりする。要はあまり強過ぎないアルコールであれば何でもいいのだ。それをきっかり半分飲む。

 そうして修がバスルームから戻って来るのを待って、ようやく行為に及ぶ。そうして真夜中に一人、温くなった残りの酒を、透は喉にだらだらと流し込むのだ。


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