優しく、そして悲しい嘘
魔物達の進軍は止まらない。ここまでたどり着くのも時間の問題だろう。
逃げなければ……逃げなければ自分たちは確実に殺される。
そう頭では理解していてもしかし、体は石のように動かない。
「いや、いやだ……死にたくないよ……誰か助けてよ……」
エマがそうして絶望の中に沈もうとしていた時、しかしまだ心が折れてないものがいた。
「みんな何してるのッ!! 逃げるのよ、立って、少しでも遠くへ!!」
「……でも、もう……」
「でももくそもないのッ!! 逃げても逃げなくてもこのままじゃどっちにしろ死んじゃうのよ!? なら少しでもできる事をしなきゃダメでしょう!!」
エマの母であるマリナは気丈に声を上げる。彼女は元冒険者であったが故に、僅かではあるがこういった事態への耐性ができていたのだ。そしてそれは彼女の夫であるエリックも同じである。
マリナの言葉に同調するようにエリックは言った。
「みんなマリナの言うとおりだろう!! 生きることを諦めちゃいけない!!
どんなに見苦しくても、どんなにみっともなくても、どんなに情けなくても、足掻くんだ。生きるために!!」
必死に、みんなの心に届くようにエリックは言葉を紡ぐ。そして、
「そうだの、その通りかもしれんな……」
「ええ、そうね。どうせなら足掻かなきゃね……」
「ここで諦めて死ぬなんて、俺もごめんだよ」
そしてそれは絶望に埋め尽くされていたみんなの心に僅かな炎を灯した。届いたのだ。
一人、また一人と立ち上がり、気がつけば村の皆は全員再び立ち上がっていた。
一人が言った。
「それで、具体的にはどうするんだ!?」
「エリック、どうすればいいかしら?」
「そうだね、やはり森を通って王都の方向へ向かうのが最善じゃないかな?
あそこならそう安々と突破はされないだろうし、ギルドを利用した救援にも期待できる」
「そうね、私もそれが一番だと思うわ。そう言うことよ皆! それじゃあ立って! 逃げるわよ!!」
二人は冒険者時代に培った屈強な精神と正確な判断力をもって村の人々を率いると、森の中へと逃走を開始した。
◆◆◆◆◆◆
「フハハハ、愉快愉快!! やはりムシケラ共が地面に這いつくばり、我に恐怖する様は実に愉快だ!!
これだからムシケラ共を蹂躙するのはやめられないな!!」
魔人アドラメレクは自身の目に映る光景を前に、顔を愉悦に歪めていた。
アドラメレクは現在、数千の魔物を引き連れて人類の都市を蹂躙するべく、歩みを進めている。
アドラメレクという魔人は誰かの苦しみを見るのが好きだった。
不幸を見るのが好きだった。
悲しみを見るのが好きだった。
絶望を見るのが―――大好物だった。
人類などという生き物は所詮は魔族の下等生物に過ぎない。いわば家畜と同じ。彼ら魔族のあらゆる欲求を埋めるためにのみ存在する奴隷。
それが彼、いや、大方の魔族の人間に対する認識であった。
今も彼は人間の都市を蹂躙するにおいて、その通り道にある村の者達が苦しみ、嘆き、絶望する様を見て、愉悦に浸っていたのだ。
「いやー、無様だな!! 我らに蹂躙されるまで、そうして這いつくばって居るがいいわ!
がはは……って、ん? 何だあいつらは?」
それは二匹の雌と雄だった。その二匹は地に這いつくばる有象無象とは違い、この大軍を見ても諦めず、絶望に落ちた者を再び立ち上がらせている。それはとても、アドラメレクにとって気にくわない光景であった。
「……なんだあいつらは、この大軍を前に、未だ膝を屈さないものがいるだと!?
……気にくわないな。しかもあいつら森に逃げる気か? ますます気に入らんぞ?
だが、それ故に奴らが絶望する姿に興味が出て来たな?」
獲物は手に入れるのに苦労したものほどおいしく感じられるものだ。であれば、この状況においても絶望しない。そんな屈強な精神を持つ者達が絶望に表情を歪める様をこの目に収める。それには想像するだけで興味をそそられるものあった。
「おい、貴様ら。足を早めろ。奴らを逃がさず、徹底的に蹂躙するぞ」
アドラメレクのその声に答えるように魔物達はそれぞれ声を上げ、進行速度を早める。
絶望はエマ達へと、速度を上げて近づいていた……。
◆◆◆◆◆◆
「さあみんな、走ってッ!! 時間が無いわ!!」
タール村の面々は森の中を必死に駆けていた。
しかし、日は既に落ちかけている上に、普段あまり森の深いところまで立ち入らない彼らは森に慣れていない。その上、子供達もいるとなれば、あまり逃げる速度が出ないのも当然の事であった。
「う~、お母さん、疲れたよ……もう走れないよ……」
「何言ってるの!? いいから走りなさい!! 死にたくないなら全力で走るのよ!!」
そんなやり取りが集団の随所で聞こえる。大人でもかなり辛いのだ。そんな道を子供達に走らせているのだからこうなるのも当然だろう。
「これはちょっとまずいかしらね……」
「そうだねマリナ。これは追いつかれるのも時間の問題かもしれないな……」
マリナの隣でエリックも弱々しく呟く。既に彼らが育った村は蹂躙された。思い出が詰まった家、場所、物。それらは殆ど魔物どもに蹂躙されてしまったのだ。
だが、まだ自分達は生きている。思い出なら、生きてさえいればいくらでも新しく作り出せる。だが、命は創り出すことはできない。
今自分達にできるのは、逃げること、ただただ逃げ続けること。それのみであった。
だが、このままでは誰一人助かることが無いのは既に目に見えている。
だとすれば……。
「……やるしかないわね」
「……マリナ、まさか」
エリックもマリナがしようとしていることをどうやら悟ったらしい。苦虫を噛み潰したかのような表情をしながら、何か他の方法を考えているようだった。……そんなものがあるはずないというのに。
「あなた……これ以外に道は無いわ。そうしなければ、全員死ぬだけよ」
「だが! それでは君が!!」
「いいの……私は皆が……あなたとエマが生きていてくれれば、それで、それだけで十分幸せよ? だから……いいのよ」
そう、それがあれば十分だ。自分の命一つを犠牲に捧げる。ただそれだけでもしかすると僅かとはいえ、皆が逃げるチャンスを作ることができるかもしれない。その事実があれば、それだけで……自分は戦える。
マリナはそう心を決め、エリックに後のことを頼もうする。がしかし、
「そうか……なら、私も行こう」
「……え、あなた、何を……」
「だから、私も君とともに行くと言っているんだよ。考えてもみろ、妻を一人で死地に向かわせる夫がどこにいると言うんだい?」
「それは、それは、わかるわ!! でもそれじゃエマが……」
それではエマが一人になってしまう。おそらくだが、この役目を引き受けたものは十中八九死ぬ。ここでもしも二人一緒にこの役目を担ってしまえば、エマは唯一人、取り残されてしまう。エマはいくら賢く成長しているとは言っても、まだまだ子供だ。そんな彼女を一人で残していくわけにはいかなかった。
だが、そんなマリナの心境をまるでわかっているとでもいうかのように、そして、そのマリナを諭すようにエリックは続ける。
「大丈夫、エマには村の皆がいる。それに、私たちにはもう一人、家族がいるだろう?」
「…………っ」
エリックに言われ、マリナは彼の顔を思い出す。ある日唐突に自分たちの前に現れ、そして短い間に深い絆を作っていった彼の、彰のことを……。
どこか抜けてはいるものの、とても優しく、頼りがいがあり、どこか彼に任せておけば大丈夫と、見る者にそんな気持ちを与える不思議な青年。確かに血のつながりはない。されどそんなことは関係なく、大切であると、心の底から思える自分たちの息子の姿。
その姿を思い浮かべていると、いつの間にか自然と心配だったものが全て消え去っていた。大丈夫、彼になら、彰になら安心してあの娘を任せられる。そう、思った。
「ふふ、私としたことが……そうね、そうだったわ。私たちにはまだ彼がいるのね……」
エリックはふっと、優しい笑みを浮かべて言った。
「ああ、そうだ、だからこそ、私たちは安心して行けるんだ。そもそも、あの大群は君一人じゃ抑えきれないだろう? 見栄をはっちゃいけないよ?」
「むぅ……そ、そんなことないわよー、私一人でも時間稼ぎくらいちゃんとできましたもんねーだ!!」
「ははは、そうかいそうかい、なら二人なら時間稼ぎ以上のことができそうだね、マリナ?」
「なっ……もう、敵わないわね……でもええ、二人ならきっと大丈夫。私たちは死にに行くんじゃない。生きるために戦いに行くのよ!」
……そう、わかってる、そんなのは詭弁だ。あれに突っ込めば自分たちは確実に死ぬ。
それは変えようのない事実で、疑いようのない真実で、絶望的な現実だ。
だが、せめて……せめて今だけは、そんな優しい嘘があってもいいだろう。
「それじゃあ……行こうか、マリナ」
「ええ、あなた、行きましょう。全員で生き残るために」
そうして二人は村長に後のことを頼むと告げ、僅かな希望を胸に絶望へ向かって身を翻し、駆けだした。




