名もなき色。
最近、悠樹の様子がおかしいような気がする。
どこがおかしいとか、前と変わったとか、具体的には説明できないけれど……間違いなく何かが変わった。
話し方も、笑顔も、少しも変わらない筈。けれど、何かが違う。
それは、雰囲気とか、纏う空気とか、そんな目に見えないようなものなのかもしれない。
◆◇◆◇
「あ、悠樹! ちょっと待って……」
「悠樹くん!? おい……」
藤ヶ谷先生と私が呼び止めるのを無視して、悠樹は診察室から出て行ってしまった。単に聞こえなかっただけなのか、或いは敢えて聞こえなかった振りをしたのか、それはわからないけれど。
「あーあ……。行っちゃった」
私は小さく呟いた。すると、
「悠樹くんさぁ……最近なんか変じゃない?」
先生がドアから廊下を覗きながら言った。
それは、私も最近感じていたことだった。
「やっぱり、先生もそう思いますか?」
私は頷き、聞き返す。
すると、先生はドアを閉めてキャスター付きの椅子に座り直し、椅子ごと私に向き直った。
「うん……俺もね、よくわかんないんだよ? でもさぁ、なんかこう……」
先生は上手く言い表せないのか、そこまで言って考え込む。
私も、悠樹が変だと思いながらも上手く表せずにいたから、それはよくわかった。
ぴったりとあてはまる言葉が見つからないのだ。
「わかります。変だなー、とは思うけど……何が変なのかはわからなくて……なんか……うーん、何て言うんだろ……。雰囲気……かな?」
自分でも要領を得ない説明であることはわかっていた。けれど、それくらいしか近い感じで当て嵌まる言葉が見つからなかったのだ。
「あー、雰囲気ね。……うん、そんな感じかな」
それでも先生は、何度か頷いて肯定した。
藤ヶ崎先生は、悠樹が五歳で初めて入院した時からずっと悠樹のことを担当しているお医者さんだ。
確か今年で三十二歳になるけれど、爽やかな見た目からは全くそうは見えない。
割とかっこいい男の人だ。
「……で、何度も聞くけど、別に悠樹は走って病院に来たとか、無理な動きをしたとか、そんなわけじゃないんだよね? ただ、急に咳き込んだかと思ったら蹲って、さっきのあの状態?」
先生は椅子を回転させて机に向かい合うと、私に確認しながらカルテに何かを書き出した。
「そうです。私、びっくりしちゃって……こんなこと今まで無かったのに」
ふと診察室の隅にある棚に目をやると、患者さんのカルテのファイルばかりが並んでいる段があった。『有阪 悠樹』の名前が背表紙の部分に入った物もある。他の患者さんのカルテに比べると、随分と量が多い。悠樹の分だけファイル三冊分くらいにわたっている。悠樹はそれだけ長い間この病院に通い続けているのだ。
「うーん……」
書き終えたらしいカルテを眺めて先生が唸った。
「原因がわかんないんだよな……。走ったわけでもなく、無理な動きをしたわけでもないとすると……。あとは極度の緊張? というか、こう心臓がバクバクっと」
先生はそう言って私を見た。覚えはないか? と、その目は訊いていた。
「いえ……。無い、と思いますけど」
「だよねぇ。陽依奈ちゃんとは長い付き合いだし……。今更緊張ってのもな」
うんうんと頷き、先生は椅子から降りて棚からファイルを取った。
「あ。でも――陽依奈ちゃんが落ち着いてナースコールしてくれたお陰で、大事に至らなかったから。ありがとうね」
ファイル片手にそう言って少し笑ってから、先生は再び椅子に腰かけた。
でも、それは悠樹に言われたからしただけなんだ。私は一人で慌てていただけ。私、何の役にも立ってないんだよ……。
「ええっと。前回の発作は六月十七日か……。前回はかなり酷かったよな。学校で倒れて総合病院に担ぎ込まれてる」
先生はファイルを捲りながらぶつぶつと何かを呟いたり、メモに何かを書いたり、パソコンで症状について調べたりし始める。
「あのー……私、もう帰ったほうがいいですか?」
完全に仕事モードに切り替わった先生の背中に声をかける。
「……うん? ああ、ごめんね。居たかったら居てくれてもいいけど、話とかはできないと思うから……。また原因について思い出したりしたら教えてよ」
先生は首だけ振りむいて、ひらひらと手を
振った。
「あ、じゃあお邪魔しました」
私は診察室を後にした。
――――私はベッドの上で、真っ白な天井を見上げて最後に悠樹に会った日のことを思い出した。
あれから一週間。一度も悠樹には会っていない。
「何だろ……。なんか落ち着かないよ」
前までは一週間くらい会わなくたって何とも無かったのに。胸がざわついて、落ち着かない。
「心配だから……だよね」
発作を起こしてからそんなに時間が経っていない身体で帰って行ったから。それ以外に理由は見当たらなかった。
だって、おかしいよ。悠樹の顔が見えないと――――胸が苦しい、なんて。
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