急変
「先輩、私……先輩に聞いてほしいことが……あるんです」
決心したかのように顔をあげて、まっすぐに俺を見据えてくる。
「な、なに」
強い目で見られて、俺はちょっと圧倒されていた。
なんか怖いんだけど。睨まれてるのか? なんだよ……。
思わず一歩後ずさった。すると、笹原が一歩詰めてきたので結局距離は変わらない。
「私、先――」
笹原の言葉を、電子音が遮った。
携帯は昼間にソファーの上に投げ捨てたが、さすがに夜出歩く時はと思って持ってきたのだった。
電話がかかってきた際の着信音だった。
「えぇと……」
携帯を入れたポケットと笹原を交互に見る。
やっぱり真剣な話みたいだから、出ずに笹原の話を聞いた方がいい、よな?
そう思っていたのだが、笹原は以外にもポケットを指差して、
「出た方が良いですよ。大事な用事かもしれないですし」
と言った。
「そうか? ごめん、じゃあ出るな」
笹原に悪いとは思ったが、なんとなく、予感がした。
この電話に出なければ後悔することになるような……そんな予感が。
今思えば、これが虫の知らせというやつだったのかもしれない。
着信を示す画面をフリックして応答する。耳に携帯を持っていき――
「はい、俺……」
『すぐ病院に来て!』
瞬間、耳に飛び込んできた悲鳴のような有阪の声。
「なんだ、どうした?」
ただならぬ空気を感じとり、すぐに状況を尋ねる。
『お姉さんが、陽依奈ちゃんが!』
「前園先輩?」
向こうも慌てていて、なかなか状況が把握できないが、前園先輩に何かあったことはわかった。
『急に、倒れて、それで』
頭が真っ白になった。全部飛んだ。
容態が急変? 危険な状態? この間は元気そうだった。一時帰宅するとか言ってなかったか?
『とにかく、総合病院まで早く来て!』
電話が切れた。
「先輩、大丈夫ですか?」
なんだ? どういうことだ? 俺はどうすれば良いんだ? まず、急いで病院に行けばいい。それは分かる。でも、でも……。
「先輩!」
「……どうしよう、真琴ちゃん……」
自分でもびっくりするくらい情けない声が出た。動揺しすぎて、喉の奥がくっついて声が掠れている。
「さっきの電話、どういう内容だったんですか?」
「先輩……前園のお姉さんが、入院先の病院で具合悪くなったって、急に倒れたって……!」
どうしようどうしようどうしよう。違う、病院に行くかどうかじゃない。そんなの行くに決まってるだろ、今すぐ行かないと。違うそうじゃない。行くか行かないかじゃなくて、
……先輩に、もしものことがあって、助からなかったら、どうしよう。
俺は、そんな場面にいたくない。人が、身近な人が死ぬところなんて見たくない。
「ど、しよ……」
雨足が益々強くなる。傘を差しているにも関わらず、横殴りの雨に髪の毛や靴がびしょびしょになっていく。
手に持っていた携帯が滑って、派手な音を立てて地面に落ちる。その上にも雨は容赦なく降る。
だんだん指先から冷えてきて、震えが足元から上がってくる。
「俺、無理だ……見たくない、見たくない……先輩……先輩、が……死、」
多分、今俺は引くくらい情けなくて、顔面蒼白なんだろう。傘を落とさずにいるのがやっとだ。
「行きましょう、先輩」
真琴ちゃんが落ちた携帯を拾い、俺の手を握って、駅の方に歩き出す。途中にバス停があるから、そこでバスに乗るつもりなんだろう。
こういうとき、女の子は強い。本当は男の俺がトラブルにも慌てずに対応できなきゃいけないのに、実際は逆だ。
俺はメンタルが弱くて、何か起こるとパニックみたいになってダメだ。人のことならさほど慌てずに助けられるが、自分のこととなると。
女の子に手を引かれて俯いて歩く男なんて。みっともないなぁ。
「大丈夫ですよ。今日は体調が悪かっただけで、また元気な前園先輩にすぐに会えます。
だから、ちゃんと息してください。息が速く浅くてふらふらしてますよ」
若干過呼吸気味だった。
「いったん止まりましょう」
二人して立ち止まり、真琴ちゃんのゆっくりした背中ぽんぽんのリズムに少しずつ呼吸を戻していく。
「先輩はストレスとハプニングに弱いですもんね……あんまり抱え込まないでください」
情けなくて情けなくて、涙が滲んできた。
後輩にあやされてるこの状況が。
好きだった人の身に異変が起こっても、すぐに駆けつけられない自分が。
ちょっとイレギュラーな事態が起きただけで、過呼吸になるような弱さが。
今回だけじゃない。いつもいつも、肝心なところで怖気付いて。
全部が情けない。
気づかれないうちに、さっと涙を拭おうとしたけど、やさしく頭を撫でられたあたり、多分見つかってたんだろう。
俺が途中で立ち止まらせたせいで、ついたバス停からはバスが丁度でてしまったところだった。ここから駅まで歩くと、時間がかかり過ぎる。
仕方なく、通りかかった空車のタクシーを止めて、総合病院までの値段を聞いた。なんとか手持ちぎりぎりで足りる額だったので、タクシーでいくことにした。今この状況では、金がどうこう言ってられない。足りるだけ運がよかったと思わなくては。
運転手さんはびしょ濡れの俺たち――特に俺がひどい--を見ても嫌な顔もせず、むしろ心配してくれた。
高校生と中学生がタクシーを拾うなんて、変に思われてもしかたないと思っていたが、それもなかった。
行き先を告げると、なんとなく察してくれたようだった。
俺の果てしなく情けない表情と、心配そうな真琴ちゃんの顔を見て、身内に何かあったとわかってくれたのかもしれない。
少し落ち着いてから、真琴ちゃんが拾ってくれていた携帯を受け取ると、液晶がバキバキに割れていた。
中だけじゃなく、表面までやられていた。なんとか使えるが、雨に濡らしたせいで壊れかかっているらしく、なんとも不安になる動作の遅さだった。完全に壊れたら買い換えるしかない。
車だと意外と近く、総合病院には思ったよりすぐに着いた。お金を払い、タクシーを降りる。
正面玄関を入ると、あっちに行ったりこっちに行ったり落ち着きなく動き回っている有阪がいた。
「有阪」
声を掛けると、ぴたりと動きを止めてこちらを向いた。
「あぁ、やっと来た。雨で大変だったね……」
当たり前だが元気のない声だ。
有阪は俺たちについてくるように言い、どこか別の場所に向かい始めた。




