飲み込んだ言葉。
「ここが俺の部屋」
先輩は、1202号室の前で立ち止まり、インターホンの上に掛かっているプラスチックのプレートを指差した。そこには綺麗な字で『叶琥珀』と書かれてあった。
「ちょっと待って……」
ポケットを探って鍵を取り出すと、それを鍵穴に入れて回す。カチリ、と小気味いい音がして、鍵が開いた。――筈だけど、先輩はまだ何かをしていた。横から覗いてみると、機械に指を当てている。
インターホンとは反対側の壁についている、二センチ四方の箱のような機械だ。もしかしてこれは、指紋認証?
先輩はしばらく機械に指を置いていたけれど、やがてピピーという電子音がして、その後にガコッと何かが外れるような、少し重い音が聞こえた。
「すごいセキュリティーですね」
「いや、めんどくさいったらないよ。どんな時でもこれをやってからじゃないと、自分の部屋に入れないんだぜ? 例えば、すごい熱で病院帰りでも、危ない目にあって部屋に逃げ込もうとしても、だ」
先輩は少し嫌そうな顔をして言った。
うわぁ……そう考えると、面倒かも。
「まぁ、入れよ」
ドアを開けて、待ってくれている。私は先輩の家の敷居をまたいだ。
入るとすぐに長い廊下があって、途中に部屋へつながるドアがいくつかある。入ったときはよくあるマンションの造りだと思った。
それが変わったのは、廊下を奥まで進んでリビングに通された時。
ソファーがあって、テレビがあって、テーブルがあって、それでもまだまだスペースには余裕があった。広い。この分だと、他の部屋もすごく広いだろうし、部屋数も多いだろう。
調度品の色は、予想していた通り、モノトーンが多かった。テーブルは木だったけど。
それに、よく整頓されている。ちゃんと何がどこにあるか把握されてているに違いないと思った。
あ。よく見たら、この部屋にもどこかの部屋への扉があるのを見つけた。障子だから、和室かな? 障子はきちんとしまっていなくて、障子の向こうが見えそうだ。
「おい、あんまじろじろ見んな」
注意された。先輩は襖を閉めに行き、すぐに戻ってきた。
「すみません」
あまりに綺麗な部屋だから、つい。
「はぁ……。向こうは散らかってんだよ。恥ずかしいだろうが」
リビングの入り口で突っ立っていた私の腕をぐいっと掴み、テーブルの前に座らせてから、先輩はそう言った。
「待ってろ、ケーキ持ってくるから。あと、なんか淹れる。何がいい? なんでも良ければ紅茶にする」
「あ、紅茶がいいです」
答えると、『ん』と頷いて先輩はキッチンへと消えた。
ほどなくして、先輩がケーキと二人分の紅茶をお盆に乗せて戻ってきた。
ケーキは大皿にホールっぽく丸く並べてある。
私の前に紅茶とお皿、それからフォークを置いて、先輩は言った。
「ご自由にお召し上がりください」
冗談を混ぜた台詞は、よく浮かべる悪戯っぽい笑みによく似合う。
「すごい、全部美味しそう!」
「全部食っていいぞ」
自分の紅茶を手に、私の向かいの椅子に座る。
「わぁ、どれからにしよう……」
真っ赤な苺が乗ったショートケーキ?
黄色い栗のモンブラン?
チョコレートがたっぷり塗られたブッシュドノエル?
香ばしそうなアップルパイ?
それとも、チーズケーキ?
わくわくとケーキの上で指を行ったり来たりさせていると、携帯のバイブ音が聞こえてきた。音の元を探してみると、私達が今座っているテーブルの隅に先輩の物と思われるスマートフォンがあった。
先輩は携帯にちらっと視線を向けたけど、すぐに戻した。確認する気はないらしい。余計なことかもとは思ったけど、言う。
「出なくていいんですか?」
紅茶のカップを見ていた先輩は、私に視線を移した。少しの間私を見つめていたけど、しばらくして携帯に手を伸ばした。手に取って操作する。嫌そうに画面を追っていた先輩の表情が凍りつく。私が驚いている間に画面を消して、ソファの上に放り投げてしまった。
「……大した事じゃなかった。後で返事すればいいよ」
そうは言われても、ただ事じゃなさそうな顔だったよね。もしかして、大嫌いな相手からだったとか。
……だけど、そうだったとしても、あんな顔するかな? 最初の嫌そうな顔はわかるにしても、最後の顔。なんか、怖がってるみたいだったな。
私は、先輩の凍りついた表情を思い返してそう思った。
「……そうですか」
どう言おうか迷ったけど、結局深くは追及せずに終わらせた。誰だって知られたくないことの一つや二つあるよね。私だって、そうだし。
そして私は、先輩の表情から自分の判断が間違っていなかったことを知ることができた。先輩は少し表情を和らげて、ほっとしたように見えたから。
「どうしたらいいかわかんねぇ相手って、たまにいるよな」
いつもの冷静な声で言って、紅茶を飲んだ。私はそれを見て、一枚の絵みたいだな、なんてありきたりなことを思った。
「ところでさ、バスケ部うまくいってんの?」
カップを受け皿に置いて、先輩が部活について訊ねてきた。
「はい、みんなで頑張ってます」
「お前らもそろそろ引退だもんなぁ」
テーブルに頬杖をつき、首を傾げて、さみしい? と訊いてくる。
「さみしい、ですねやっぱり」
「だろーなぁ。俺も引退してしばらくは、どっかに穴空いたような気分だったし。それに、部活も終わったらいよいよ受験って感じだろ。ちゃんと勉強してる?」
「はい、一応は」
「塾とか行って?」
「はい」
「どこ受けんの?」
私は苺のショートケーキを取って、口に運ぶ。
「帝成来ねぇ?」
先輩が行ってる高校。帝成高校。御上園ならそのまま高校もあったのに、なぜか先輩は公立高校を受けて、御上園を離れてしまった。
「帝成は楽しいよ。バスケも強いし」
俺はバスケやってねぇけど、と付け加えた。
「でも、帝成って頭良いじゃないですか」
公立ならこの辺りでは一、二を争うレベルの進学校。毎年、有名大学の指定校推薦が沢山もらえるらしい。
私の頭ではとてもじゃないけど今から目指して行ける高校ではない。
「入ってしまえば楽なもんだよ」
新入生挨拶をした人とは世界が違うと真面目に思った。
帝成高校では、新入生挨拶をするのは入試成績トップの生徒だと塾で聞いた。
「優しいやつが多いし、部活も沢山あるし」
自分の高校の魅力を語る先輩。
「いい学校なんですねぇ。私もできることなら行きたいです」
「書道部入らねぇ?」
なんで書道部?
「書道部ですか?」
「そ。言ってなかったっけ? 俺書道部入ったんだよ」
本気でびっくりした。バスケから書道部は意外すぎた。
「なんでまた?」
「けっこう勧誘しにきてくれたし、習ってたこともあったから。男子俺しかいねぇけど、文化祭ではパフォーマンスもやるってよ。モップみたいなでかい筆使うやつ」
「あぁ、映画にもなってましたよね」
「そ。本番用の筆持たせてもらったけど、けっこう重いんだよ。振り回すのも一苦労そうだな」
半紙に向かう先輩を想像してみた。見た目には和風のものが似合わないはずなのに、妙にはまっていた。
なんでも似合うなんて、羨ましいなぁ。
てっぺんの苺を口に入れる。もぐもぐ、甘酸っぱい。
「すごいですね」
「一番下手くそだけどな」
照れたように笑って、謙遜。
文化祭見に行ってみたいです、と言おうとすると、それより早く先輩が口を開いた。
「あのさ……笹原」
真剣な表情だ。
「……なんですか?」
瞳に吸い込まれそうな気分になりながらも、返事をした。
「おれ、さ……」
迷いの混じる様子で言葉を紡ぐ先輩。
「はい」
相づちを打ったけど、なかなかその先が続いてこない。
「……?」
黙って待ってみても、続きはなかった。
代わりに聞こえてきたのは、
「……ごめんっ、やっぱりいいや」
素敵な笑顔と共に発せられた、明るい声。そして、会話の打ちきりを意味する言葉だった。




