貰い物と。
――眩しい。
そう思うと同時にベッドから身体を起こす。
瞼を開けるとまだ半分寝ている目に朝日が射し込んでき、ほぼ強制的に目が覚まされた。徐々にはっきりしてくる意識。
外して、枕元に置いてあった腕時計を手に取ると、針は午前九時三十二分を指していた。この起床時間は、いつもよりかなり遅い。どうやら携帯でセットしていた目覚ましの音にも気づかず、天然の目覚ましに起こしてもらったようだ。どれだけ爆睡していたんだと自分に呆れると同時に、少し損をした気分にもなったが、
――まぁ、たまにはこんな日もアリだろう。
そう思い直し、何度か頷いてみた。
すると僅かではあるが後悔の念は薄れ、今日しか出来ないことをしよう、と前向きな思考に切り替わった。
そうと決まれば、まずは朝飯だ。
俺は空腹を訴え始めた身体を抱え、キッチンに向かおうとしたが――途中で気が変わり、洗面所に行った。どうせなら顔を洗って、さっぱりしてから朝飯にしたほうがいいだろう。
冷水で、目許を重点的に洗ってから顔を全体的に洗った。ついでにうがいをして、今度こそ朝飯だ。
キッチンにある買い置きのパンの中から、何個か入りのバターロールの袋を取る。惣菜パンも冷蔵庫の中にいくつかあるが、今日は簡単に済ませてしまおうと思ったのだ。
先にポットに水を汲み、スイッチを入れておく。その間に食器棚から皿とグラスを取りだし、手に持ったままだったバターロールの袋と一緒に、シンクの横のスペースに置く。
そして、レンジの隣りの別の棚からインスタントコーヒーのビンを取った。シンク下の引き出しから取りだした小さめのスプーンを使い、ビンから適当な量のコーヒーの粉を掬ってマグカップに落とす。砂糖は入れない。丁度ポットの湯が沸いたことを知らせる電子音が鳴った。牛乳と氷を入れても溢れない量の湯を、グラスに注ぐ。冷蔵庫から三つほど氷を取りだし、グラスに入れてから牛乳を少量加えれば、俺流アイスコーヒーの完成である。
最後に、用意しておいた皿にバターロールを二つ乗せ、レンジで十秒温める。完成に要した時間は、約五分だ。
キッチンを出てすぐのリビングへ皿とグラスを持っていき、何故か四つある席の内の一つに着席する。
「……いただきます」
両手を合わせて、そう唱え、食べ始めた。
一人しかいない朝食は当然すぐに終了した。俺は食べるのが速いのだ、とよく言われる。
「なにしようかな……」
呟きつつ、椅子の背もたれに背中を預け、首を後ろに傾ける。世界が反転しただけだった。
よくよく考えてみれば、することがない。学校の課題も終わったし、取り敢えずこの洗い物を片付けるにしても、その後にすることが何もないのだ。
「暇だぁぁぁー、ぁ、ああぁっ!?」
椅子の前二本の脚を徐々に床から浮かせ、後ろ二本の脚でバランスを取って遊んでいたのだが、少し軸をずらした瞬間、椅子が派手な音をたてて俺ごと後ろに倒れたのだ。……我ながら馬鹿だと思った。
「痛ってぇー……」
床で頭を打った。そこまで強くはなかったが、十分痛かった。
…………もう、もういいや。洗い物片付けよう、洗い物。
一人だから良かったものの、かなり恥ずかしい状況だったと今更ではあるが気付き、無理矢理考えるのを止めてキッチンに入った。スポンジを取って洗剤をつけて泡立てる。
使うその都度洗っているため洗い物は全く溜まっておらず、今シンクにはグラスと皿、それとスプーンしかない。
ごしごしと少し力を込めて擦り、泡が消えるまで水で流して、布巾で拭く。
一人で暮らしていれば自然と家事に慣れていき、いつの間にか家事全般をまんべんなくこなすことができるようになっていた。
洗い物が済んだので、着替えることにした。自分の部屋――全部自分の部屋と言えば自分の部屋だが、着替えやベッド、机などを置いている部屋だ――に行き、適当に服を選ぶ。もちろん、外に出て人に会うときなどは真面目に考えて選ぶが、今日は一日中家から出る予定はない。Tシャツとチノパンで十分だろう。スエットのままでも良かったが、一応来客を考えてのことだ。
上の服を脱ぐと、当然のことだが自分の体つきがわかる。夏は流石に長く走れないので、最近はランニングのコースをショートカットしていたのだが……全体的に筋肉が落ちた。特に腹筋。そろそろ元のコースに戻すか? でも、気持ち悪いくらい体重減ったんだよな……。筋肉が落ちたからってだけじゃなさそうな減りかただったし、体がついていくかって話だよな……。まぁ、精神的な理由だとは思うけど。
着替えを進めながらぼんやりとそんなことを考えていると、ベッドの頭の方にあるボードの上で携帯が鳴った。メールの着信音だ。画面を表示させてみれば、液晶には『有阪』の名前。メールを開く。内容はこうだ。
『今日、言うことにしたから』
と、一行だけ。
ついにあいつの気持ちが決まったらしい。
『言う』とは無論、『告白する』という意味だろう。ならば、俺は――
「今日は家でゆっくりするかな」
わざわざ行って邪魔することでもないし、俺はここで静かに応援するとしよう。あいつも、現場に部外者がいるのは嫌だろう。特に、俺がいるのは。
『頑張れ!! 報告しろよー』
そう打ち込んで送信した、その時だった。
インターホンが鳴る。キッチンとリビングの境目にあるモニターの所まで急ぎ足で行ってみると、モニターには隣に住んでいる女性が写っていた。
「はい」
応答するとこちらに向かって微笑み、何やら手に持っていた箱を見せてきた。
『おはよう、琥珀くん。頂き物なんだけど……うちでも余っちゃって。良かったら貰ってくれないかしら?』
「あ、今出ます」
そう断ってモニターを切り、玄関のドアを開けた。
「おはよう。あらぁ、少し痩せたんじゃない……? 手が細くなったわ」
俺の手を取ってそう言うこの女性は、村上眞理子さん。今年で40歳になる、お隣さんだ。話し方からなんとなく察するとは思うが、エレガンスなマダムといった風貌の人である……というか、中身もそうだろう。
「そうですかね?」
そっと離された手を引っ込めつつ、訊ねてみた。
「えぇ、前に会ったときよりも細くなったわ。ちゃんと食べてるの?」
気遣うような視線を向けられた。
「食べてますよ。大丈夫です」
良い感じの笑顔になっているだろうか。
「そう? それなら良いんだけど……」
口元に手を添えて、うふふ、と笑う村上さん。
「ご心配いただいて……。ありがとうございます」
浅く頭を下げる。
「良いのよぉ。……それにしても、相変わらず美人さんねぇ。所作も上品で……きっとお母様の教えかたがいいのね?」
美人って……俺、男なんだけど。後半に至っては突っ込む気にもなれない。……なんて言えるはずもなく、曖昧に微笑むことしか出来なかった。
「本当に綺麗なお顔ねぇ……見とれちゃうわ」
「はぁ……」
だから、綺麗って言われても嬉しくないんだって。
「あら、ごめんなさいねぇ。話が逸れてしまって」
「いえ、そんな……」
「これ、さっきも言ったように頂き物……ケーキなんだけどね?」
……ケーキ。
「貰ってくれないかしら?」
「あの……俺、」
「遠慮しなくてもいいのよ? 受け取って頂戴」
……甘い物はちょっと。
そう言うはずだったのに。
「あ、じゃあ……ありがとうございます……?」
結局流されて受け取ってしまった。
「いいのよぉ。余ってしまうよりも、おいしく食べて貰えたほうが、ケーキも喜ぶでしょう」
おいしく……は、いただけないだろう。さて、このケーキをどうしよう?
「そうですね。本当にありがとうございます」
さもケーキが大好きだ、と言いたげな表情を偽造って再度お礼を言った。
「えぇ、それじゃあね」
軽く手を振って、村上さんは隣の自分の部屋に帰っていった。
さぁ、このケーキをどうしようか――。
俺は一人、ダイニングでケーキの箱を手に、立ち尽くしていた。しかし、いつまでも突っ立っているわけにもいかないので、とりあえず箱を開けてみることにする。
箱の側面には、俺でも知っている有名洋菓子店のロゴが入っている。その平べったい箱の中には、綺麗に飾り付けられた高そうなケーキが全部で五つ、整然と並んでいた。
種類はモンブラン、チーズケーキ、ブッシュドノエル、アップルパイ、それに苺のショートケーキ。
普通の人でも一人では食べきれないだろう。それを俺が食べられるわけがない。だからといって捨てるなんて論外。どうするべきか――。
ひとまずケーキを冷蔵庫で保冷しつつ、思案すること約十分。俺は閃いた。
――自分で食べられないなら、誰かに食べてもらえばいい。
俺とある程度交流があって、甘い物が好きな人間。すぐに何人か浮かんだ。
荒城先輩――いや、ダメだ。あの人はなんか家に呼びたくない。
前園姉妹――妹とはそこまで仲良くない。多分びっくりされる。やめとこう。
姉は入院中。当然無理だ。
しかし、肝心の家に呼べそうな人がなかなか浮かばない。
――あ。
ふ、と。本当に自然に俺の頭に浮かんだ人物がいた。
あいつは確か、甘い物が好きだったはずだ。自分だけじゃなく、人にまで食べさせようとするくらいに。
俺のことを『先輩』と呼び、似合わず女バスキャプテンなんかをしている、あいつは。
長い髪をポニーテールにした、俺的には胸部が少々残念だと――いや、なんでもない。これはあいつに聞かれたらヤバい。ぶん殴られる。
「笹原――」
あいつに声を掛けてみよう。
お読みいただき、ありがとうございました。
物語は着々と終盤に向かっております。どうか最後までお付きあいくださいませ。そして、最後までお楽しみください。




