小さな隠蔽。
「できた!!」
あの絵が完成した。優しい感じを表現したくて、敢えて水彩絵の具を使った。淡い色合いの着色になった。
絵のなかには、こちらに向かって微笑みかけるお姉さん――陽依奈ちゃん。
昨日、叶と内海が帰ってすぐに色をつけ始めた。今朝は早く目が覚めて、色を塗り終わった今はまだ8時少し前だ。
――ん? あれ……? この絵ができたってことは……。
「こ、こっこここっ!! こくはっ――!?」
「悠樹くん、おはよう。朝から鶏のモノマネ? 元気ねー」
「ぅわっ!?」
絶妙なタイミングで病室に入ってきた綾瀬さんに後ろから声を掛けられ、驚きのあまり叫びながら勢いよく息を吸い込んでしまった。そして、一瞬にして喉が乾ききるような、あの嫌な感覚に襲われる。
ひゅ、と喉の奥から妙な音が聞こえたら、その時にはもう手遅れだ。
元々僕は、一度咳が出始めるとなかなか止まらない。口を閉じて咳を押さえ込もうとしても、気管に入り込んだ唾液が咳に拍車を掛ける。
狂っていく、鼓動のリズム。
耳元で聞こえるように錯覚するほど、心臓の音が大きい。
こうなったら最後、次に気が付いたときには記憶が飛んでいて、発作の間のことは何も思い出せない。
瞳から生温い液体が溢れて、あの、絵、に、……
「 !!」
聞こえなくて、
「 、!?」
揺さぶられて、も、?
誰が、僕に、僕を、? 僕を揺さぶってる、の、?
真っ暗、に……。
何も、見えなくなって――僕が、傾い、た。
嗅ぎなれた薬品の匂いと、左腕の違和感。
目を開けると、染みの数まで言えるほど見慣れた天井。左腕には点滴の針が刺さっていた。これが違和感の正体らしい。
少し視線をずらすと、綾瀬さんがいた。
「ごめんなさい……っ。私がびっくりさせちゃったから……」
目が合うなり、頭を下げられた。最近、謝られることが多いな……。
「いいです、気にしないでください」
こっちが心苦しくなるほど申し訳なさそうな表情の綾瀬さん。そんな顔をしている人に、怒るなんて出来るわけもない。
『お前、お人好しだな。そんなんじゃ馬鹿みるだけだぞ』
いつだったか、叶に言われたことを不意に思い出した。
――そうかもねぇ。
と、苦笑した。
「本当に、ごめんなさい……」
「いいですって、もう大丈夫ですから。本当に……謝らないでください」
笑って見せる。
「優しいね……悠樹くんは。君のお嫁さんになる人はきっと、とっても幸せだよ」
大人が泣きそうになっているのを、初めて見た。
「そんなことないです。僕の周りにはもっと格好いい人や、明るくてみんなを楽しくさせられる人や……僕よりすごい人が沢山います」
謙遜なんかじゃなく、本当にそう思った。
「君には良いところが沢山あるよ。今まで、それだけ歪まずに真っ直ぐ生きてこれたことが、既にすごいことだし」
「そう言ってもらえると、嬉しいですけど」
あまり否定するのも感じが悪いし、素直に受け取っておく。
「うん。君はずっと歪まずに生きていって欲しいな」
「は、い……」
なんか、意味深だなぁ。
「また、なんかあったら相談乗るからね」
綾瀬さんは、そう言って立ち上がる。
「あ……待ってください!!」
本当にごめんね、そう言って病室を出ていこうとする綾瀬さんを引き留める。
「なに?」
引き返してきてくれた。
「僕のこと……藤ヶ崎先生に言いましたか?」
少し、声を下げた。
「言ったわ。点滴とか、治療してくれたのも先生だから」
「自分が、原因だって?」
「それ、は……まだ……」
口籠り、俯く。
「でも、これから言うつもりですよね」
目を見て、訊ねた。
「ええ。責任は取らなきゃ……」
頷く。強い意思を感じさせる口調だった。
「言ったらダメです」
同じくらい強い気持ちを込めて、言った。
「綾瀬さんが辞めさせられるかもしれないんでしょ? 辞めさせられなかったとしても、そんなこと言ったら何かの処分はされる……そんなの、ダメだ」
「…………」
「まだ、このことは先生も誰も知らない。僕ら二人だけだ。僕が勝手に発作を起こした――それでいいじゃないですか。わざわざ言わなくても、僕も気にしてない。大事にしなくてもいいんです」
綾瀬さんは大きく目を見開く。
首を横に振り、そんなことは出来ないと言うように僕を見つめた。
「馬鹿正直に白状しなくてもいい」
僕がいつもは選ばない、きつい言葉。
どちらかといえば叶が使う言葉。そして、叶の言葉には不思議な説得力がある。
それはきっと、叶が自分の言葉に自信を持っているからっていうのがほとんどだと思う。だから、僕が真似したところで説得力はあまりないかもしれないけど、少しでも強く、言葉を届けたかった……ん、だけど――
「……悠樹くん……」
そこで、言葉に詰まる。
やっぱりダメだ、人の真似じゃあ。
その人にはその人の言葉がある。一生懸命考えて口にした言葉にこそ、力があるんだ。
だったら、不格好だっていい。
『僕の言葉』で、ちゃんと。
「辞めないで欲しいんです。そもそも僕がびっくり し過ぎたせいだし、僕の我が儘だけど――それでも……それでも……」
上手く続かない。でも諦めるな、引き留めろ。
「僕は……綾瀬さんに励まされた患者さんがが沢山いることも知ってるし、僕は全然気にしてないから、だから――だから、辞めないでください……」
僕が言い切ったあと数瞬置いて、綾瀬さんは少しだけ微笑んだ。
「…………ありがとう。本当はダメなことだけど――先生には言わないでおくわ……」
そう言った綾瀬さんは、とても心苦しそうだ。顔では笑っているが、なんとなく伝わるものがあった。
だが、それも仕方のないことなのかもしれない。何しろ、とても小さいとはいえ事実を隠蔽したことになるのだから――。
「絶対にもうしないようにするわ。本当に、ごめんね……」
病室を出ていく綾瀬さんを、
「もう、気にしないでくださいね」
そう言いながら僕は見送った。
お読みいただき、ありがとうございました。




